2020年5月8日金曜日

タカ-ハト・ゲームでは、取りにいく方が相対的優位性が大きい。しかし、両者が取りにいくと最も非効率な結果を招く。全体利益の最大化観点からは、譲歩の必要性が分かるが、どちらが譲歩するかで対立する。(フランチェスコ・グァラ(1970-))

タカ-ハト・ゲーム

【タカ-ハト・ゲームでは、取りにいく方が相対的優位性が大きい。しかし、両者が取りにいくと最も非効率な結果を招く。全体利益の最大化観点からは、譲歩の必要性が分かるが、どちらが譲歩するかで対立する。(フランチェスコ・グァラ(1970-))】
(f)タカ-ハト・ゲーム
 (f.1)各プレーヤーは、積極的に取りにいく方に、選好を持つ。
  (i)利益の期待値は、同じである。(期待値)
  (ii)積極的に取りにいく方は、相手に依存するリスクにさらされている。(リスク)
  (iii)積極的に取りにいく方が、相手に対する相対的優位性が大きい。(期待値の相対的優位性)
 (f.2)両者が積極的に取りにいけば、最も非効率な結果となる。この結果は、自制することへの選好を強める。逆に、両者が自制すると考えれば、積極的に取りにいくことへの選好を強める。すなわち、これらいずれも均衡状態ではない。
 (f.3)両者は、両者の利益の合計値を最大化する観点から見た場合、一方が譲歩することがより良いと知ることはできるが、どちらが譲歩するかで利害対立が存在する。
    プレーヤー1
プ   放牧  しない
レ  ┌───┬───┐
|放牧│0、0│2,1│
ヤ  ├───┼───┤
|しな│1、2│1、1│
2 い└───┴───┘

 「ソバト渓谷の放牧ゲームは、行列を用いて戦略型ゲームで表現することができるが、これは生物学において「タカ-ハト・ゲーム」、経済学においては「チキン・ゲーム」として知られているものである。ヌアー族とディンカ族は、新たな土地を見つけるたびに、意思決定をしなければならないが。図4・2において、戦略Gは「放牧(graze)」を表し、NGは「放牧しない(not graze)」を表している。彼らが同じ領域で放牧することに決めるならば、二つの部族のメンバーは争うことになり、それが全員にとって最悪の結果である(0,0)をもたらす。どちらの部族も自制するならば、彼らは衝突しないけれど畜牛を養育する機会を失い、(1,1)になる。最善解は、右上と左下にある二つの均衡のうちの一つに収束することである。そこでは、片方の部族が放牧し、もう片方がそれを認めるのである。しかし誰が譲歩するのだろうか。
 放牧ゲームは、非対称な均衡を持ったコーディネーション問題であり、どちらの均衡になるのかは誰が譲歩するかに依存する。しかし、プレーヤーたちは同一なので、なぜ彼らのうちの一方がより低い利得を受け入れるべきなのか。ここでの唯一の対称的な解決策は非効率的であるだけでなく、ゲームの均衡ですらないことに注目すべきである。その結果、どちらかのプレーヤーが遅かれ早かれ、一方的に逸脱すると期待できる。
 私たちの架空の物語は、ある解を「自明」なものとして際立たせるように設計されていた。物語の続きはこうである。
 “相手部族の領域に侵入することは簡単であったが、ヌアー族とディンカ族は紛争を避けることを望んだ。ヌアー族はかつての河床の北側で放牧し、ディンカ族は南側で放牧し続けた(図4・1b)。細かい砂の線は侵略者を物理的に妨げることができなかったが、各部族は喜んで、それを領土を分つ境界線として扱った。”
 境界線や領土は制度的存在物である。ヌアー族とディンカ族は、原初的な私有財産の制度を発展させたのである。しかし、この制度はゲーム理論的形式ではどのようにモデル化できるだろうか。境界線や領土は放牧ゲームに表現されてすらいないことに注意されたい(図4・2)。境界線や領土は、コーディネーション問題の解の発見に役立つ理論の外部にある特徴なのである。」
    プレーヤー1
プ   放牧  しない
レ  ┌───┬───┐
|放牧│0、0│2,1│
ヤ  ├───┼───┤
|しな│1、2│1、1│
2 い└───┴───┘


(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第4章 相関,pp.77-78,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:タカ-ハト・ゲーム)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

フランチェスコ・グァラ(1970-)
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集団間の衝突を激化させる6要因:(a)自集団の優先(b)独自の社会観,価値観,感情(c)独自の道徳観,約束事,伝統(d)独自の公正,正義観(e)利害や社会的力関係から歪みやすい諸信念(f)他者に与える危害の過小評価(ジョシュア・グリーン(19xx-))

集団間の衝突を激化させる6要因

【集団間の衝突を激化させる6要因:(a)自集団の優先(b)独自の社会観,価値観,感情(c)独自の道徳観,約束事,伝統(d)独自の公正,正義観(e)利害や社会的力関係から歪みやすい諸信念(f)他者に与える危害の過小評価(ジョシュア・グリーン(19xx-))】

(4)追加。

(1)偏狭な利他主義、部族主義
  人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。それは、自他の社会的位置を識別し、表示し、行動を調整する人間の能力を基礎とし、所属集団の利益を守るため、集団内部の協力を促し、外部に対抗する傾向である。(ポール・ブルーム(1963-))
(出典:Yale University
ポール・ブルーム(1963-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ポール・ブルーム(1963-)
検索(ポール・ブルーム)
検索(Paul Bloom)
 人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。
 (a)協力集団は、部外者による搾取から自分たちを守らなくてはならない。
 (b)そのために、協力できる集団内の他者と、そうでない集団外の他者を区別する。すなわち、《私たち》を《彼ら》から見分ける必要がある。
 (c)そして、《彼ら》より《私たち》をひいきにする。
(2)社会的な位置の識別、表示、行動調整
 人間は、自分を中心とする社会的宇宙の中で、人がどこに位置するかにきわめて鋭い注意を向け、自分たちに、より近い人をひいきにする傾向がある。
 (a)私たちは、自分の社会的な位置を表現する能力を持っている。
 (b)私たちは、他者の社会的な位置を読み取る能力を持っている。
 (c)私たちは、読み取った内容に応じて行動を調整する能力を持っている。
 (d)私たちには、自分に近い人をひいきにする傾向がある。
(3)同心円状に広がる複数の部族
 私たちはみな、同心円状に広がる複数の社会的な円の中心にいる。
 (a)もっとも近い血縁者や友人たち
 (b)遠い親戚や知人たち
 (c)種類や規模も様々な集団の一員となることで関係をもつ他人
  例えば、村、氏族、部族、民族集団、ご近所、街、州、地方、国。教会、宗派、宗教など
 (d)所属政党、出身校、社会階級、応援しているスポーツチームや好きなもの嫌いなもの
(4)集団間の衝突を激化させる6つの心理的性向
 (a)他集団より自集団を優先させる
  人間の部族は部族主義であり、《彼ら》より《私たち》を優先させる。
 (b)集団独自の社会観、価値観、諸感情
  社会の組織のあり方、個人の権利と集団のより大きな善のどちらをどの程度優先させるかについての考えは、部族ごとにまったく異なる。部族の価値観は、脅威に対する反応の仕方を定める名誉の役割のような、その他の側面についても異なる。
 (c)集団独自の道徳的約束事、個人、文書、伝統、神
  部族には独特の道徳的約束事がある。典型的なものが宗教的約束事で、これによって、他の集団が権威として認めない、ローカルな個人、文書、伝統、神などに道徳的権威が授けられる。
 (d)集団独自の公正、正義
  部族は、バイアスのかかった公正に陥りがちであり、集団レベルでの利己主義によって、正義感が歪められる場合がある。
 (e)集団独自の信念は、利害や社会的力関係から歪みやすい
  部族の信念には、簡単にバイアスがかかる。ある信念がひとたび文化的な旗印になると、部族の利益を損なうものであっても長く続く場合がある。
  (i)単純な利己心から生じる場合
  (ii)複雑な社会的力関係から生じる場合
 (f)他者に与える危害を過小評価
  周囲の出来事に関する情報処理の方法が原因で、他者に与える危害を過小評価し、対立をエスカレートさせる場合がある。

 「本章では、部族間の衝突を激化させる6つの心理的性向を考えてきた。
 1.人間の部族は部族主義であり、《彼ら》より《私たち》を優先させる。
 2.社会の組織のあり方、個人の権利と集団のより大きな善のどちらをどの程度優先させるかについての考えは、部族ごとにまったく異なる。部族の価値観は、脅威に対する反応の仕方を定める名誉の役割のような、その他の側面についても異なる。
 3.部族には独特の道徳的約束事がある。典型的なものが宗教的約束事で、これによって、他の集団が権威として認めない、ローカルな個人、文書、伝統、神などに道徳的権威が授けられる。
 4.部族は、その中の個人と同様に、バイアスのかかった公正に陥りがちであり、集団レベルでの利己主義によって、正義感が歪められる場合がある。
 5.部族の信念には簡単にバイアスがかかる。バイアスのかかった信念は、単純な利己心から生じる場合もあれば、より複雑な社会的力関係から生じる場合もある。ある信念がひとたび文化的な旗印になると、部族の利益を損なうものであっても長く続く場合がある。
 6.周囲の出来事に関する情報処理の方法が原因で、他者に与える危害を過小評価し、対立をエスカレートさせる場合がある。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第3章 あらたな牧草地の不和,岩波書店(2015),(上),pp.128-129,竹田円(訳))
(索引:偏狭な利他主義,部族主義,社会観,価値観,感情,道徳観,正義観,信念)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

ジョシュア・グリーン(19xx-)
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諸個人が価値の源泉であり、自身に起因する結果を所有する。他者もまた、私と同じ価値の源泉である。他者との自由な、合意に基づく交換は、その結果のすべてを正当化する。正しいか? 何が足りないのか?(立岩真也(1960-))

個人主義と自由主義

【諸個人が価値の源泉であり、自身に起因する結果を所有する。他者もまた、私と同じ価値の源泉である。他者との自由な、合意に基づく交換は、その結果のすべてを正当化する。正しいか? 何が足りないのか?(立岩真也(1960-))】

(2)根拠づけられない信念としての原理
 「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。先占の原理、因果の起点の原理、制御の原理。いずれも説得的ではない。しかしそもそも、これらは根拠づけを欠いた単なる信念なのである。(立岩真也(1960-))
 「自分が制御するものは自分のものである」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠づけられない原理なのである。

 (a)諸個人が価値の源泉であり、自身に起因する結果を所有する
  自身に内属するものを基点とし、それに起因する結果が自らのものとして取得され、その取得したものが自らの価値を示す。「私」という主体に因果の開始点、判断・決定の基点を認める。私が第一のものであり、それ以外のものは、その外側にあって私に制御されるものである。
 (b)他者もまた、私と同じ価値の源泉である
  他者とは、選択意思を持ち、その意思のままに外界を動かせる存在である。私と同じ存在を同格の存在として認める。私と同格な存在としての他者を尊重する。
 (c)他者との自由な、合意に基づく交換
  他者に対して行う行為は、その者の同意がなければ許容されない。脅迫や強制ではなく、契約、契約に基づいた交換が関係の基本となる。
 (d)結果はすべて許容される
  自己決定なら、また合意があれば、全てが許容される。

「だがともかく、こういう図式が示される。自身に内属するものを基点とし、それに起因する結果が自らのものとして取得され、その取得したものが自ら(の価値)を示す。「私」という主体に因果の開始点、判断・決定の基点を認める。私が第一のものであり、それ以外のものは、その外側にあって私に制御されるものである。そしてこれは単に哲学者の著作の中にあるだけではない。これは、現実に近代の社会の中で作動するメカニ▽084 ズムなのであり、人の意識を捉える教えである。このことについては第6章2節で述べる。
 この図式の中で他者はどんな位置を占めることになるのか。もちろん、「私」を基点に置く論にしても、私の欲望を貫き通すこと、外界を制御し尽くすことが多くの場合に困難であることは知っている。事物、他者の抵抗に会うからである。まず、どんなに高度な技術を持っていても私達は自然界の法則を破ることはできない。私達は法則に従うしかなく、私達ができることはそれを利用することである。そして相手は私の言うことを聞いてくれない。しかし、それは外在的な制約条件、利害の対立として捉えられる。完全に自己を実現するのが不可能なのは偶然的、外在的な条件によるのであり、その障害が除去されれば、私の欲望はどこまでも進んでいくことになるだろう。
 といって、こういう考え方が、ただ他者を自分に対立する相手と見ているだけであるわけではない。私について言えることは他の者についても当てはまる。まず、主張の普遍性を求めればそうなる。また、自分についての権利を認めさせるためには、私と同じ他者に対しても権利を認めることである。その私、そして他者とは、選択意思を持ち、その意思のままに外界を動かせる存在である。私と同じ存在を同格の存在として認める。私と同格な存在としての他者を尊重する。他者に対して行う行為は、その者の同意がなければ許容されない。脅迫や強制ではなく、契約、契約に基づいた交換が関係の基本となる。▽085
 そしてこの「論理」は、第1章にあげた問題を「解決」してしまう。というより、問題の前を通り過ぎてしまう。自己決定能力を持つことが「人格」であることの要件とされる。能力に応じた配分が正当とされる。自己決定なら、合意があれば、全てが許容されることになる◆12。しかし、こうした帰結を受け入れられないという感覚がある。とすれば別の価値があるはずである。ではそれは何なのか。これが最初に立てた問題だった。だからこの「論理」は、問いを消去してしまうと同時に問いを誘発するものである。そしてその「論理」の底が抜けていることを以上で確認した。」
(立岩真也(1960-),『私的所有論 第2版』,第2章 私的所有の無根拠と根拠,2 自己制御→自己所有の論理,[2]批判,<Kyoto Books生存学
(索引:個人主義,自由主義,所有権,自己制御,私的所有)
立岩真也(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:立命館大学大学院・先端総合学術研究科
立岩真也(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers) 「人は有限の身体・生命に区切られ、他者と隔てられる。そこに連帯や支配も生じる。人々は、とくにその身体障害と呼ばれるもの、性的差異、…に関わり、とくにこの国の約100年、何を与えられ、何から遠ざけられたか。何を求めたか。この時代を生きてきた人たちの生・身体に関わる記録を集め、整理し、接近可能にする。そこからこの時代・社会に何があったのか、この私たちの時代・社会は何であったのかを総覧・総括し、この先、何を避けて何をどう求めていったらよいかを探る。
 既にあるものも散逸しつつある。そして生きている間にしか人には聞けない。であるのに、研究者が各々集め記録したその一部を論文や著書にするだけではまったく間に合わないし、もったいない。文章・文書、画像、写真、録音データ等、「もと」を集め、残し、公開する。その仕組みを作る。各種数値の変遷などの量的データについても同様である。それは解釈の妥当性を他の人たちが確かめるため、別の解釈の可能性を開くためにも有効である。
 だから本研究は、研究を可能にするための研究でもある。残されている時間を考慮するから基盤形成に重点を置く。そして継続性が決定的に重要である。仕組みを確立し一定のまとまりを作るのに10年はかかると考えるが、本研究はその前半の5年間行われる。私たちはそれを可能にする恒常的な場所・組織・人を有している。著作権等を尊重しつつ公開を進めていける仕組みを見出す。本研究では生命・生存から発し、各地にある企てと分業・連携し、この国での調査データ全般のアーカイブの拠点形成に繋げ、その試みを近隣諸地域に伝える。」
生を辿り途を探す 身体×社会アーカイブの構築生存学

立岩真也(1960-)
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立岩真也(1960-)生存学
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「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。先占の原理、因果の起点の原理、制御の原理。いずれも説得的ではない。しかしそもそも、これらは根拠づけを欠いた単なる信念なのである。(立岩真也(1960-))

所有を正当化する理論の暗黙の前提

【「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。先占の原理、因果の起点の原理、制御の原理。いずれも説得的ではない。しかしそもそも、これらは根拠づけを欠いた単なる信念なのである。(立岩真也(1960-))】

(c)追加記載

(1)所有を正当化する理論の暗黙の前提
  「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。私は水を作ってはいない。様々なものの活動・作用によって存在しているもの、もともと誰のものでもないものが、何故、私のものになるのか。(立岩真也(1960-))
 (a)私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである
  私は川から水を汲んできた。私は牛から乳を絞った。確かに私にとってその水や牛乳が利用可能になるためにはそうした行為が必要だった。
 (b)私は、水を作ってはいない
  その水や牛乳があることに私はいったいどれほどの貢献をしたか。私は、水を作ってはいない。
 (c)結論を導くための暗黙の前提
  世界に存在するものは、確かに誰のものでもなく、様々なものの活動・作用の結果によって存在している。しかし、所有という概念が意味を持つのは、人間が関わる場合だけである。人間が貢献し、作り出したとき、所有が正当化されるのである。
  (c.1)先占の原理
   もともと誰のものでもないものも、最初に触れた人が、そのものを取得し処分する権利を得る。
  (c.2)因果の起点の原理
   私が原因となっていれば、所有権を取得する。
  (c.3)制御の原理
   (i)私が制御し作り出していれば、所有権を取得する。
   (ii)しかし、自分の身体自体も、自分で作り出したといえるのか。根本的な意味においては、私が作り出したものなど、世界に何一つないともいえる。
   (iii)制御というが、自分の身体の内部器官は私が作り出したものでも、制御できるものでもない。だから、この主張によって身体の所有を正当化することはできない。
(2)根拠づけられない信念としての原理
 「自分が制御するものは自分のものである」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠づけられない原理なのである。

「(2)仮に世界が人間のためのものであるとしよう。それでも問題は残る。世界中を個々人の作為・制御によって実際に埋めつくすのは無理がある。そこで、そのものに最初に触れた人がそのものを取得し処分する権利があるということにする――「先占」というカント後期の主張が(この理由から彼はそれを言ったわけではないにしても)こういうものである。ともかく最初にその地に乗り入れた人がその土地を取得する権利があることになる。何にせよ先に手をつけた人、唾をつけた人が勝ちになる(cf.Nozick[1974=1989:292ff])。だがこれに私達は説得されるだろうか。
 (3)この論理は「私」が因果の起点であることを要請する。もし、私が「始まり」でなく、私の行為を起動した別のものがあるなら、そのものに結果の取得の権利と義務があることになってしまう。ゆえに、この条件を厳しくとれば、「自由意志」といった決▽080 して経験的には存在を検証されないようなものを存在させなければならない。自由意志は存在するかといった終わることのない論争が引き起されることになる◆10。
 (4)行為については3)のようなことが議論の対象となる。だが、その論争に関わらず少なくとも一つ確かなことは、身体そのものは私自身が作り出したものではないということである。私が作り出したものはこの世に何もないのだとさえ言える。それにしても、手足なら制御することもできよう。しかし、私の身体の内部器官は私が作り出したものでも制御できるものでもない。だから、この主張によって身体の所有を正当化することはできない。すなわちこれは、制御されないもの(身体、そして能力の少なくともある部分、…)については、かえってその私的所有(処分)を、さらにそれが自身のもとに置かれること自体さえも、否定してしまうことになる。
 以上では因果関係における因果関係の度合い、「貢献」の度合いが問題にされる。貢献(度)についての疑問が当然生ずるということである。人間はこの世界があることにどれだけ貢献しているのか。ただ、このこと――因果関係のあり方を問題にする議論については第6章・第7章で検討する――より、ここで指摘したいのは次である。
 (5)とても単純で、より基本的な問題がある。この主張は、それ自体で完結する一つの主張・信念としてしか存在することができない。「自分が制御するものは自分のもの▽081 である」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠づけられない原理なのである。」
(立岩真也(1960-),『私的所有論 第2版』,第2章 私的所有の無根拠と根拠,2 自己制御→自己所有の論理,[2]批判,<Kyoto Books生存学
(索引:私的所有,自己制御,先占の原理,制御の原理,因果の起点の原理)
立岩真也(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:立命館大学大学院・先端総合学術研究科
立岩真也(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers) 「人は有限の身体・生命に区切られ、他者と隔てられる。そこに連帯や支配も生じる。人々は、とくにその身体障害と呼ばれるもの、性的差異、…に関わり、とくにこの国の約100年、何を与えられ、何から遠ざけられたか。何を求めたか。この時代を生きてきた人たちの生・身体に関わる記録を集め、整理し、接近可能にする。そこからこの時代・社会に何があったのか、この私たちの時代・社会は何であったのかを総覧・総括し、この先、何を避けて何をどう求めていったらよいかを探る。
 既にあるものも散逸しつつある。そして生きている間にしか人には聞けない。であるのに、研究者が各々集め記録したその一部を論文や著書にするだけではまったく間に合わないし、もったいない。文章・文書、画像、写真、録音データ等、「もと」を集め、残し、公開する。その仕組みを作る。各種数値の変遷などの量的データについても同様である。それは解釈の妥当性を他の人たちが確かめるため、別の解釈の可能性を開くためにも有効である。
 だから本研究は、研究を可能にするための研究でもある。残されている時間を考慮するから基盤形成に重点を置く。そして継続性が決定的に重要である。仕組みを確立し一定のまとまりを作るのに10年はかかると考えるが、本研究はその前半の5年間行われる。私たちはそれを可能にする恒常的な場所・組織・人を有している。著作権等を尊重しつつ公開を進めていける仕組みを見出す。本研究では生命・生存から発し、各地にある企てと分業・連携し、この国での調査データ全般のアーカイブの拠点形成に繋げ、その試みを近隣諸地域に伝える。」
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立岩真也(1960-)
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「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。私は水を作ってはいない。様々なものの活動・作用によって存在しているもの、もともと誰のものでもないものが、何故、私のものになるのか。(立岩真也(1960-))

所有を正当化する理論の暗黙の前提

【「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。私は水を作ってはいない。様々なものの活動・作用によって存在しているもの、もともと誰のものでもないものが、何故、私のものになるのか。(立岩真也(1960-))】

(1)所有を正当化する理論の暗黙の前提
 (a)私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである
  私は川から水を汲んできた。私は牛から乳を絞った。確かに私にとってその水や牛乳が利用可能になるためにはそうした行為が必要だった。
 (b)私は、水を作ってはいない
  その水や牛乳があることに私はいったいどれほどの貢献をしたか。私は、水を作ってはいない。
 (c)結論を導くための暗黙の前提
  世界に存在するものは、確かに誰のものでもなく、様々なものの活動・作用の結果によって存在している。しかし、所有という概念が意味を持つのは、人間が関わる場合だけである。人間が貢献し、作り出したとき、所有が正当化されるのである。

「このように、多くの論者が生産・制御→所有という主張をしている。だが少しでも考えるなら、これは随分おかしな論理である。▽078
 (1)誰もが、一見してこれを随分乱暴な議論だと思うはずである。基本的にこの論理は、結果に対する貢献によってその結果の取得を正当化する論理である。しかし、この世にあるもののどれだけを私達が作っただろうか。例えば、私は川から水を汲んできた。私は牛から乳を絞った。確かに私にとってその水や牛乳が利用可能になるためにはそうした行為が必要だった。しかし、その水や牛乳があることに私はいったいどれほどの貢献をしたか。もちろん、このことはその「製品」がもっと「手のかかった」ものであっても言いうることである。つまりここでは、「作り出す」「貢献する」と言う時に、そもそも人間による営為しか考えられてはいない。こうした言明は人間の特権性――第5章で検討する――を前提にして初めて成立する。この論理が成立するためには、単に労働→取得というのではすまず、世界中のものが人間のものとしてあらかじめ与えられていなければならない。あるいは、この労働とは(馬や牛の労働ではなく、人間以外の全てのものの活動・作用ではなく)人間の労働でなければならないのである。これは神が世界を人間のものとして与えたのだというキリスト教的な世界観のもとでは自然なことかもしれない。ロックは「地とすべての下級の被造物が万人の共有のもの」だと、このことをはっきりと述べている◆09。しかし、このことを自明のこととして受け入れなければ、別である。このような「宗教」を信じず、なお人間の特権性を言おうとすれば、何か根拠を▽079 提出しなければならない。例えばエンゲルハートは次のように言う。

「動物は、自己を意識しておらず、自らを道徳法則に服するものと見なしえないかぎり、その一部が、利用されたり、作り変えられたり、あるいは、そのまま取られるような物件である。」(Engelhardlt[1986=1989:167])」
(立岩真也(1960-),『私的所有論 第2版』,第2章 私的所有の無根拠と根拠,2 自己制御→自己所有の論理,[2]批判,<Kyoto Books生存学
(索引:私的所有,自己制御)
立岩真也(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:立命館大学大学院・先端総合学術研究科
立岩真也(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers) 「人は有限の身体・生命に区切られ、他者と隔てられる。そこに連帯や支配も生じる。人々は、とくにその身体障害と呼ばれるもの、性的差異、…に関わり、とくにこの国の約100年、何を与えられ、何から遠ざけられたか。何を求めたか。この時代を生きてきた人たちの生・身体に関わる記録を集め、整理し、接近可能にする。そこからこの時代・社会に何があったのか、この私たちの時代・社会は何であったのかを総覧・総括し、この先、何を避けて何をどう求めていったらよいかを探る。
 既にあるものも散逸しつつある。そして生きている間にしか人には聞けない。であるのに、研究者が各々集め記録したその一部を論文や著書にするだけではまったく間に合わないし、もったいない。文章・文書、画像、写真、録音データ等、「もと」を集め、残し、公開する。その仕組みを作る。各種数値の変遷などの量的データについても同様である。それは解釈の妥当性を他の人たちが確かめるため、別の解釈の可能性を開くためにも有効である。
 だから本研究は、研究を可能にするための研究でもある。残されている時間を考慮するから基盤形成に重点を置く。そして継続性が決定的に重要である。仕組みを確立し一定のまとまりを作るのに10年はかかると考えるが、本研究はその前半の5年間行われる。私たちはそれを可能にする恒常的な場所・組織・人を有している。著作権等を尊重しつつ公開を進めていける仕組みを見出す。本研究では生命・生存から発し、各地にある企てと分業・連携し、この国での調査データ全般のアーカイブの拠点形成に繋げ、その試みを近隣諸地域に伝える。」
生を辿り途を探す 身体×社会アーカイブの構築生存学

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