人間以外の動物たちへの配慮
【人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】(2.3)追記
(2)ベンサムの考え
(2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
(2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
(2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。
(2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
(2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
(i)民衆的強制力(道徳的強制力)
ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
(i.1)快と苦が生み出す諸感情
(i.1.1)自然な満足感、嫌悪感
《観点》ある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
(i.1.2)自己是認、自己非難
《観点》自分のある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
(i.1.3)好意と反感
《観点》他者のある行為が、自分たちの幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
(i.2)民衆的強制力は、同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
(i.2.1)行為者Aの行為a
(i.2.2)行為者B:行為者Aの行為aに対する、好意と反感。
(i.2.3)行為者Aは、行為者Bの好意に快を感じ、反感に苦痛を感じることができる度合いに応じて、行為者Bの幸福(快)を生み出し、不幸(苦)を減らす方向に促す。
(ii)政治的強制力
法律の与える賞罰によって作用する。
(iii)宗教的強制力
宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
(2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
(i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
(ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
(iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
(2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
(出典:wikipedia)
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ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)
「ベンサムによれば、人間の快苦に配慮することと同じように人間以外の動物の快苦に配慮することも道徳的義務である。
ヒューウェル博士はベンサムから引用し、誰もがそれを逆説的な不合理の極みと見なすだろうというきわめて素朴な考えを示しているが、私たちはその賞賛に値するベンサムの文章を引用せざるをえない。
『ヒンドゥー教やイスラム教においては、人間以外の動物の利益もある程度配慮されているようである。
『ヒンドゥー教やイスラム教においては、人間以外の動物の利益もある程度配慮されているようである。
なぜ動物たちの利益は、感受性の違いを考慮に入れた上で、人間の利益と同じくらいの配慮を普遍的には受けてこなかったのだろうか。
既存の法律は人間相互の恐怖心の産物であり、理性能力で劣る動物は、人間のように恐怖心という感情を活用する手段を持ち合わせていなかったからである。
なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対してはいかなる理由も見いだすことはできない。
人間以外の動物が、暴君の手による以外には彼らから奪うことのできなかった権利を獲得する日がいつかくるだろう。いつの日か、足の本数、皮膚の毛深さ、あるいは仙骨の先端[尻尾の有無]が、感覚をもっている存在を虐待者の気まぐれに任せる根拠としては不十分であると認められることだろう。
何かほかに越えがたい一線を引くようなものがあるだろうか。
それは理性能力なのか、あるいはひょっとすると会話能力なのか。しかし、成長した馬や犬は、生後1日や生後1週間、さらには生後1ヵ月の乳児よりも比べものにならないほど理性的で意思疎通のできる動物である。
しかし、仮にその正反対のことが事実であったとしても、その事実が何の役に立つのだろうか。
問題は理性を働かせることができるかでも、話すことができるかでもなく、苦痛を感じることができるかということなのである。』
約50年後に成立した動物虐待を禁止する法律ではじめて現れたより優れた道徳を1780年の時点でみごとに予期していたこの文章は、ヒューウェル博士の目には、幸福に基づく道徳論が不合理であることを決定的に証明するものとして映っているのである。」
約50年後に成立した動物虐待を禁止する法律ではじめて現れたより優れた道徳を1780年の時点でみごとに予期していたこの文章は、ヒューウェル博士の目には、幸福に基づく道徳論が不合理であることを決定的に証明するものとして映っているのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ヒューウェルの道徳哲学』,集録本:『功利主義論集』,pp.217-219,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:人間以外の動物たちへの配慮)
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(出典:wikipedia)
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(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
ジョン・スチュアート・ミルの関連書籍(amazon)
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検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション<京都大学学術出版会