2020年4月14日火曜日

制定法は(a)受けいれられた社会的道徳(b)広範な道徳的理想の双方から、多くの点で影響を受け、その安定性の一部を道徳に依存する。立法や司法過程、制定法を補填する原則など多様な方法で、法は道徳を反映する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法に対する道徳の影響

【制定法は(a)受けいれられた社会的道徳(b)広範な道徳的理想の双方から、多くの点で影響を受け、その安定性の一部を道徳に依存する。立法や司法過程、制定法を補填する原則など多様な方法で、法は道徳を反映する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】
 「(ii)法に対する道徳の影響 あらゆる現代の国家の法は、受けいれられた社会的道徳および広範な道徳的理想の双方からの影響を、たいへん多くの点で受けていることを示している。こういった影響は、立法によって突然に公然と法に入ってくるか、あるいは司法過程を通じて静かに少しずつ法に入ってくるかである。合衆国のようないくつかの体系においては、法的妥当性の究極の基準のなかに、正義の原則あるいは実質的な道徳的価値が明らかに含まれている。最高の立法府の権限に関して、形式的な制約の存在しないイギリスのような他の体系においても、その立法は正義あるいは道徳に注意深く従っているといえよう。法が道徳を反映する仕方はさらに多様であり、その研究はまだ十分されてはいない。制定法は法的な外被にすぎず、道徳的原則の助けをかりて補填されるよう明文で要求するかもしれない。強行可能な契約の範囲が、道徳や公正の概念によって限定されるかもしれない。民事的、刑事的に不法な行為に対する責任が、道徳的責任に関する広く行きわたった見解に照らして調整されることがあるかもしれない。どのような「実証主義者」も、これらが事実であり、法体系の安定性が、部分的には道徳とのそのような一致に依存していることを否定できないであろう。法と道徳には必然的な関連があるということをこの意味にとるならば、両者にこのような関連のあることは認められなければならないであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,p.222,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法に対する道徳の影響,道徳,社会的道徳,道徳的理想,制定法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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ある意見が正しいと推定し得るための必要不可欠な条件は、その意見に対する反論、反証をあげる完全な自由が存在することである。根拠の乏しい確信に基づいて、ある意見に対する反論の機会を奪うのは、誤りである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

反論、反証をあげる完全な自由

【ある意見が正しいと推定し得るための必要不可欠な条件は、その意見に対する反論、反証をあげる完全な自由が存在することである。根拠の乏しい確信に基づいて、ある意見に対する反論の機会を奪うのは、誤りである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「この反論に対して、こう答える。この反論は実際には、それ以上にさまざまな点を想定しているのだと。何よりも、反論の機会が十分にあるのにいまだに論破されていないという理由である意見が正しいと推定することと、反論の機会を奪うべきだとする理由としてある意見が正しいと想定することの間には、天地の開きがある。自分たちの意見に反論し、反証をあげる自由が完全にあることは、行動の指針という観点でみたとき、自分たちの意見は正しいとする想定の正当性を主張するために、まさに必要不可欠な条件である。これ以外にはどのような条件があっても、全知全能ではない人間は、自分の意見が正しいという合理的な確証を得ることができない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.47-48,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:反論、反証をあげる完全な自由,反論,反証)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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次の議論は正しいか。(a)誤謬の可能性があっても判断は必要、(b)絶対的な確実性はないが、十分な確信は得られる、(c)間違っており有害な意見は禁止すべき、(d)自分の意見に基づいて行動することは正しい。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

異論を抑圧することの害悪

【次の議論は正しいか。(a)誤謬の可能性があっても判断は必要、(b)絶対的な確実性はないが、十分な確信は得られる、(c)間違っており有害な意見は禁止すべき、(d)自分の意見に基づいて行動することは正しい。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 異論を唱えるたった一人に対してであっても、彼を沈黙させるのは不当であり、特別の害悪がある。それは、人類全体や次世代にも及び得る被害をもたらす。その異論が正しい場合も、間違っている場合も。なぜか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

(1)抑圧しようとする異論が、正しいこともある。
 抑圧された異論が正しかったとき、真理が失われる。なぜ抑圧しようとするのか。(a)自分の意見への愛着、(b)確信を正しさと誤解すること、(c)意見が、時代や国、所属する階級、党派、宗派に依存していることを忘れること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 なぜ、このようなことが起こるのかの理由は、以下の通りである。
 (a)自分の意見への愛着
  人間は間違いをおかすもので、どんな意見でも間違っている可能性があると理解していても、自分が確実だと感じている意見が間違いかもしれないとは、思わない。
 (b)確信を正しさと誤解すること
  自分の意見が正しく、異論が間違いだと確信しても、確信自体が自分の意見が正しいことを保証してくれるわけではない。
 (c)意見は、時代や国、所属する階級、党派、宗派に依存する
  仮に、自分ひとりの判断ではなく、「世間」では、このように考えられているということを、根拠にしても、そもそも「世間」とは、抑圧しようとしている人が、普段接している人たち、つまり所属する党派や宗派、教会、階級を意味しているにすぎない。そして、数多い世間のなかで、どの世間を信頼するのかはまったくの偶然によって決まったのである。

(2)異論の抑圧を正当化しようとする言い分
 (a)間違いをおかす可能性があっても、判断は必要である
  もちろん、間違いをおかす可能性は認める。しかし、判断を間違う可能性があるからという理由で、判断力を使ってはならないとは言えない。
 (b)絶対的な確実性はないが、十分な確信は得られる
  政府は、そして個々人は、できるかぎり真実に近い意見を注意深くまとめあげ、その意見が正しいという確信をもてないかぎり、他人に強制しないようにする義務を負っている。絶対に確実だといえるようなことはどこにもないが、人間が生活していくうえで十分だといえるほどの確信は得られる。
 (c)間違っており有害な意見は禁止すべきである
  もし、人間の幸せにとって危険だと確信する考え方があって、それに何の制約もせずに、広まっていくのを許容してもいいのか。間違っており、有害だと考える意見を、悪人が広めて社会を邪道に導くのを禁止しなければならない。
 (d)自分の意見に基づいて行動することは正しい
  自分の意見が間違っているかもしれないという理由で、それに基づく行動をとらないのであれば、われわれは自分たちの利害に配慮することができず、義務を果たすこともできない。意見の正しさを確信しているのであれば、その意見に基づいて行動するのをためらうのは良心的な姿勢ではない。

 「以上の主張に対する反論はおそらく、以下のようなものになるだろう。政府は間違った意見の流布を禁止するとき、政府の判断と責任において行う他の行動と比較して、間違いをおかす可能性をとくに低く想定しているわけではない。人に判断力があるのは、それを使うためである。判断を間違う可能性があるからという理由で、判断力を使ってはならないといえるのだろうか。有害だと判断したことを禁止するとき、自分が間違いをおかすはずがないと主張しているわけではなく、間違える可能性があることを承知のうえで、自分に課された義務を遂行するために、良心に恥じない確信に基づいて行動しているにすぎない。自分の意見が間違っているかもしれないという理由で、それに基づく行動をとらないのであれば、われわれは自分たちの利害に配慮することができず、義務を果たすこともできない。どのような行動にもあてはまるような反対論では、個別の行動に対する反対論として妥当になりえない。政府は、そして個々人は、できるかぎり真実に近い意見を注意深くまとめあげ、その意見が正しいという確信をもてないかぎり、他人に強制しないようにする義務を負っている。しかし、意見の正しさを確信しているのであれば、その意見に基づいて行動するのをためらうのは良心的な姿勢ではない。臆病なだけである。その結果、現生か来世での人間の幸せにとって危険だと確信する考え方が何の制約も受けずに広まっていくのを許容するのだし、しかも、文明が遅れていた時代の人びとが、いまでは真実だとみられている意見を抑圧する誤りをおかしたことがその理由だというのだから。もちろん、同じ誤りをおかさないように注意すべきだとはいえる。だが、政府や国は権力を行使する対象として適切であることが否定されていない分野でも、誤りをおかしてきた。たとえば不当な税を課してきたし、不当な戦争を行ってきた。だから、税金を課してはならないとか、どのような挑発を受けても戦争を行ってはならないといえるのであろうか。人も政府も、力の及ぶかぎり最善を尽くして行動しなければならない。絶対に確実だといえるようなことはどこにもないが、人間が生活していくうえで十分だといえるほどの確信は得られる。われわれは自分たちの意見が行動の指針としては正しいと想定することができるし、想定しなければならない。間違っており有害だと考える意見を悪人が広めて、社会を邪道に導くのを禁止するとき、われわれはそれ以上のことを想定しているわけではないと。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.45-47,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:異論を抑圧することの害悪)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
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ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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抑圧された異論が正しかったとき、真理が失われる。なぜ抑圧しようとするのか。(a)自分の意見への愛着、(b)確信を正しさと誤解すること、(c)意見が、時代や国、所属する階級、党派、宗派に依存していることを忘れること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

異論を抑圧することの害悪

【抑圧された異論が正しかったとき、真理が失われる。なぜ抑圧しようとするのか。(a)自分の意見への愛着、(b)確信を正しさと誤解すること、(c)意見が、時代や国、所属する階級、党派、宗派に依存していることを忘れること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 異論を唱えるたった一人に対してであっても、彼を沈黙させるのは不当であり、特別の害悪がある。それは、人類全体や次世代にも及び得る被害をもたらす。その異論が正しい場合も、間違っている場合も。なぜか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

(1)抑圧しようとする異論が、正しいこともある。
 なぜ、このようなことが起こるのかの理由は、以下の通りである。
 (a)自分の意見への愛着
  人間は間違いをおかすもので、どんな意見でも間違っている可能性があると理解していても、自分が確実だと感じている意見が間違いかもしれないとは、思わない。
 (b)確信を正しさと誤解すること
  自分の意見が正しく、異論が間違いだと確信しても、確信自体が自分の意見が正しいことを保証してくれるわけではない。
 (c)意見は、時代や国、所属する階級、党派、宗派に依存する
  仮に、自分ひとりの判断ではなく、「世間」では、このように考えられているということを、根拠にしても、そもそも「世間」とは、抑圧しようとしている人が、普段接している人たち、つまり所属する党派や宗派、教会、階級を意味しているにすぎない。そして、数多い世間のなかで、どの世間を信頼するのかはまったくの偶然によって決まったのである。

 「第一の想定について考えていこう。政府が抑圧しようとしている意見は、正しい意見なのかもしれない。もちろん、その意見を抑圧しようとしている人は、それが正しい意見ではありえないと主張する。しかし、そう主張する人も無謬ではない。人類全体のためにその問題の是非を判断する立場にはないし、他の人びとに判断の材料を与えないようにする権限はもっていない。ある意見が間違っていると確信しているからという理由でその意見の発言を禁止すると、自分にとって確実なことは絶対に確実なのだと想定することになる。議論を禁止するときにはかならず、自分の無謬性を想定することになるのである。言論の抑圧は悪だとするとき、このような平凡な主張を根拠とすることができるだろうし、平凡だからといってこの主張に問題があるわけではない。
 人類の良識という観点ではじつに不幸なことだが、人間が間違いをおかしやすい事実は一般論としてはつねに認識されているが、具体的な問題扱う際にははるかに軽視されている。誰でも自分が間違う可能性があることは十分に知っているのだが、自分が間違える場合に備えておく必要があるとは、ほとんど誰も考えないし、どのような意見も間違いである可能性があるとは認めても、自分が確実だと感じている意見がそうした間違いの一例かもしれないとは、ほとんど誰も考えないのである。専制君主など、無条件に服従されることに慣れている人はふつう、ほとんどすべての問題で、自分の意見は完全に正しいと感じるものだ。庶民はもっと有利な立場にあり、自分の意見が反駁されることもあるし、間違いを指摘されることにもまったく不慣れというわけではないので、自分の意見は完全に正しいと感じるのは、周囲の人たちか、つねづね尊敬している人たちがみな同意見のときだけである。自分ひとりの判断には自信がない分、「世間」の判断が間違っているはずがないと考えて、それに頼りきろうとするのが通常である。だがこの場合の「世間」とは、自分がふだん接している人たち、つまり所属する党派や宗派、教会、階級を意味しているにすぎない。自分の国全体か同じ時代に生きる人全体にまで世間の範囲を広く考えているのであれば、自由で心の広い人だといえるほどである。こうした世間の判断に対する無条件の信頼は、他の時代、他の国、他の宗派、他の教会、他の階級、他の党派の人がまったく逆の意見をもっていたし、いまですらもっている事実を知っても、まったく揺らぐことがない。違う世間に対して自分たちの意見の正しさを示す責任は、すべて自分が属する世間にあずけている。そして、数多い世間のなかでどの世間を信頼するのかはまったくの偶然によって決まったのであり、ロンドンに生まれ育ってイングランド国教会の信者になったのと同じ理由で、北京に生まれ育っていれば仏教か儒教を信じていただろうという点を思い悩むことはない。だが、議論する必要がないほど自明のことだが、時代も個人と変わらないほど間違いをおかしやすい。どの時代にも、後の時代からみれば間違っている意見、さらには馬鹿げているとしかいえない意見をいくつももっていた。そして、過去に一般に信じられていた意見の多くがいま、間違いだとされているように、いまの時代に一般に信じられている意見の多くが将来、間違いだとされるのは確実である。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.42-45,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:異論を抑圧することの害悪)

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ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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