2019年10月30日水曜日

法は、事実として存在するルールであり、制裁の規定の有無には依存しない。しかし、人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能であり、法や道徳の理解に重要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

自然法の基礎づけ

【法は、事実として存在するルールであり、制裁の規定の有無には依存しない。しかし、人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能であり、法や道徳の理解に重要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)「定義」による法の概念
 (1.1)例えば、法体系は制裁の規定を備えていなければならないとするもの。
(2)実証主義
 (2.1)法は、事実として存在するルールであり、いかなる内容でも持つことができる。
 (2.2)たいていの法体系が制裁の規定を置いていることは、単に一つの事実にすぎない。
(3)人間に関する単純で自明な諸事実から導出可能な法の諸特性(自然法の基礎づけ)
  人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(4)原因と結果による因果的説明


(f)追加記載。

 (3.2)人間の諸能力のおおよその平等性
   人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)人間の諸能力の差異
   人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさら、お互いに異なる。
  (b)人間の諸能力のおおよその平等性
   それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほど他人より強くはない。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的にその優位性を失う。
  (c)能力の大きな不均衡がもたらす事象
   人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分やってゆける者がいくらかいたかもしれない。そのような例外的な人間は、攻撃によって多くのものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであろう。
  (d)相互の自制と妥協の体系
   法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明らかになる。
  (e)違反者の存在
   そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時に、その制約を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいる。
  (f)国際法の特異な性質
  強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している。国際法の主体間のこの不平等こそ、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。
   (f.1)国家間に巨大な不均衡が存在する場合、制裁はうまく機能しない。
   (f.2)このような場合、秩序の維持は、実質的に相互自制に基づいている。
   (f.3)その結果、法がかかわるのは「重大な」問題に影響を及ぼさない事項に限られていた。
   (f.3)弱い国は強国に精一杯の条件を付けて服従し、その保護の下で安全を保障するというのが、唯一可能な体系であろう。
   (f.4)その結果、それぞれがその「強者」のまわりに集まってできる、多くのあい争う力の中心が出てくることになろう。

 「人間のおおよその平等性という同じ自然的事実は、組織された制裁の実効性に、決定的な重要性をもっているということに注意したい。もし若干の人が他人よりも非常に強力で、他人の自制をあてにしないならば、悪人の強さは、法と秩序の支持者のそれをしのぐであろう。もしそのような不平等があるならば、制裁を用いてもうまくいかないだろうし、制裁で抑えようとするのと少なくとも同じ大きさの危険を伴うであろう。このような状況の下では、社会生活は、相互自制にもとづいており、少数の悪人に対して必要なときにだけ力が用いられるものではなく、弱い者が強い者に精一ぱいの条件をつけて服従し、強者の「保護」の下に生活するというのが唯一の可能な体系であろう。その結果、資源が乏しいため、それぞれがその「強者」のまわりに集まってできる多くのあい争う力の中心が出てくることになろう。敗北の危険という決して無視しえない自然的制裁のため、不安定ながら平和が保たれるのであるが、それにしても、それらはときには互いに闘うかもしれない。しかしそのときには、ある種のルールが受けいれられて、「強い者達」が闘うことを好まない問題に関して調整が行なわれるかもしれない。ここでもまたわれわれは、おおよその平等性の兵站学とそれの法に対する重要性を理解するために、ピグミー族や巨人という空想的な言い回しで考える必要はない。国際的状況において、当該主体が強さにおいて非常に相異しているということは、十分にその実例となっている。何世紀もの間、国家間の不均衡のため、組織的な制裁が不可能であるような体系しかなく、法がかかわるのは「重大な」問題に影響を及ぼさない事項に限られていた。原子兵器があらゆる国家に利用可能となったとき、それが不平等な力の均衡をどの程度回復し、また国内の刑法に一層よく似た統制の形態をどの程度もたらすかは、まだわからない。
 われわれが論じてきた単純な自明の真理は、自然法理論の良識の核心を明らかにするだけではない。それは、法や道徳の理解にも極めて重要であり、またそれは、法や道徳の基本的な形態を、何か特定の内容ないしは社会的な求めにかかわりなく、まったく形式的な用語で定義することが、なぜ不十分となるのかをも説明するのである。このような見解によって法理学がおそらく得るところの主たるものは、法の特徴に関する議論をしばしば曖昧にし、人の心を誤らせるようなある二分法を避けることができるということである。このようにして、たとえば、あらゆる法体系は制裁の規定をそなえて《いなければならない》かどうかという伝統的な問題は、自然法のこの単純な見解によって提出された見方をとるとき、新鮮なより明確な光の下にそれを置くことができる。われわれはもはや、不適当な二つの選択肢の間で選択する必要はないであろう。その選択肢はしばしばすべてだと考えられるのであるが、その一方は、制裁をそなえなくてはならないということこそ、「法」とか「法体系」という言葉の「真」の意味によって求められると主張するものであり、他方は、たいていの法体系が制裁の規定を置いていることは「単に一つの事実にすぎない」と言うものである。これらの選択肢はどちらもが十分ではないのである。中央に組織された制裁がない体系に関して、「法」という言葉を用いてはいけないというきまった原則があるわけではない。また、そのようなものをもたない一つの体系に関して、「国際法」という表現を(用いなければならないというわけではないが)用いることは十分理由のあることである。他方、国内法体系が、もしあるがままの人間の最小限の目的に役立つべきであるとするならば、その体系内で制裁が占めなければならない位置を、われわれはぜひとも識別する必要がある。国内法体系において、制裁を可能にするとともに必要にする自然的事実と目的という背景が与えられれば、われわれは、制裁が《自然必然的なもの》であると言うことができる。同様に、国内法の不可欠な特徴となっている人、所有、約束に対する最小限の保護形態の地位を表現するためにも、何かそのような言い回しが必要とされるのである。「法はいかなる内容でももつことができる」という実証主義のテーゼにわれわれが答えるのは、まさにこの形態においてである。というのは、法のみならず他の多くの社会制度について十分な記述をするためには、定義や事実に関する通常の陳述のほかに、第三の陳述のカテゴリーの余地をあけておかなくてはならないということは、かなり重要だからである。第三の場合には、その陳述の真理性は、人間および、人間のもつ目立った特徴を保持しながら人間が住む世界に依拠するものである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.216-218,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:自然法の基礎づけ)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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いかに人間の知識が増加し、専門分野が細分化されていっても、一般教養教育と人間の学習能力は、専門分野固有の偏見や、専門外の事柄の理解・評価の無能力、価値のある諸目的への無理解という障害を乗り越えるだろう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

人間の学習能力への信頼

【いかに人間の知識が増加し、専門分野が細分化されていっても、一般教養教育と人間の学習能力は、専門分野固有の偏見や、専門外の事柄の理解・評価の無能力、価値のある諸目的への無理解という障害を乗り越えるだろう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)人間の学習能力への信頼
 (1.1)仮に、過酷な生活環境のもとにおいても、人間は一つの事柄についてしか知ろうと努力しないというものではない。
 (1.2)仮に、未来において人間の知識が膨大に増加してもなお、人間にとって大切な一般教養教育の必要性は益々必要となり、また人間の学習能力は、それを乗り越えていくことだろう。
(2)人間の知識は増加し、科学・技術の専門分野は細分化され、有用な知識の全領域の小さな一部分にすぎなくなる。
 (2.1)知識の増加
  人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかも未だかつてなかった速さで、現在増加している。
 (2.2)科学・技術の専門分野の細分化
  知識の各分野は、今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなる。
(3)仮に、一つの学問あるいは研究のみに没頭し、自分の専門以外のことについて全く無知であるならば、引き起こされる弊害がある。
 (3.1)特殊な専門分野固有の偏見
  特殊な研究に付きまとう、視野の狭い専門家が抱く偏見が、精神の内部に育ってしまう。
 (3.2)専門外の事柄の理解・評価の無能力
  幅広いものの見方に対して、その根拠を理解、評価できない無能力さを身につけてしまう。
 (3.3)価値のある人間的目的への無理解
  ごく些細な人間的欲望や、欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとって、意味のない存在になってしまう。

 「人間は既に最大限の効率で教えられているという暗黙の前提に立脚しながら、人間の学習能力に対して不思議なくらい低いこのような評価しか与えないことに関して、もう少し申し添えておくことに致します。そのような狭い考え方は、われわれの教育理念を低下させるだけではなく、もしそのような考え方を容認するならば、未来における人類の進歩に対するわれわれの期待は暗澹たるものになってしまうでありましょう。といいますのも、もしも、人間が、過酷な生活環境のもとでは、一つの事柄についてしか知ろうと努力しないのであれば、色々な事実が増加するに従って、人間の知性というものが一体どうなるのであろうかと思われるからであります。人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかも未だかつてなかった速さで、現在増加しております。知識の各分野は、今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなるでありましょう。そして、科学・技術のすべては、細分化され、遂には、各人が分担する部分、つまり各人が完全に知る領域と有用な知識の全領域との比率関係は、あたかもピンの頭をつけるという技術と人間の産業界の全領域との比率と同じになってしまうでありましょう。さて、もしそのような些細な部分を完全に知るためには、人はそれ以外のすべてのことについて全く無知でなければならないとするならば、間もなく人は、ごく些細な人間的欲望や、欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとっては、全く無意味は存在になってしまわないでしょうか。人間のこのような状態は、単なる無知以上に悪い結果を生みだすことでありましょう。他の学問あるいは研究すべてを排除して、一つの学問あるいは研究のみに没頭するならば、必ずや人間の精神が偏狭になることは、既に経験によって知るところであります。このような場合、精神の内部に育つものは、特殊な研究に付きまとう偏見であり、またそれとともに、幅広いものの見方に対してその根拠を理解、評価できない無能力さ故に、視野の狭い専門家が共通して抱く偏見であります。人間性というものは、小さなことに熟達すればするほどますます矮小化し、偉大なことに対して不適格になっていくであろうと予測せざるをえません。しかしながら、今日、事態はそれほど悪化しておらず、そのような暗い未来を想像させる根拠は全くないのであります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.13-14,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:人間の学習能力,専門分野の細分化,一般教養教育)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

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