2019年4月2日火曜日

08.発話という行為の構造:(A)発語行為(音声行為、用語行為、意味行為)、(B)発語内行為、(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為、(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

発話という行為の構造

【発話という行為の構造:(A)発語行為(音声行為、用語行為、意味行為)、(B)発語内行為、(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為、(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(1)行為(A)発語行為
 (1.1) 「何かを言う」とは、(a)物理的な音声を発する音声行為、(b)ある構文に従い単語を発する用語行為、(c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象と一定の意味を発する意味行為の、3つの側面から理解できる。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(2)行為(B)発語内行為
 (2.1) 適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
 (2.2)(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(3)行為(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
 (3.1)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
 (3.2)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
(4)行為(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為

 「発語内行為というこの概念をさらに研磨する作業に取りかかるのに先立って、発語行為、《および》発語内行為の両者を、さらに第三番目の種類に属する行為と比較してみることにしよう。
 すなわち、発語行為を遂行し、それに伴って発語内行為を遂行するということがさらに、いま一つ別種の意味の行為を遂行することであるというような言葉の使用の第三の意味(C)が存在する。何かを言うことは、多くの場合というよりは、むしろ通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して結果としての効果を生ずることがある。さらに、その効果を生ぜしめるという計画(design)、意図(intention)、目的(purpose)を伴って発言を行うことも可能である。したがって、以上の点に留意するならば、話し手は目下の分類法における発語行為、もしくは発語内行為の遂行に対して、(C・a)間接的に(obliquely)のみ関連する、あるいは、(C・b)全然関連を持たないような、ある行為を遂行したのだと言うことができるであろう。この種の行為の遂行を《発語媒介的行為》(perlocutionary act, perlocution)の遂行と呼ぶ。しかし、当面はさしあたりこの概念について、これ以上の細心な定義を与えることは控え――もちろん、必要なことではあるが――単に例を掲げるにとどめておこう。
(例1)
 行為(A)発語行為
  彼は私に「彼女を射て」で射つことを意味し(mean)、「彼女」で彼女に言及していた。
 行為(B)発語内行為
  彼は私に、彼女を射つように促した。(あるいは助言した。命令した等々)
 行為(C・a)すなわち、発語媒介行為
  彼は私に対して、彼女を射つことを説得した。
 行為(C・b)
  彼は私に彼女を射たせた。
(例2)
 行為(A)発語行為
  彼は私に「君はそれをすることができない。」(You can't do that.)と言った。
 行為(B)発語内行為
  彼は、私がそれを行うことに抗議した。
 行為(C・a)発語媒介行為
  彼は私を制止した(pull up, check)。
 行為(C・b)
  彼は私を制止した。彼は私を正気に戻した等々。
  彼は私を悩ませた。
 さらに同様に、次のように区別することができるだろう。すなわち、「彼は………と言った」は発語行為であり、「彼は………と論じた」は発語内行為であり、また、「彼は、私に………と納得させた」は発語媒介行為である。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第8講 言語行為の一般理論Ⅱ,pp.174-176,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:発語行為,発語内行為,発語媒介行為)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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26.主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違えてはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

主権的立法権の存在と最高の承認のルール

【主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違えてはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

最高の承認のルールとは何か。
(1)法的妥当性の基準、法源が「最高」であるとは、
 (a)ある承認のルール:最高の承認のルール、究極のルール
 (b)別の承認のルール
 (a)の基準に照らして確認されたルールが、他の諸基準(b)に照らして確認されたルールと衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認される。逆に、(a)以外の諸基準に照らして確認されたルールは、(a)の基準に照らして確認されたルールと衝突すれば、承認されない。
(2)「最高」と「無制限」は混同されやすいが、別の概念である。
 (2.1)憲法の条項のなかに、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、その最高性が直ちに無制限な立法権を意味するものではない。
 (2.2)憲法が、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、特定の条項を改正権の範囲外におくことによって、明示的に、立法権限を制限している場合もある。
 (2.3)従って、「すべての法体系は、法的に無制限な主権的立法権の存在を前提としている」という理論は、誤りである。

 「体系の他のルールの妥当性の評価基準を与えている承認のルールはわれわれが明らかにしようと試みる重要な意味をもっており、《究極の》ルール the ultimate rule である。

そして普通見られるように、いくつかの基準が相対的な従属と優越という順序に位置づけられているところではそのうちの一つが《最高》supreme なのである。承認のルールの究極性とその基準のうちの一つがもつ最高性というこれらの観念は注目に値する。

われわれが拒否した理論から、つまりすべての法体系のどこかに、たとえそれが法的形式の背後にあっても、法的に無制限な主権的立法権が存在しなければならないという理論から、これらの観念を解き放すことは重要である。

 最高の基準と究極のルールというこれら二つの観念のうち、第一のものは非常に容易に定義できるものである。

法的妥当性の基準あるいは法源が最高であると言ってよいのは、その基準に照らして確認されたルールが、たとえその他の諸基準に照らして確認されたルールと衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認されるのであるが、それにひきかえ他の諸基準に照らして確認されたルールは最高の基準に照らして確認されたルールと衝突すればそのようには承認されないという場合である。

比較の観点から、われわれがすでに用いた「優越的」基準や「従属的」基準という概念について、同じような説明をすることができる。

優越的基準や最高の基準という観念は単に尺度上の《相対的》位置に関係しているだけで、法的に《無制限》な立法権というどんな観念をも意味していないことは明らかである。

しかし、「最高」と「無制限」ということは少なくとも法理論上では容易に混同されるものである。その一つの理由は、より単純な形態の法体系において究極の承認のルール、最高の基準、法的に無制限な立法府という諸観念が一致してくるように思えることである。 

というのは、立法府が何ら憲法的制限に服さず、みずからの制定法によって自己以外の源から生じるその他の法のルールすべてから法としての地位を取り去る権限をもっているところでは、その立法府の制定法は妥当性の最高の基準であるということが、その体系の承認のルールの一部になっているからである。

憲法理論によれば、これがイギリスにおける立場なのである。

しかし立法府がそのように無制限ではないアメリカ合衆国の体系のような諸体系においてさえ、妥当性に関して一つの最高の基準を含む一組の諸基準を与える究極の承認のルールが完全にとりこまれているだろう。

改正権を規定していないかあるいはいくつかの条項を改正権の範囲外におく憲法によって通常の立法府の立法権限が制限されているところでも、そのとおりの状況であろう。

「立法」という言葉をもっとも広く解釈したとしても、ここでは法的に無制限な立法府は存在していないのであるが、その体系はもちろん究極の承認のルールを含んでいるし、憲法の条項のなかに妥当性に関する最高の基準を含んでいるのである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.115-116,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))

(索引:主権的立法権の存在,最高の承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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4.(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサム道徳論の限界を超える

【(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.3)、(b.4)追記。
(2.5.1)~(2.5.3)追記。
(3.2.1)、(3.2.2)追記。


(1)人間が持つ欲求、感情、傾向性
 (a)有害なものを避け、幸福を願う欲求
 (b)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情
  (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
  (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
  (b.3)共感
  (b.4)一般的博愛:義務の感情や個人的利害からではなく、誰でもが抱く博愛の感情
  (b.5)愛することへの愛:同情的な支持を必要とすること。
    また賞賛、崇敬する対象を必要とすること。
  (b.6)良心の感情:是認したり非難したりする感情
  (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
  (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
  (b.9)芸術家の情熱である美への愛
  (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
  (b.11)運動や活動、行為への愛
(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
(3)ミルの考え
 (3.1) 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素ともなり得るし、経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機の一つともなっている。
  (3.2.1)何が望ましいのかに関する理性による判断:道徳は2つの部分から構成されている。
   (i)人間の外面的な行為の規制に関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の世俗的利益に対してどのような影響を及ぼすか。
   (ii)自己教育:人間が自分で自分の感情や意志を鍛練すること。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の感情や欲求に対してどのような影響を及ぼすか。
  (3.2.2)経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機。
   (i)自己涵養への願望のようなもの。
   (ii)自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情。
   (再掲)
    (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
    (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
    (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
    (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
    (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
    (b.11)運動や活動、行為への愛

 「共感はベンサムが私欲によらない動機として認めていた唯一のものであるが、それはある限定的な場合を除けば有徳な行為を保証するものとしては不十分なものであると彼は思っていた。

他のあらゆる感情と同じように、個人的愛情は第三者に危害をもたらしがちであり、したがってつねに抑制される必要があるということを彼はよく理解していた。

人類全体に作用する動機と考えられている一般的博愛については、それが義務の感情と切り離されたときに現われる本当の価値を評価し、あらゆる感情のなかでもっとも弱くもっとも不安定なものとした。

人類が影響を受け、彼らを善に導くかもしれない一つの動機として、個人的利益だけが残された。したがって、ベンサムの世界観は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている集合体というものであり、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことは3つの源泉――法律、宗教および世論――から生じる希望と恐怖によって防止されなければならないというものである。

人間の行為を拘束するものとみなされたこれらの3つの力に対して、彼は《強制力》(sanction)という名称を与えた。すなわち、法律の与える賞罰によって作用する政治的強制力、宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する宗教的強制力、彼が特徴的に《道徳的》強制力とも呼んでいる、私たちの同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する《民衆的》強制力である。


 このようなものが世界についてのベンサムの見解である。これから私たちは、弁明しようという精神でも非難しようという精神でもなく、冷静に評価しようという精神をもって、人間本性や人間の生についてのこのような見方がどの程度まで通用するのか――すなわち、それは道徳においてどれほどのことを成し遂げるのか、また、政治・社会哲学においてどれほどのことを成し遂げるのか、さらに、個人にとってどのように役に立ち、社会にとってどのように役に立つのか――を検討することになる。

 これは個人の行為については、世俗的な慎慮と表面的な誠実さや慈愛についてもっとも明白な指示をいくつか示すこと以上には何の役にも立たないだろう。

個人の性格形成に際して助けになろうとしないような、また自己涵養への願望のようなもの、さらにはそのような能力と言ってもよいだろうが、そのようなものが人間本性に存在していることを認識しないような倫理学体系のもつ欠陥については詳述する必要はない。

そして、仮に認識していたとしても、自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情を含めた、人間が抱きうる精神的感情の約半数の存在を見落としているために、人間のこの重要な義務にとってほとんど助力を与えることができていないようなものについても同様である。

 道徳は2つの部分から構成されている。そのひとつは自己教育、すなわち人間が自分で自分の感情や意志を鍛練することである。この領域はベンサムの体系においては空白である。

もうひとつの同等の部分は、人間の外面的な行為の規制に関するものであるが、第一のものがなければ、まったく不十分で不完全なものであるに違いない。

というのも、ある行為が私たち、あるいは他の人々の感情や欲求を規定する際にどのような影響を及ぼすかということを問題の一部として考慮しないとしたら、ある行為が私たち自身、あるいは他の人々の世俗的利益に対してどのような仕方で多くの影響を与えるかを、私たちはどのようにして判断できるだろうか。

ベンサムの原理に立脚している道徳論者も、殺すなかれ、放火するなかれ、盗むなかれという程度のことには到達できるだろう。

しかし、人間の行為のより微妙な違いを規定したり、この世界の状況に影響を及ぼすこととはまったく別に、性格の深みに影響するような人間の生についての事実――たとえば、男女間の関係、家族一般の関係、その他の何らかの親密な社会的・共感的関係など――に対して、より重要な道徳性を認める能力があるだろうか。

これらの問題の道徳性は、ベンサムがその適格な判定者でもなく、彼が決して考慮することのなかったような事柄を考察することに左右されるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.130-132,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳論,自らの精神のあり方を対象とする諸感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

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