2021年12月28日火曜日

個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較すると、各道徳・正義理論の違いが明確になる。権利に基礎を置く理論は、個人の信念や選択それ自体の価値を認め、義務に基礎をおく理論とは異なり、規範は他者の権利を守るための単なる手段と考える。また特定の社会状態なり、福祉の総量なり、個人の卓越性なりの目標は、恣意的なものであり、諸価値の源泉はただ諸個人のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

各道徳・正義理論の違い

個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較すると、各道徳・正義理論の違いが明確になる。権利に基礎を置く理論は、個人の信念や選択それ自体の価値を認め、義務に基礎をおく理論とは異なり、規範は他者の権利を守るための単なる手段と考える。また特定の社会状態なり、福祉の総量なり、個人の卓越性なりの目標は、恣意的なものであり、諸価値の源泉はただ諸個人のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(3.5.3)目標に基礎をおく理論
(3.5.3.1)全体主義的理論
 (a)特定個人の福祉に関心を払 うが、これは個人の福祉が何らかの事態の形成に寄与するかぎりにおいて認められるにすぎ ず、この事態それ自体は、個人による当該事態の選択とは全く独立に善なるものと予め定めら れている。
 (b)同質的な社会あるいは自 己防衛や経済成長のような緊急に必要とされる支配的目標により少なくも一時的に統合された 社会などに特に適合した理論と考えられる。

(3.5.3.2)功利主義的理論
 (a)政治的決定が個々人の福祉に対して及ぼす効果を考慮し、この意味で個人の福祉に関心を払うが、この効果を全体的な福祉の総量ないし平均量へと融合し、これらの総量ないし平均量の増大を個々人の決定とは全く独立に それ自体で好ましいものと考える。
(3.5.3.3)完成主義的(perfectionist)理論(アリストテレス)
 個人に卓越性の理念を課し、政治の目標をこのような卓越性の要請におく。


(3.5.4)義務に基礎を置く理論
 (a)個人が一定の行為規準に適合しないことをそれ自体で悪と考えるが故 に、個人の行為の倫理的性格に関心を向ける。
 (b)社会 が個人に課する規範であれ個人が自らに課す規範であれ、この種の行為規準を本質的なものと みなし、この理論がその中核に据える人間は、このような規範に従うべき人間、あるいは、もし この規範に従わなければ罰せられるか、堕落した存在として扱われなければならない人間であ る。
 (c)たとえばカントは、嘘言から生ずる結果がどれ ほど有益であれ嘘言を悪と考え、しかもこれは嘘言を禁止する慣行が何らかの目標の実現を促 進するからではなく、端的に嘘言が悪しき行為だからである。

(3.5.5)権利に基礎 を置く理論
 (a)個人の行為が何らかの規範に合致することではなく、むしろその自立性に関心を 払い、個人の信念や選択それ自体の価値を前提として認め、これらを擁護しようとする。
 (b)他者の権利の擁護のために行為規範をおそらく必要とす るであろうが、この規範をそれ自体としては本質的価値をもたない単なる手段として扱い、そ れ故その中核に据えられた人間は、規範に従いつつ有徳な生活を営む人間ではなく、他人の規 範順守から利益を得る人間とされる。








「これらのタイプの各々に属する諸理論は、ごく一般的な特定の性格を共有することにな る。これらのタイプ間の相違を明確にするには、たとえば各々のタイプが個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較するとよい。目標に基礎を置く理論は、特定個人の福祉に関心を払 うが、これは個人の福祉が何らかの事態の形成に寄与するかぎりにおいて認められるにすぎ ず、この事態それ自体は、個人による当該事態の選択とは全く独立に善なるものと予め定めら れている。これはファシズムのようにある政治組織の利益を基本的なものとみなし、特定の目 標に基礎を置く全体主義的理論について明らかにあてはまるであろう。またこれは様々な形態 の功利主義についてもあてはまる。というのも功利主義は、政治的決定が個々人の福祉に対して及ぼす効果を考慮し、この意味で個人の福祉に関心を払うが、この効果を全体的な福祉の総 量ないし平均量へと融合し、これらの総量ないし平均量の増大を個々人の決定とは全く独立に それ自体で好ましいものと考えるからである。更にこれは、アリストテレスにみられるような完成主義的(perfectionist)理論、つまり個人に卓越性の理念を課し、政治の目標をこのような卓越性の要請に置く理論についてもあてはまる。  他方、権利や義務に基礎を置く理論は、個人を中心に据え、個人の決定や行為を根本的なも のと考える。しかし、これら二つのタイプの理論は、個人を異なった視点から捉えている。義務に基礎を置く理論は、個人が一定の行為規準に適合しないことをそれ自体で悪と考えるが故 に、個人の行為の倫理的性格に関心を向ける。たとえばカントは、嘘言から生ずる結果がどれ ほど有益であれ嘘言を悪と考え、しかもこれは嘘言を禁止する慣行が何らかの目標の実現を促 進するからではなく、端的に嘘言が悪しき行為だからである。これとは対照的に、権利に基礎 を置く理論は個人の行為が何らかの規範に合致することではなく、むしろその自立性に関心を 払い、個人の信念や選択それ自体の価値を前提として認め、これらを擁護しようとする。両者 のタイプの理論はともに、私的利益の考慮なしに個々人が個別的状況において従うべき道徳的 ルールや行為規範の観念を使用する点では同じである。しかし義務に基礎を置く理論は、社会 が個人に課する規範であれ個人が自らに課す規範であれ、この種の行為規準を本質的なものと みなし、この理論がその中核に据える人間は、このような規範に従うべき人間、あるいはもし この規範に従わなければ罰せられるか、堕落した存在として扱われなければならない人間であ る。他方、権利に基礎を置く理論は、他者の権利の擁護のために行為規範をおそらく必要とす るであろうが、この規範をそれ自体としては本質的価値をもたない単なる手段として扱い、そ れ故その中核に据えられた人間は、規範に従いつつ有徳な生活を営む人間ではなく、他人の規 範順守から利益を得る人間とされる。  それ故我々は、異なったタイプの理論はそれぞれ異なった形而上学的ないし政治的な気質と 結合しており、更にある種の国民経済においては、これらのタイプの理論のうちどれかが支配 的となる、と予想していいだろう。たとえば目標に基礎を置く理論は同質的な社会あるいは自 己防衛や経済成長のような緊急に必要とされる支配的目標により少なくも一時的に統合された 社会などに特に適合した理論と考えられる。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,B 契約,木鐸社 (2003),pp.226-228,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))


権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

特殊的判断を整合的な行為計画に統合する人間の創造物が、道徳・正義の理論であると考える構成的モデルは、道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象と考える。道徳と正義は、経験と理性による議論の対象であり、矛盾を排除した首尾一貫性が正義観念の本質に属する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

道徳・正義の構成的モデル

特殊的判断を整合的な行為計画に統合する人間の創造物が、道徳・正義の理論であると考える構成的モデルは、道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象と考える。道徳と正義は、経験と理性による議論の対象であり、矛盾を排除した首尾一貫性が正義観念の本質に属する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.5.1)道徳・正義の自然的モデル
 (d)矛盾した直感を超える原理の探究
 矛盾した厄介な直感をそのまま認めながら、この厄介な直感を調和さ せるような一層洗練された一群の原理が、未だ発見されていなくとも現実に実在するという信 念の下に、表面的な矛盾をできるだけなくしていくような方法を支持する。
 (e)経験と理性、議論を超えたもの
 倫理的能力の行使によって得られた直接的観察が観察者の説明能力を超え出 たものであるとの想定も十分に意味をもちうるし、また正しい説明原理に到達できなくても、 これが道徳原理のかたちで必ず実在している、と想定することも意味をもつ。

(3.5.2)道徳・正義の構成的モデル
 (c)道徳と正義の理論は、経験と理性による議論の対象である
 正義の名の下になされた諸決定は、これらの決定を正義理論のなかで説明する公務担当者 の能力を超え出たものではないこと、そして、たとえこの種の理論が彼の直感の幾つかと抵触 する場合でさえ、上記の決定が彼の説明能力を超え出たものと考えるべきでないことを要求す る。
 (d)道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象
 このモデルの動力因はある種の責任理論、すなわち人々に対し彼らの諸直感の統合を要求し、必要とあればこの統合化のために、ある特定の直感を軽視することをも要求するような 理論である。すなわち、直感も常に正しいわけではなく、社会状況と歴史によって理解されるべき対象である。
 (e)正義の本質は首尾一貫性
 このモデルの前提にあるのは、明確化された首尾一貫性の観念、つまり公けに提 示され、しかも変更されるまで遵守されうる一定のプログラムに従って決定を下すことが、あ らゆる正義観念の本質に属する、という考え方である。
 (f)矛盾する見解の放棄
 このモデルを指針とする場合、彼は明白に矛盾する自己の見解を放棄せねばならず、これは更なる反省により当初の信念をすべて原則的に有効なものと認めるようなより正しい原理を いつか発見できると彼が期待する場合も、同様である。
 (g)信念ではなく原理
 我々が、信念ではなく原理にそって行動すべきことを要求する。

「公務担当者がこのような状況に置かれたとき、二つのモデルは彼に対し異なった指示を与 える。  まず自然的モデルは、矛盾した厄介な直感をそのまま認めながら、この厄介な直感を調和さ せるような一層洗練された一群の原理が、未だ発見されていなくとも現実に実在するという信 念の下に、表面的な矛盾をできるだけなくしていくような方法を支持する。このモデルによる と、上記の公務担当者の立場は、明確な観察データを得たものの、たとえば太陽系の起源を整 合的に説明するようなかたちでこれらのデータを未だ調和させることのできない天文学者に似 ている。この天文学者はデータを調和させるような説明が未だかつて発見されておらず、また 将来発見される見込みが全くなくとも、このような説明が必ず実在するという信念の下に観察 データを受け容れ利用し続けるのである。  自然的モデルがこのような方法を支持するのは、道徳的直感を観察データに類似のものとみ なすことを勧めるような一定の哲学的立場を当のモデル自体が前提としているからである。こ の前提に立てば、倫理的能力の行使によって得られた直接的観察が観察者の説明能力を超え出 たものであるとの想定も十分に意味をもちうるし、また正しい説明原理に到達できなくても、 これが道徳原理のかたちで必ず実在している、と想定することも意味をもつ。もし直感的な観 察が正しい観察であれば、倫理的世界に実在する事態が現に観察されたごとき事態である理由 を我々は必ず説明しうるはずであり、これは、物理的世界に実在する事態が現に観察されたご とき事態である理由を我々が説明しうるはずであるのと同様である。  しかし、これに対して構成的モデルは、調和原理が必ず実在するという信念の下に表面的な 矛盾を解決していこうとする態度を認めない。逆にこのモデルは次のことを要求する。すなわ ち、正義の名の下になされた諸決定は、これらの決定を正義理論のなかで説明する公務担当者 の能力を超え出たものではないこと、そして、たとえこの種の理論が彼の直感の幾つかと抵触 する場合でさえ、上記の決定が彼の説明能力を超え出たものと考えるべきでないことを要求す る。このモデルは、我々が信念ではなく原理にそって行動すべきことを要求するのである。す なわちこのモデルの動力因はある種の責任理論、すなわち人々に対し彼らの諸直感の統合を要 求し、必要とあればこの統合化のために、ある特定の直感を軽視することをも要求するような 理論である。このモデルの前提にあるのは、明確化された首尾一貫性の観念、つまり公けに提 示され、しかも変更されるまで遵守されうる一定のプログラムに従って決定を下すことが、あ らゆる正義観念の本質に属する、という考え方である。上記のような状況に置かれた公務担当 者がこのモデルを指針とする場合、彼は明白に矛盾する自己の見解を放棄せねばならず、これ は更なる反省により当初の信念をすべて原則的に有効なものと認めるようなより正しい原理を いつか発見できると彼が期待する場合も、同様である。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,A 均衡,木鐸社 (2003),pp.212-214,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

道徳的直感は、確実で明白な真理であるように思われるため、直感は真理を直接的に把握できるし、道徳・正義の理論は何らかの実在の記述であると考える自然的モデルがある。一方、構成的モデルでは、特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試みが道徳・正義の理論であり、人間の創造物であると考える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

自然的モデルと構成的モデル

道徳的直感は、確実で明白な真理であるように思われるため、直感は真理を直接的に把握できるし、道徳・正義の理論は何らかの実在の記述であると考える自然的モデルがある。一方、構成的モデルでは、特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試みが道徳・正義の理論であり、人間の創造物であると考える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.5) 憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系の類型
(a)確実と思われる道徳的直感
 我々はすべて正義につき一定の信念を抱いているが、その理由は、これらの信念が端的に 正しいと思われるからであり、他の信念からこれらを演繹したり推論したからではない。
(b)道徳的直感は真理か主観的な好みか
 いかに確実と思われても、真実かどうかは、わからないのではないか。二つの考え方がある。
 (i)直感は真理である
 様々な信念は、自立的かつ客観的なある種の倫理的事実の直接的知覚である。
 (ii)直感は主観的な好みである
 信念は通常の嗜好とそれほど異ならない単なる主観的な好みの問題であり、ただそれらが我々にとって重要と思われることを示すために正義言語 の衣をまとうにすぎない。

(3.5.1)道徳・正義の自然的モデル
 (a)理論は何らかの実在の記述である
 正義理論は、客観的な道徳的実在の記述であり、これらは人間や社会により創造され るのではなく、物理法則と同様に発見されるべきものである。
 (b)道徳的直感は真理をつかむ
 これを発見するための主たる手 段は、少なくともある人間が有している道徳的能力であり、たとえば奴隷制を不正と感ずる直 感のように、特定の状況で政治的倫理に関し具体的な直感を生みだす道徳的能力である。
 (c)倫理的推論や道徳哲学は、具体的判断を 正しい秩序で組み立てることにより基本的原理を再構成する手続である。

(3.5.2)道徳・正義の構成的モデル
 (a)理論は人間の創造物である
 構成的モデルは自然的モデルとは異なり、正義の原理を固定した 何らかの客観的な実在とは考えず、したがって、これらの原理の記述は通常の意味で真ないし 偽でなければならない、とは考えない。
 (b)道徳理論は特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試み
 人々が特殊的判断に基づいて行為する場合、彼らはこれら特殊的判断を一つの整合的な行為計画へと適合させるべき責任を有し、あるいは、少なくと も公務にあたって他者に対し権力を行使する者はこの種の責任を負う、と考える。


「我々はすべて正義につき一定の信念を抱いているが、その理由は、これらの信念が端的に 正しいと思われるからであり、他の信念からこれらを演繹したり推論したからではない。たと えばこのような仕方で我々は奴隷制を不正と信じ、あるいは通常の訴訟形態を公正なものと考 えるのである。  ある哲学者によれば、これら様々な信念は、自立的かつ客観的なある種の倫理的事実の直接 的知覚とされ、他の哲学者の見解ではこの信念は通常の嗜好とそれほど異ならない単なる主観 的な好みの問題であり、ただそれらが我々にとって重要と思われることを示すために正義言語 の衣をまとうにすぎない。しかしいずれにせよ、正義につき自問し他者と議論するとき、我々 はロールズの均衡化の技術が示唆するのとほぼ同様の仕方で――我々が「直感」とか「確信」とか呼ぶ――これら我々になじみ深い信念を使用するのである。つまり我々は正義に関する一般理 論を我々自身の直感と照合することにより検討し、我々と意見を異にする相手方に対しては、 彼らの直感自体が彼ら自身の理論を紛糾させていることを示し、相手の立場を論駁しようと試 みるのである。  さて、道徳理論と道徳的直感の関連について一定の哲学的見解を提示することにより、上記 の過程を我々が正当化しようとする場合を想定しよう。均衡化の技術は、道徳の「整合」理論 とでも呼びうるものを前提としている。しかし整合性を定義し、整合性が要請される理由を説 明しうるモデルとしては二つの一般的なモデルが存在し、我々はこれら二つのどちらかを選択 しなければならない。そして、どちらを選択するかは我々の道徳哲学にとり結果的に重要な意 義をもつことになる。そこでまず、私は二つのモデルを述べ、その後で均衡化の技術が一方の モデルでは意味をもつが、他のモデルでは無意味であることを論証したいと思う。  第一のモデルを「自然的」モデルと呼ぶことにしよう。このモデルは、一定の哲学的立場を 前提としており、これは次のように要約しうる。すなわちロールズの二つの原理に示されてい るような正義理論は、客観的な道徳的実在の記述であり、これらは人間や社会により創造され るのではなく、物理法則と同様に発見されるべきものである。これを発見するための主たる手 段は、少なくともある人間が有している道徳的能力であり、たとえば奴隷制を不正と感ずる直 感のように、特定の状況で政治的倫理に関し具体的な直感を生みだす道徳的能力である。物理 学的な観察が基本的物理法則の存在や性格の手懸りとなるように、これらの直感はより抽象的 で基本的な道徳原理の性格や存在への手懸りとなる。倫理的推論や道徳哲学は、具体的判断を 正しい秩序で組み立てることにより基本的原理を再構成する手続なのであり、これはちょう ど、自然史家が発見された骨の諸断片から、動物全体の骨組を再構成するのと同様である。  第二のモデルはこれとは全く異なる。このモデルは、正義の直感を独立した諸原理の存在の 手懸りとみるのではなく、むしろ、たまたま同時に見つかった骨の集塊にぴったり合う動物を 彫刻家が彫刻しようとする場合のように、直感を構成されるべき一般理論の規約に基づく特徴 とみなすのである。この「構成的」モデルは自然的モデルとは異なり、正義の原理を固定した 何らかの客観的な実在とは考えず、したがって、これらの原理の記述は通常の意味で真ないし 偽でなければならない、とは考えない。このモデルは、骨に適合するように構成された動物 が、現実に存在するとは考えない。しかし、このモデルにはこれとは別の、ある意味ではより 複雑な前提が含まれている。すなわち人々が特殊的判断に基づいて行為する場合、彼らはこれ ら特殊的判断を一つの整合的な行為計画へと適合させるべき責任を有し、あるいは、少なくと も公務にあたって他者に対し権力を行使する者はこの種の責任を負う、という前提である。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,A 均衡,木鐸社 (2003),pp.210-211,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

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