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2020年6月11日木曜日

11.巨大科学技術は,細分化された専門家を必要とする.しかし全体の結果,意味を考えず担った仕事に無条件に忠誠を誓うことは,倫理的な退廃ではないか.また社会全体の未来に責任を持とうとする人が少なくなっていくとしたら倫理的な危機ではないか.(高木仁三郎(1938-2000))

倫理的な退廃、危機

【巨大科学技術は,細分化された専門家を必要とする.しかし全体の結果,意味を考えず担った仕事に無条件に忠誠を誓うことは,倫理的な退廃ではないか.また社会全体の未来に責任を持とうとする人が少なくなっていくとしたら倫理的な危機ではないか.(高木仁三郎(1938-2000))】

(3.2)追記。

(3)研究の細分化と効率性追求による総合的視点の喪失
 (3.1)全般的な諸傾向
  (a)研究の細分化
   科学の巨大さの度合いに応じて、個人の担う役割がますます細分化されていく。
  (b)科学の歴史、意味、目的を考える教育の軽視
   科学教育も、科学の歴史やその意味を総合的にとらえるといった教育は非効率的なものとされ、個別的な手法や技術をマスターさせることに教育の力点が置かれる。
  (c)総合的視点の喪失
   その結果、研究の全体性やその意味を、十分見通すことができなくなる。
 (3.2)倫理的な退廃、危機であると捉えること
  (3.2.1)個々人にとっての倫理的な退廃
   (a)行政官、管理者、科学技術者、労働者は、個々の側面にかかわる専門家に仕立て上げられる。
   (b)問題の細部に通じ、自分の仕事にほぼ無前提で忠誠を誓うことが、正しいとされる。
   (c)しかし、自分の仕事が果たしている全体の結果、意味するものを考えないことは、倫理的な退廃ではないだろうか。
  (3.2.2)社会全体にとっての倫理的な危機
   (a)もし、社会全体のシステムに対して責任を持とうとする人がなくなっていくとしたら、倫理的に大きな危機といえる。
   (b)ひとりひとりが部分しか見ず、また将来のこと、子供や孫たちの住むべき環境のことを考えないとしたら、社会は確実に生命力を失い、精神的に疲弊していくことだろう。

 「やや、別の観点からしても、巨大科学技術はいま私たちが真剣に考えなくてはならないような倫理上の問題を提出していると思う。

巨大科学技術は、その全体のシステムが巨大化すればするほど、実際にはその個々の側面にかかわる科学技術者・管理者・労働者・行政官を、細分化した専門家に仕立て上げる。

それらの人びとは、問題の細部にのみ通じ、全体のシステムに対しては、ほぼ無前提で忠誠を誓うように仕立て上げられるだろう。そうしない限り、高度の専門性を必要とする無数の部分からなりたつシステムを支えられないからである。

 しかし、そのことは、ひとりひとりの人間の人間としての全体を次第に部分化させ、単一の機能にのみ忠実な人間を生みだしていくのではないだろうか。

ユンクの言う「ホモ・アトミクス」の誕生である。これは個々の人間にとっても、倫理的な退廃を意味しよう。

彼(女)はたとえば、原子炉内の中性子の振舞いについてはいよいよ詳しくなるかもしれない。しかし、ある意味ではそのことと反比例して、彼(女)は、ウラン鉱で働くインディアンたちに思いをめぐらす機会を減らすことだろう。それはひとりの人間としての彼(女)にとっても、不幸なことのはずだ。

 社会全体にとっても、その全体のシステムに対して責任をもとうとする人がなくなっていくのは、倫理的に大きな危機である。ひとりひとりが部分しか見ず、また将来のこと子供や孫たちの住むべき環境のことを考えないとしたら、社会は確実に生命力を失い、精神的に疲弊していくことだろう。

巨大科学は、その管理強化への志向と相まって、必ずこのような倫理的な問題を提出させずにおかない、というのが私の考えである。

 すでにその徴候が顕在化しつつある、と私は考えるのだが、いやそんなことはない、と考える人も多いだろう。

具体的にそうなったところで考えればよい、という反論が返ってくるかもしれない。

しかし、皆が「ホモ・アトミクス」になってしまった段階では、人びとの精神は、もはや自由にそんな問題を議論しえないほどに、衰弱してしまわないだろうか。巨大科学技術と倫理の問題について、大きな議論をおこすべき時は、今をおいてないと思う。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』プルトニウムの恐怖 第6章 ホモ・アトミクス、pp.269-270)
(索引:倫理的退廃,倫理的危機)

プルートーンの火 (高木仁三郎著作集)


(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
原子力市民委員会 (@ccnejp) | Twitter
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ニュース(原子力市民委員会)

2020年4月8日水曜日

歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的である。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込むことができる。(カール・ポパー(1902-1994))

歴史の意味とは何か

【歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的である。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込むことができる。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「わたくしが主張しているのは、ただ、彼らが理解可能なことを言っているかぎりでは、間違ったことを言っていることが実に多いということ、またシュペングラー流の大胆な歴史予言の基礎として役立ちうるような科学的あるいは歴史的あるいは哲学的方法は存在しないということだけです。つまり、そうした歴史的予言が当たったとしても、それはまったく偶然の幸運にすぎません。そうした予言は、恣意的で、偶然的で、非科学的です。ところが、当然のことですが、強力な宣伝効果はもつことができるのです。十分に多数の人が西欧の没落を信じるようになりさえすれば、西欧は確実に没落することでしょう。つまり、そうした宣伝がなかったら西欧が隆盛を持続したであろうといった時でさえ、やはり没落することでしょう。なぜなら、理念は山を移すことができるからです。誤った理念でさえそうすることができるのです。しかし幸いなことには、誤った理念に対して真なる理念で闘うことも往々にして可能です。
 わたくしは以下において、まったくもって楽観的な思想をいくつか述べようと思っていますので、ここでは、その楽観主義が、未来についての楽観的な予言ととりちがえられることのないように警告しておきたいと思います。
 未来が何をもたらすかをわたくしは知りません。また、それを知っていると信じる人々をわたくしは信じはしません。わたくしの楽観主義は、過去および現在から学びうるものにのみかかわります。そしてわれわれが学ぶこととは、善きものも悪しきものも含めて、多くのものが可能であったし可能であるということであり、われわれは希望を捨てる理由をもってはいない――またよりよい世界のために働くことをやめる理由をもっていないということです。
 さて、歴史の意味にかんするわたくしの第一の否定的なテーゼにはらまれていたテーマを去って、より重要な肯定的なテーゼに立ち入ることにしましょう。
 わたくしの第二の主張は、《われわれ自身が》政治の歴史に意味を《与え》たり目標を《たてる》ことができるということ、しかも人間にふさわしい意味を与えたり、人間にふさわしい目標をたてることができるということでした。
 歴史に意味を与えるということについては、二つのまったく異なった意味で語ることができます。重要で基本的なのは、われわれの倫理的理念による《目標設定》という意味です。「意味を与える」という言葉の第二のあまり基本的でない意味で、カント派のテオドール・レッシングは歴史を「無意味なものへの意味付与」と表現しました。わたくしにとって正しいと思えるかぎりでのレッシングの主張はこうです。われわれが、たとえば、歴史の歩みのなかで、われわれの理念やまたとくにわれわれの倫理的理念――たとえば自由の理念や知による自己解放の理念――は、どのような状態にあるかという問いを発して歴史の研究に臨むならば、われわれはそれ自体としては意味をもたない歴史に意味を読み込もうと試みることはできる。われわれが「進歩」という言葉を、自然の法則としての進歩という意味で使用しないように注意しさえするならば、われわれはどのように進歩しまた退歩してきたか、また、われわれの進歩をいかに高価にあがなわねばならなかったかと問うことによって、伝承されてきた歴史からひとつの意味を手に入れることはできるとも言えます。ここにはまた、われわれの多くの悲劇的な誤り――目標設定における誤りや手段の選択における誤り――の歴史も属しています。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.225-227,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:歴史の意味,倫理的理念,目標設定,歴史の進歩,歴史の退歩)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2018年11月18日日曜日

道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

道徳や倫理的規準と、ルールと原理

【道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。

参照: 論証における原理の作用の特徴:(a)特定の決定を必然的に導くことはない、(b)論証を一定方向へ導く根拠を提供する、(c)互いに逆方向の論証へと導くような諸原理が、相互に作用しあう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
参照: 見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 「確かに道徳的な人間は、嘘をつくか約束を破るかを選択しなければならない場合、困難な状況に置かれることになるだろう。だからといって、当該問題に関し衝突するに到った両者をルールとして彼が容認していたことにはならない。単に彼は嘘言と約束違反を両者とも原則として不正なものとみなしたにすぎない、と考えられるのである。
 もちろん我々は、彼が置かれている状況を二つの倫理的規準のいずれかを選択せざるを得ない状況として記述し、たとえ彼自身は当該状況をこのように表現しなくとも我々はこれを正しい記述と考えるかもしれない。しかしむしろこの場合、既に私が使用した区別を用いれば、彼は競合する二つのルールではなく、二つの原理について解決を見出すように迫られていると考えるべきなのである。何故ならば、この法が彼の状況をより正確な仕方で記述していると考えられるからである。彼はいかなる倫理的考慮もそれ自体では圧倒的に優勢な効力をもちえないこと、そしてある行為を禁ずるいかなる根拠も状況によってはこれと競合する別の考慮に屈せざるをえないことを認めている。それ故、彼の倫理的実践を社会規準のコードを用いて説明しようとする哲学者や社会学者は、彼にとり道徳がルールの問題ではなく原理の問題であることを認めざるをえないのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,5 法準則は本当に原理とは別のものか,木鐸社(2003),p.86,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:道徳,倫理的規準,ルール,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年7月28日土曜日

倫理や価値の領域に、科学的方法は適用可能か? 健康についての考察が、重要な示唆を与える。いずれも、この宇宙、自然、生命、人間、社会、文化についての諸事実に基づいた科学の方法によって探究可能である。(パトリシア・チャーチランド(1943-))

倫理や価値の領域に科学的方法は適用可能か?

【倫理や価値の領域に、科学的方法は適用可能か? 健康についての考察が、重要な示唆を与える。いずれも、この宇宙、自然、生命、人間、社会、文化についての諸事実に基づいた科学の方法によって探究可能である。(パトリシア・チャーチランド(1943-))】
(1)人間の本性と健康の関係
 (1.1)健康であるために私たちは何をするべきか?
 (1.2)これは規範的なプロジェクトなのか?
(2)人間の本性と善の関係(道徳や価値の領域)
 (2.1)善であるために私たちは何をするべきか?
 (2.2)これは規範的なプロジェクトなのか?
(3)健康のためにも、善のためにも、科学が必要である。
 (3.1)科学によって利用できるようになった事実に基づいて、健康であるために何をするべきかについて、私たちは多くのことを知っている。同じように、人間の社会性の本性についてより深く理解することによって、社会的な実践や制度のいくつかが解明され、それらについてこれまで以上に賢明に考えられるようになるだろう。
 (3.2)どのような状態が、一定の病気の予防や治療に寄与するかの知識。同じように、ある社会的状態が、善を促進し悪を予防するための知識があるだろう。
 (3.3)環境の特徴と、特定の医学的状態の関係に関する知識。同じように、社会的環境の特徴と、社会の倫理的状態の関係、社会的調和と安定に有利な条件に関する知識があるだろう。
(4)健康も善悪も、複雑で難しいテーマである。
 (4.1)「健康」とは何か、「善」とは何か? 意見の不一致が根強く存在する領域が数多くある。
 (4.2)健康というテーマがいかに複雑であるか。これは、社会的行動と善悪のテーマが複雑なのと同じである。
 (4.3)もちろん、科学によってあらゆる道徳的ジレンマが解決可能だということではない。これは、健康についても同じである。
(5)健康も善悪も、この宇宙、自然、生命、人間、社会、文化についての諸事実に基づいた科学の方法によって探究可能なテーマである。
 (5.1)健康とは何かについて、分析的に記述し尽くすことが不可能だからといって、健康という概念が非自然的性質であることを示しているわけではない。善悪についても、同じである。
 (5.2)健康とは何かについて、直感によってしか把握できず、またその直感の源泉を知り得ないからといって、その直感が、超自然的なものであり、何らかの〈形而上学的真理〉であることを示しているわけではない。善悪についても、同じである。
 (5.3)仮に直観の源泉が知り尽くせないとしても、そのこと自体は、何が意識され何が意識されないかに関する一つの事実を指し示しており、またその直感は、結局のところ脳の産物であり、人間のたどった生物進化的な諸事実と、経験と、文化的実践に基づいている。健康についても、善悪についても同じである。

 「もしムーアが、私たちの本性とよいものとの関係は単純ではなく複雑だということを指摘しただけなら、彼はもっと強固な基礎に支えられていただろう。類似した例を挙げれば、私たちの本性と健康との関係は複雑である。道徳や価値の場合と同様に、いかなる単純な定式化も十分ではない。健康は、たとえば血圧が低いとか、十分な睡眠をとっているといったことと単純に等しいとすることはできないのだから、健康についてムーアのような考えをする人は、《健康》は非自然的性質である――分析不可能で形而上学的に自律的である――と論じるかもしれない。健康であるために私たちは何をする《べきか》について科学を用いて明らかにしようとしても、このムーア的な考えによれば、無駄である。というのも、それは「べし」のプロジェクト、つまり規範的なプロジェクトであって、事実的なプロジェクトではないからである。もちろん、そのような見解は奇妙であるように思われる。たしかに、遊びや瞑想が精神の健康にどれくらい貢献するか、アルコール依存は病気と見なされるべきか、血清コレステロールのレベルを下げるスタチン剤を50歳以上の人全員に処方するべきか、プラシーボはどのように作用するか、どれくらい痩せていれば痩せすぎなのかなど、健康な生き方について意見の不一致が根強く存在する領域が数多くあるが、そうだとしても、そのような見解は奇妙である。そして、こうした意見の不一致が存在するにもかかわらず、科学によって利用できるようになった事実に基づいて、健康であるために何をするべきかについて、私たちは多くのことを知っている。
 生物科学の進展とともに、健康について、またどのような健康状態が一定の病気の予防や治療に寄与するかについて、ますます多くのことがわかるようになってきた。個人差に関する知識や、環境の特徴と特定の医学的状態の関係に関する知識が得られはじめるとともに、人間の健康というテーマがじっさいにどれほど複雑であるかが明らかになってきた。健康は、私たちが何をするべきかについて科学が私たちに多くのことを教えることのできる領域であり、そしてすでに教えてきた領域である。
 同様に、社会的行動の領域はきわめて複雑であり、社会的調和と安定に有利な条件および個人の生活の質について、日常の観察と科学から多くを学ぶことができる。ムーアの議論にはこれが不可能であることを示すものは何もない。それどころか、進化生物学の観点からすれば、道徳の根拠として分析不可能な直感へと撤退することは、控えめに言っても有望ではないように思われる。直観とは結局のところ脳の産物であり、〈真理〉に至る超自然的な通路ではない。直観は神経系によって何らかの仕方で生みだされたものである。直観はその原因が意識からどのように隠されていようと、明らかに経験と文化的実践に基づいたものである。私たちが内観によって直感の源泉を知りえないことは、それ自体は脳の機能に関するひとつの事実――何が意識され、何が意識されないかに関する事実――である。私たちが内観によって直感の源泉を知りえないからといって、そのことは、そうした直感が私たちに何らかの〈形而上学的真理〉を告げることを少しも意味していない。
 これまで論じてきたことは、けっして科学によってあらゆる道徳的ジレンマが解決可能だということではない。ましてや、科学者や哲学者が農夫や大工よりも道徳的に聡明であるということでもない。しかし、これまで論じてきたことは、人間の社会性の本性についてより深く理解することによって、社会的な実践や制度のいくつかが解明され、それらについてこれまで以上に賢明に考えられるようになるだろうし、私たちはその可能性を虚心坦懐に受け入れるべきだということをたしかに示唆している。」
(パトリシア・チャーチランド(1943-),『脳がつくる倫理』,第7章 規則としてではなく,化学同人(2013),pp.266-268,信原幸弘(訳),樫則章(訳),植原亮(訳))
(索引:倫理,価値,科学的方法,健康,人間の本性)

脳がつくる倫理: 科学と哲学から道徳の起源にせまる


(出典:wikipedia
パトリシア・チャーチランド(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
パトリシア・チャーチランド(1943-)
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