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2018年4月11日水曜日

認識の欠陥による不決定な状態は、程度の低い自由である。また、真と善を明晰に見たときの躊躇のない判断・選択は自由を減少させるものではない。悟性には到達し難い一層広い範囲にまで、意志は及び得る。これが自由意志であり、誤りと罪の原因でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自由意志と誤り、罪

【認識の欠陥による不決定な状態は、程度の低い自由である。また、真と善を明晰に見たときの躊躇のない判断・選択は自由を減少させるものではない。悟性には到達し難い一層広い範囲にまで、意志は及び得る。これが自由意志であり、誤りと罪の原因でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 意志の「自由」とは何か。何等の根拠も私を他方の側によりも一方の側に一層多く駆り立てない場合に私が経験するところの、かの不決定は、最も低い程度の自由であり、これは、意志における完全性ではなくて、ただ認識における欠陥を示す。なぜなら、何が真であり善であるかを明晰に見たならば、私は決していかなる判断をすべきか、あるいはいかなる選択をすべきかについて躊躇しなかっただろうからだ。そして、意志は悟性よりも一層広い範囲に及ぶ故に、私が意志を悟性と同じ範囲の内に限らないで、私の理解しないものにまでも広げることになる。かかるものに対して意志は不決定である故に、容易に意志は真と善とから逸脱し、かようにして私は過つと共にまた罪を犯す。
 「私が自由であるためには、私が一方の側にも他方の側にも動かされることができるということは必要でなく、かえって反対に、私が真と善との根拠をその側において明証的に理解する故にせよ、あるいは神が私の思惟の内部をそうするように処置する故にせよ、私の一方の側に傾くことが多ければ多いだけ、ますます自由に私はその側を選択するのであるから。実に神の聖寵も、自然的な認識も、決して自由を減少せしめるのではなく、かえってむしろこれを増大し、強化するのである。しかるに、何等の根拠も私を他方の側によりも一方の側に一層多く駆り立てない場合に私が経験するところの、かの不決定は、最も低い程度の自由であり、そして意志における完全性ではなくて、ただ認識における欠陥、すなわち或る否定を証示するのである。なぜなら、もし私がつねに何が真であり善であるかを明晰に見たならば、私は決していかなる判断をすべきかあるいはいかなる選択をすべきかについて躊躇しなかった筈であり、そしてかようにして、たといまったく自由であったにしても、決して不決定ではあり得なかったであろうから。
 ところでこれらのことから私は次のことを知覚する。すなわち、私が神から授かっている意欲の力は、それ自身として観られた場合、私の誤謬の原因ではないということを。なぜなら、この力は極めて広くて、その類において完全であるから。また理解の力もそうではないということを。なぜなら、私はこの力を神から理解するために授かっている故に、私の理解するあらゆるものは、疑いもなく私はこれを正しく理解し、そしてこれにおいて私が過つということはあり得ないから。しからばどこから私の誤謬は生じるのであろうか。言うまでもなくただこの一つのことから、すなわち、意志は悟性よりも一層広い範囲に及ぶ故に、私が意志を悟性と同じ範囲の内に限らないで、私の理解しないものにまでも広げるということからである。かかるものに対して意志は不決定である故に、容易に意志は真と善とから逸脱し、かようにして私は過つと共にまた罪を犯すのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察四、pp.86-87、[三木清・1949])
(索引:自由意志、意志、悟性、真、善、誤り、罪)

省察 (岩波文庫 青 613-2)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2017年12月28日木曜日

私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))

私以外のものの存在

【私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 もし私の有する観念のうちの或るものの客観的実在性にして、それが形相的にも優越的にも私のうちに存せず、また従って私自身がこの観念の原因であり得ぬことが私に確実であるほど大きいものであるならば、ここから必然的に、私のみが独り世界にあるのではなく、かかる観念の原因であるところの或る他のものがまた存在するということが帰結する。
 「私が私の有する観念のうちにおいて考察するところの実在性は単に客観的なものであるからして、この実在性がこの観念の原因のうちに形相的に有ることは必要でなく、かえってこの原因のうちにおいても客観的に有れば十分であろう、と忖度してはならない。というのは、この客観的な存在の仕方が観念に、観念そのものの本性上、合致すると同じように、形相的な存在の仕方が観念の原因に、―――少なくともその第一にして主要なる原因には―――この原因の本性上、合致するからである。そしてたとい恐らく一の観念は他の観念から生まれることができるにしても、これはしかしこのようにして無限に遡ることができないのであって、遂にはいわば或る第一の観念に達しなくてはならず、しかしてこの観念の原因は、観念のうちにおいてはただ客観的に有る一切の実在性を形相的に自己のうちに含むところの、原型ともいうべきものなのである。かようにして観念は私のうちにおいて恰も或る影像の如きものであって、これは、たしかに、これを得てきたもとのものの完全性に及ばぬことは容易にあり得るが、或るより大きなものまたはより完全なものを含み得ないことは、自然的な光によって私に明瞭である。
 そしてこのすべてのことは、これを考量することが長ければ長いだけ、注意深ければ注意深いだけ、いよいよ明晰に、いよいよ判明に、その真であることを私は認識するのである。しかし私は何を結局これから結論しようとするのであるか。言うまでもなく、もし私の有する観念のうちの或るものの客観的実在性にして、それが形相的にも優越的にも私のうちに存せず、また従って私自身がこの観念の原因であり得ぬことが私に確実であるほど、大きいものであるならば、ここから必然的に、私のみが独り世界にあるのではなく、かかる観念の原因であるところの或る他のものがまた存在するということが帰結するということである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察三、pp.63-64、[三木清・1949])
(索引:私ではないものの存在)

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは、私自身が何であるかの認識でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

蜜蝋の例

【いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは、私自身が何であるかの認識でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 いま眼の前にある、この蜜蝋の知覚が、一層多くの原因によって明瞭になり、一層多く判明なものと思われたならば、今やいかに多く一層判明に、私自身は私によって認識せられることか、と言わなければならぬ。
 「この私の見るものが実は蜜蝋でないということはあり得る、私が何等かのものを見る眼を決して有しないということはあり得る、しかし、私が見るとき、あるいは(いま私はこれを区別しないが)私は見ると私が思惟するとき、思惟する私自身が或るものでないということは、まったくあり得ないのである。同様の理由で、もし私が蜜蝋に触れるということから、蜜蝋があると判断するならば、同じことがまた、すなわち私は有るということが結果する。もし私が想像するということから、あるいは他のどんな原因からであっても、蜜蝋が有ると判断するならば、やはり同じことが、すなわち私は有るということが結果するのである。しかも蜜蝋について私が気づくまさにこのことは、私の外に横たわっている余のすべてのものに適用することができる。そして更に、もし蜜蝋の知覚が、単に視覚あるいは触覚によってのみでなく、一層多くの原因によって私に明瞭になった後、一層多く判明なものと思われたならば、今やいかに多く一層判明に私自身は私によって認識せられることか、と言わなければならぬ。というのは、蜜蝋の知覚に、あるいは何か他の物体の知覚に寄与するいかなる理由も、すべて同時に私の精神の本性を一層よく証明する筈であるからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察二、pp.49-50、[三木清・1949])

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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この蜜蝋は、いったい何か。これは確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。対象として特定し、言葉で捉えられたものには、すでに不完全で不分明なものが混入している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

蜜蝋の例

【この蜜蝋は、いったい何か。これは確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。対象として特定し、言葉で捉えられたものには、すでに不完全で不分明なものが混入している。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 いま眼の前にある、この蜜蝋とは、いったいどういうものであるのか。それは、私が見、私が触れ、私が想像するものと同じもの、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。ここで注意すべきことは、この眼の前にある蜜蝋に対して、たとい私が黙って、声を上げないで考察するにしても、私は言葉そのものに執着し、そしてほとんど日常の話し方そのものによって欺かれる。すなわち我々は、蜜蝋がそこにあるならば、我々は「蜜蝋そのものを見る」と言う。ここにはすでに、別のものが混入している。私は、精神がいかに誤謬に陥り易いものであるかに驚く。対象としての特定、視覚や触覚や想像の作用で記述することは、眼の前の蜜蝋の記述としては、すでに不完全で不分明なものなのである。
 「しからば精神によってのほか知覚せられないこの蜜蝋は、いったいどういうものであるのか。疑いもなく、私が見、私が触れ、私が想像するものと同じもの、要するに私が始めからこういうものであると思っていたのと同じものである。しかしながら、注意すべきことは、この蜜蝋の知覚は、視覚の作用でも、触覚の作用でも、想像の作用でもあるのではなく、また、たとい以前にはかように思われたにしても、嘗てかようなものであったのではなく、かえってただ単に精神の洞観である、そしてこれは、これを構成しているものに私が向ける注意の多少に応じて、あるいは以前そうであったように不完全で不分明であることも、あるいは現在そうあるように明晰で判明であることもできるのである。しかるに一方私はいかに私の精神が誤謬に陥り易いものであるかに驚く。というのは、たとい私がこのことどもを自分において黙って、声を上げないで考察するにしても、私は言葉そのものに執着し、そして殆ど日常の話し方そのものによって欺かれるからである。すなわち我々は、蜜蝋がそこにあるならば、我々は蜜蝋そのものを見る、と言い、我々は色あるいは形体を基として蜜蝋がそこにあると判断する、と我々は言わないのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察二、pp.47-48、[三木清・1949])
(索引:蜜蝋の例)

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2017年12月26日火曜日

疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

我思う故に我あり

【疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「しからば私は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいうのか。言うまでもなく、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものである。まことにこれは、もし全部が私に属するならば、僅少ではない、しかしなぜ属してはならないであろうか。いま殆ど一切のものについて疑い、しかしいくらかのものは理解し、この一つのことは真であると肯定し、余のことを否定し、一層多くのことを知ろうと欲求し、欺かれることを欲せず、多くのことを意に反してであれ想像し、なおまたいわば感覚からきた多くのものを認めるものは、私そのものではないのか。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察二、p.43、[三木清・1949])

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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

我思う故に我あり

【私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。】
 偽なるものに同意しないように用心する「私」が、確かに存在する。この私の存在も、疑うことができる。しかし、疑うことが、また確かに、私が存在していることを示す。このようにして、私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。私は存在する。
 「私は、世界のうちにまったく何物も、何等の天も、何等の地も、何等の精神も、何等の身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、『私は有る、私は存在する』、という命題は、私がこれを言表するたび毎に、あるいはこれを精神によって把握するたび毎に、必然的に真である、として立てられねばならぬ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察二、p.38、[三木清・1949])
(索引:我思う故に我あり、コギト・エルゴ・スム)

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
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(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悪意のある老獪な霊

【もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。】
 「そこで私は、真理の源泉たる最善の神ではなく、或る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと仮定しよう。そして天、空気、地、色、形態、音、その他一切の外物は、この霊が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考えよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何等の感官も有しないもので、ただ間違って私はこのすべてを有すると思っているものと見よう。私は堅くこの省察に執着して踏み留まろう。そしてかようにして、もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、確かに次のことは私の力のうちにある。すなわち私は断乎として、偽なるものに同意しないように、またいかに有力で、いかに老獪であろうとも、この欺瞞者が何も私に押しつけ得ないように、用心するであろう。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察一、p.36、[三木清・1949])
(索引:悪意のある老獪な霊)


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 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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