2019年11月13日水曜日

論理学によって思考の訓練をすることで、(a)曖昧な考えを明確に表現し、(b)暗黙の前提を明らかにし、(c)論理的一貫性の欠如から誤謬が発見できる。(d)また、誤った一般化を避けるための帰納論理学も必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

論理学の教育

【論理学によって思考の訓練をすることで、(a)曖昧な考えを明確に表現し、(b)暗黙の前提を明らかにし、(c)論理的一貫性の欠如から誤謬が発見できる。(d)また、誤った一般化を避けるための帰納論理学も必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (5.3)論理学 追加


 (5.2)科学教育
   科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.2.1)私たちがうまく活動できるかどうかは、世界についての諸法則の知識に依存している。
   (a)私たちは、生まれたときは、まだ何も知らない。
   (b)この種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵による。
  (5.2.2)事実と真理に到達するために、知性をどう適用させるかの訓練になる。
    個々の経験からの簡単な一般化によっては、真理や事実には到達できない。例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向に関する仮説からの演繹結果を、個々の経験によって検証することによって事実と判断される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)事実を素材として、知性を道具として、真理にどのように到達するか。
    双方の意見が、証拠によってではなく、先入観によって主張されているような場合は、真に経験的な知識による基礎固めをしておかなければならない。
   (b)事実から何が証明されるか。
    (b.1)科学的実験の仕方を正確に理解すれば、自分達の意見が経験的に証明されていると、それほど簡単に確信しないであろう。
    (b.2)簡単に一般化することが、いかに確実性に乏しいことも理解するであろう。
   (c)既に知っている事実から、知りたいと思う事実に達するには、どうすればよいか。
    (c.1)単なる表面的な経験によって暗示される結論は、それがそのまま真理ではない。
    (c.2)個々の特定な経験は、推論による結論を検証するに役立つにすぎない。
    (c.3)例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向についての仮説から演繹された結論の、個々の特定な経験による検証によって事実と判断される。すなわち、仮説の設定は「ある意味においては、ア・プリオリ的なもの」である。
    (c.4)あるいは、人間がもつ諸傾向についての仮説から演繹された、段階的に進化するとみなされている歴史過程についての結論の、個々の特定な歴史事象による検証によって事実と判断される。
  (5.2.3)科学的真理についての基礎的な知識が、一般の人々の間に普及される必要がある。
   科学的真理についての基礎的な知識が普及しないことの弊害。
   (a)普通の人は、何が確実で、何が確実でないかが分からない。
   (b)また、知られている真理を語る資格と権威をもっているのかが誰かも知ることができない。
   (c)その結果、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなる。(無知ゆえの不信感)
   (d)また、大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまうことになる。(虚偽への盲信)

 (5.3)論理学
  (5.3.1)論理学の役割
   (a)自分の考えを言葉にしてみることによって、曖昧な考えを明確な命題に書き換え、互いに絡み合った推論を、個々の発展段階に書き改めるように強要する。
   (b)暗黙の前提
    こうすることで、暗黙の前提、仮定に注意を向け、明らかにすることができる。
   (c)論理的一貫性
    また、個々の意見がそれ自体においても、また相互間においても、矛盾しないようにさせる。
   (d)誤謬の発見
    以上のようにして、自分の考えに曖昧な形で含まれていた誤りに、気づくことができる。
  (5.3.2)規則と訓練
   人間の行為は、規則を覚え訓練することにより、技能が向上する。思考の訓練も同じであり、論理学によって正しい方法を身につける必要がある。
  (5.3.3)演繹的論理学と帰納的論理学
   (a)演繹的論理学の手助けで、間違った演繹をしないようにする。
   (b)帰納的論理学の手助けで、間違った概括化を犯さないようにする。
    (i)特に人は、自分自身の経験から一般的結論を引き出そうとする際に誤る。
    (ii)また、自分自身の観察や他人による観察を解釈して、ある一般命題から他の一般命題に論を進めて行く際に容易に誤りを犯す。

 「もし諸君が自分が正しく思考しているかどうかを知りたければ、自分の考えを言葉にしてみればよいでしょう。言葉にしようとする正にその行為の過程で、自分が、意識的であれ、無意識的であれ、論理形式を用いていることに気付くでしょう。論理学は、われわれにわれわれが言わんとする意味を明確な命題に、そして推論を個々の発展段階に書き改めるように強要します。論理学は、その上に立って推論を進め、もしそれが誤りならば全過程が崩壊するような暗黙の仮定にわれわれの注意を向けさせます。論理学は、われわれに推論過程でどこまで立証すればよいのかを教え、従って、暗黙の前提を真正面から直視させ、それにわれわれが忠実に従っていかるかどうかの決定をわれわれに迫ります。論理学は、われわれの個々の意見がそれ自体においても、また相互間においても、矛盾しないようにさせ、たとえ正確に思考させるところまではできてくとも、われわれに明確に思考するように強制します。確かに、真理と同様に、誤謬もまた一貫性をもち、体系的でありうるでしょう。しかしこのようなことは一般的ではありません。自分の意見を形成する際に、当然承認しなければならない原理と帰結とを――さもなければ、自分の意見そのものを放棄せざるをえなくなるでしょう――はっきりと見定めることは、大変有益なことです。白日のもとで真理を探究すれば、われわれは真理の発見に更に一歩近づくことができます。誤謬というものは、そこに含意されている一切の事柄にまで厳しく追及の手をのばすと、必ずある既知の、公認されている事実と対立することになりますし、その結果、それが誤謬であることはほぼ確実に突きとめられることになります。
 論理学は思考の手助けにはなりえないとか、いくら規則を覚えても、ものの考え方は学べない、と言う人々に諸君はしばしば出会うことでしょう。勿論、訓練を積むことなく、単に規則だけを教えたのでは、何事においても大した進歩は期待できません。しかし、もし思考の訓練が規則を教えることによって更に一層効果的になるということがないならば、人間の行為のなかで、規則を教えることによって効果が上がらないものは、ただ思考だけであると、私は断言して憚らないでしょう。人は鋸の挽き方を、主に、練習で身につけますが、しかしその作業の性質に基づく規則があります。もしその規則を教わらなければ、それを自分で発見するまでは、上手に木を挽くことはできないでしょう。正しい方法と誤った方法がある場合には、両方の間には必ずなんらかの相違が生じるはずであり、またその相違がどんなものであるかを見付け出すこともできるはずであります。そしてその相違が一度見出され、言葉で表現されますと、それが、つまり、その作業の規則ということになります。とかく規則を軽視したがる人がいるものですが、私はその人にこう尋ねてみたい。規則のあるものならどんな仕事でもよいから、それをその規則を知らずに覚えてごらんなさい、そしてそれがうまく行くかどうかをみて下さい、と。」(中略)「演繹的論理学の手助けで間違った演繹をせずにすむように、帰納的論理学のお蔭で、更にそれ以上に一般的な誤りである間違った概括化を犯さずにすみます。ある一般命題から他の一般命題に論を進めて行く際に容易に誤りを犯すような人は、自分自身の観察や他人による観察を解釈する場合には、更にたやすく誤りを犯すものであります。論理的訓練を受けていない人々は、自分自身の経験から正しい一般的結論を引き出そうとする際に、最もあからさまに自分のどうしようもない無能ぶりを暴露します。また訓練を積んだ人々でさえ、その訓練がある特定な分野に限られ、帰納法の一般原理にまで及ばない場合には、彼らの推論を事実によってたやすく検証できる機会がない限り、誤りを犯します。有能な科学者達も、まだ事実関係が確認されていないような問題に敢えて取り組む時には、自分達の実験データから、帰納法の理論に照らせば全く根拠のないことが判明するような結論を平気で引き出したり、概括化を行ったりすることがよくあります。事実、練習だけでは、よしんばそれが適切な練習であっても、原理と規則がなければ、不充分であります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(4)論理学,pp.49-52,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:論理学,論理学の役割,暗黙の前提,論理的一貫性,誤謬の発見,帰納論理学)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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