2018年11月9日金曜日

(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言の不適切性の理論

【(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】
行為遂行的発言の不適切性の理論
(A・1)ある一定の慣習的な効果を持つ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存在しなければならない。そして、その手続きはある一定の状況のもとにおける、ある一定の人々による、ある一定の言葉の発言を含んでいなければならない。
(A・2)発動された特定の手続きに関して、ある与えられた場合における人物および状況がその発動に対して適当でなくてはならない。
(B・1)その手続きは、すべての参与者によって正しく実行されなくてはならない。かつまた、
(B・2)完全に実行されなくてはならない。
(Γ・1)その手続きが、しばしば見受けられるように、ある一定の考え、あるいは感情を持つ人物によって使用されるように構成されている場合、あるいは、参与者のいずれかに対して一連の行為を惹き起こすように構成されている場合には、その手続きに参与し、その手続きをそのように発動する人物は、事実、これらの考え、あるいは感情を持っていなければならない。また、それらの参与者は自らそのように行動することを意図していなければならない。そしてさらに、
(Γ・2)これら参与者は、その後も引き続き、実際にそのように行動しなければならない。

 「要するに、行為を適切に遂行した(have happily brought off our action)と言い得るためには、いわゆる遂行的な言葉を発すること以外に、一般的な通則としてなお数多くの事が正しく(right)なくてはならないし、また、数多くの事が正しく行なわれなくてはならないのである。そこでいったいいかなる事が正しくなくてはならないかということは、何かが《うまく行っていない》(go wrong)が故に、その結果として結婚、賭け、贈与、命名その他の行為が少なくともある程度において失敗に終わるような事例の型を観察、分類することによって明らかにすることができるであろう。そしてこれらの失敗に終わるような事例においてなされた発言については、それを偽であるというべきではなく、むしろ一般に《不適切》(unhappy)であるというべきであろう。そこでこの理由により、遂行的発言がなされた際に《何かがうまくない、または、何かがうまくはこんでいないといわれ得るようなその何か》に関する理論を《不適切性》の理論(the doctrine of the Infelicities)と名付けよう。
 以下さしあたり次のような順序で議論を進めて行くことにしたい。まず最初に、行為遂行的発言(あるいは、少なくともこの講義でこれまでとりあげてきた例にみられるような、高度に発達した顕在的な行為遂行的発言(explicit performative)を円滑、かつ適切に機能させるために必要とされる事柄のいくつかを、図式的に述べてみる。ただし、私はここで述べる図式がいかなる意味においても究極的に正しいものであると主張するつもりはない。そして、次に、不適切性とそれがもたらす結果についていくつかの例を挙げることを試みる。ここで私が危惧すると同時にまたもちろん希望することは、以下に述べる種類の満たされるべき必要条件なるものがあまりにも明白であることに諸兄が驚愕されることである。
(A・1)ある一定の慣習的な(conventional)効果をもつ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存在しなければならない。そして、その手続きはある一定の状況のもとにおける、ある一定の人々による、ある一定の言葉の発言を含んでいなければならない。
(A・2)発動(invoke)された特定の手続きに関して、ある与えられた場合における人物および状況がその発動に対して適当(appropriate)でなくてはならない。
(B・1)その手続きは、すべての参与者によって正しく実行されなくてはならない。かつまた、
(B・2)完全に実行されなくてはならない。
(Γ・1)その手続きが、しばしば見受けられるように、ある一定の考え、あるいは感情をもつ人物によって使用されるように構成されている場合、あるいは、参与者のいずれかに対して一連の行為を惹き起こすように構成されている場合には、その手続きに参与し、その手続きをそのように発動する人物は、事実、これらの考え、あるいは感情をもっていなければならない。また、それらの参与者は自らそのように行動することを意図していなければならない。そしてさらに、
(Γ・2)これら参与者は、その後も引き続き、実際に(actually)そのように行動しなければならない。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第2講 不適切性の理論Ⅰ,pp.25-27,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的発言の不適切性の理論)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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