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2022年5月3日火曜日

言葉を使って、人間が何を為すことができるのかを調べるために、辞書に記載のある動詞を分類してみた。これらいずれの型に関しても、極端な事例や、相互重複の可能性がなお広汎に存在するだろう。しかし、言明に関する真/偽の二分法と、価値/事実の二分法という呪物信仰に対する問題提起にはなろう。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

言葉で為すことができること

言葉を使って、人間が何を為すことができるのかを調べるために、辞書に記載のある動詞を分類してみた。これらいずれの型に関しても、極端な事例や、相互重複の可能性がなお広汎に存在するだろう。しかし、言明に関する真/偽の二分法と、価値/事実の二分法という呪物信仰に対する問題提起にはなろう。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))


(0)5つの型

判定宣言型(Verdictives) 
権限行使型(Exercitives) 
行為拘束型(Commissives) 
態度表明型(Behabitives)
言明解説型(Expositives)  

(1)判定宣告型
(a)事実あるいは価値について、さまざまな理由から確信のもてない判定を伝える。
(b)陪審員、調停員、あるいは審判員による判定の宣告にその典型例をみることができる。
(c)推定、算定、評価など。


(2)権限行使型
(a)権力、権利、影響力の行使である。
(b)指名する、投票する、命令する、催促する、助言する、警告する等である。  

(3)行為拘束型
(a)約束する、あるいは、引き受けるなどに典型例をみることができる。
(b)この種の発言は、本来、人に何ごとかを余儀なくさせるものである。
(c)意図の宣言あるいは通告というように約束でないものも含む。
(d)加担する(siding with)のような、支持表明(espousal)とも呼ぶべきかなり曖昧なものまでも含んでいる。
(e)この種の発言が、判定宣告型と権限行使型に関連していることは明白である。

(4)態度表明型
(a)非常に雑多な一群のものであり態度および社会的行動(social behavior)に関係している。
(b)陳謝する、お祝いする、推奨する(commending)、慰める(condoling)、のろう(cursing)、挑戦する(challenging)などである。  

(5)言明解説型
(a)この型の発言は、いかなる仕方で発言が議論ないし会話の進行に適合しているかということや、いかにわれわれが言葉を使っているかということを明確にするものである。
(b)一般的に言えば、解説的(expository)なものである。
(c)例は、「私は返答する」「私は議論する」「私は譲歩する」「私は例示する」「私は想定する」「私は要請する」である。



 「さて、第一人称・単数・直接法・能動・現在形という単純な判定基準を(注意深く)使い、辞書(簡略なもので十分であろう)を自由な気持ちで通覧することによって、われわれは、10の3乗のオーダーの動詞の一覧表を得ることができる。私は以前に、一般的、暫定的な分類を試み、そしてそこで提案された分類項についてなんらかの指摘を行うつもりであると述べた。今や、われわれはまさにそれを行うところに来た。しかし、私は、諸君に対し、至極あいまいな言辞を弄し、そして、むしろ私のあがきを伝えるだけのことに終わるであろう。  私は、ここでより一般的な五つのクラスを区別する。しかし、けっして、それらのすべてについて等しく満足しているわけではない。にもかかわらず、これらのものは、例の二つの呪物信仰を、私の望み通りに、徹底的に混乱させるに十分である。その二つの呪物信仰とはすなわち、(1)真/偽の二分法に対する信仰と、(2)価値/事実の二分法に対する信仰である。以下、私は、発言内の力に応じて分類された5種類の発言を次のような、あまり人好きのしないかもしれない名称をもって呼ぶことにしたい。 (1)判定宣言型(Verdictives) (2)権限行使型(Exercitives) (3)行為拘束型(Commissives) (4)態度表明型(Behabitives)(これは不愉快な名だ) (5)言明解説型(Expositives)  以下これらを順を追ってとりあげることとしよう。ただそのまえに、それぞれについての大雑把な考えを示しておきたい。  第一の判定宣告型は、まさにその名が示すように、陪審員、調停員、あるいは審判員による判定の宣告にその典型例をみることができる。しかし、この種の発言に限られるものである必要はない。たとえば、推定、算定、評価であってもよいのである。ただし、その場合には、何ものか――事実あるいは価値――について、さまざまな理由から確信のもてない判定を伝えるということが本質的に含まれることとなる。  第二の権限行使型は、権力、権利、影響力の行使である。その例は、指名する、投票する、命令する、催促する、助言する、警告する等である。  第三の、行為拘束型は、約束する、あるいは、引き受けるなどに典型例をみることができる。この種の発言は、本来、人に何ごとかを《余儀なくさせる》ものであるが、それだけでなく、意図の宣言あるいは通告というように約束でないものも含み、さらには、たとえば加担する(siding with)のような、支持表明(espousal)とも呼ぶべきかなり曖昧なものまでも含んでいる。この種の発言が、判定宣告型と権限行使型に関連していることは明白である。  第四の、態度表明型は、非常に雑多な一群のものであり態度および《社会的行動》(social behavior)に関係している。例は、陳謝する、お祝いする、推奨する(commending)、慰める(condoling)、のろう(cursing)、挑戦する(challenging)などである。  第五の、言明解説型は、定義が困難である。この型の発言は、いかなる仕方で発言が議論ないし会話の進行に適合しているかということや、いかにわれわれが言葉を使っているかということを明確にするものである。すなわち、一般的に言えば、解説的(expository)なものである。例は、「私は返答する」「私は議論する」「私は譲歩する」「私は例示する」「私は想定する」「私は要請する」である。このいずれの型に関しても、極端な事例や扱いにくい事例や、相互重複の可能性がなお広汎に存在するということをわれわれは最初から明確に理解しておかなければならない。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第12講 言語行為の一般理論Ⅵ,pp.251-255,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:)









(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)


2020年5月28日木曜日

言語の唯一現実的な現象は,全体的言語行為である. この視点は以下の正しい理解へと導く. (a)陳述とそれ以外の行為遂行的発言とは何か,(b)真偽値とは何か,(c)事実的な言明と規範的な言明とは何か,(d)言語の意味とは何か.(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

現実的な現象としての全体的言語行為

【言語の唯一現実的な現象は,全体的言語行為である. この視点は以下の正しい理解へと導く. (a)陳述とそれ以外の行為遂行的発言とは何か,(b)真偽値とは何か,(c)事実的な言明と規範的な言明とは何か,(d)言語の意味とは何か.(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(a)現実的な現象としての全体的言語行為
 全体的な言語的な状況における全体的言語行為というものが、究極的にわれわれがその解明に専念すべき唯一の現実的な現象である。
(b)陳述、記述は特別な言語現象ではない
 陳述、記述などというものは、数多くの他の発語内行為に対して与えられた名称の中の単なる二つのものであるにすぎない。これらは、唯一独特な位置を持つものではまったくない。
(c)真偽値も全体的言語現象として理解される(ただし人工的な言語で定義された場合を除く)
 ことに、これらは、真であるとか偽であるとか呼ばれる唯一独特な仕方で事実と関係しているという種類の事柄に関しても、なんら唯一独特な位置をもつものではない。なぜならば、真とか偽とかいうことは(一定の目的に限定すれば常に可能でしかも合法的なある種の人工的な抽象化による以外は)関係や性質等の名称ではなく、むしろ、言葉がそれの言及している事実、事件、状況等に関していかに満足すべきものであるかということに対する評価の一つの観点の名称だからである。
(d)事実的なものと規範的、評価的なものの正しい理解
 まったく同じ理由によって、事実的なものに対立するものとして「規範的ないし評価的なるもの」を対照させるというよく見られる方法は、他の多くの二分法と同様に、消去する必要がある。
(e)言語の「意味」についての正しい理解
 「意味と言及対象」に等しいものと考えられる「意味」の理論は、発語行為と発語内行為との区別という手段によるある種の淘汰と再構成とを確実に必要としているのではないかと考えられる。(もちろん、これらの概念が健全なものであればである。もっとも、この点に関しては、単に予告がなされたに過ぎない。)
 「私はそのなかでとくに以下の教訓を指摘、提示したいと思う。
(A)全体的な言語的な状況における全体的言語行為というものが、究極的にわれわれがその解明に専念すべき《唯一の現実的な》(the only actual)現象である。
(B)陳述、記述などというものは、数多くの他の発語内行為に対して与えられた名称の中の《単なる二つのもの》であるにすぎない。これらは、唯一独特な位置を持つものではまったくない。
(C)ことに、これらは、真であるとか偽であるとか呼ばれる唯一独特な仕方で事実と関係しているという種類の事柄に関しても、なんら唯一独特な位置をもつものではない。なぜならば、真とか偽とかいうことは(一定の目的に限定すれば常に可能でしかも合法的なある種の人工的な抽象化による以外は)関係や性質等の名称ではなく、むしろ、言葉がそれの言及している事実、事件、状況等に関していかに満足すべきものであるかということに対する評価の一つの観点の名称だからである。
(D)まったく同じ理由によって、事実的なものに対立するものとして「規範的(normative)ないし評価的(evaluative)なるもの」を対照させるというよく見られる方法は、他の多くの二分法と同様に、消去する必要がある。
(E)「意味(sense)と言及対象」に等しいものと考えられる「意味」(meaning)の理論は、発語行為と発語内行為との区別という手段によるある種の淘汰と再構成とを確実に必要としているのではないかと考えられる。(もちろん、《これらの概念が健全なものであれば》である。もっとも、この点に関しては、単に予告がなされたに過ぎない。)」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第12講 言語行為の一般理論Ⅵ,pp.248-250,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:全体的言語行為,陳述,記述,真偽値,行為遂行的発言,事実と規範,事実と評価,言語の意味)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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2020年5月6日水曜日

陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

陳述(事実確認的発言)と行為遂行的発言

【陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(2)追記。

(1)真偽値を持つ陳述(事実確認的発言)には特別な発語媒介的な目的が存在しておらず「純粋」であると感じたり、行為遂行的発言には陳述が持つ真偽値は持たないように感じることがあるが、いずれも表面的な見方である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(2)陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。
 (a)陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つである。
  事実確認的発言は、発語内行為の側面を取り去り、もっぱら発語行為に注目し、事実との対応という過度に単純化された概念を使用しているが、本質的に発語内行為の側面を持つ。あらゆる状況、あらゆる目的、いかなる聴き手に向かっても、条件においても述べて正しいと思われる表現の理想的形態を追求している。
 (b)様々な行為遂行的発言の「真偽値」
  様々な行為遂行的発言についても、陳述(事実確認的発言)と似たような、それが「正しい」ないし「間違い」とされるための特定の仕方が存在する。それが、いかなる用語で語られ、いかなることを意味するかを明らかにすることができる。

 「さて、行為遂行的発言と事実確認的発言との区別に関してさらに論ずるべきこととして最後に何がのこされているであろうか。実際のところ、この区別に関してわれわれが考えていたことは次のようなものであったと言うことができるであろう。
(a)事実確認的発言ということで、われわれは、言語行為における(発語媒介的なものは別として)発語内行為の側面を取り去り、もっぱら発語行為に注目している。さらに、われわれは、事実との対応という過度に単純化された概念を使用している。過度に単純化されたといえる理由は、この種の発語行為も、本質的に発語内行為の側面をもたらすものであるからである。われわれはむしろ、あらゆる状況において、あらゆる目的のために、いかなる聴き手に向かっても、等々のいかなる条件においても述べて正しいと思われる表現の理想的形態(ideal)を追求しているのである。そして、この理想的形態はときに実現されることもある。
(b)行為遂行的発言ということで、われわれは、発言のもつ発語内の力に可能なかぎり注意を向け、事実との合致という観点を無視して抽象化しているのである。
 おそらく、この抽象化のいずれもそれほどに適切なものではないであろう。実は、ここにはおそらく二つの極があるのではなく、むしろ、そこには一つの歴史的発展があるのみというべきであろう。そして、ある場合には事実確認的発言の例として物理学書中の数学公式を利用したり、また、ある場合には、たとえば行為遂行的発言の例として、単純な執行命令の布告や単純な名前の賦与を利用したりして、われわれは、現実の生活におけるこの二種の発言の発見に近づこうとしているのである。そして、まさにこの種の発言のさまざまな事例、たとえば「私は陳謝します」とか、さしたる理由もなく述べられたときの「猫がマットの上にいる」などの極端な事例によって、かの二種類の異なる発言があるという見解を導いたわけである。陳述は、発語内行為の種類に属するあまたある言語行為のなかの一つにすぎないしかし、真に結論すべきことが、(a)発語行為と発語内行為との区別の必要性と、(b)個々の種類の発語内行為に関して、すなわち、警告、推定、評決、陳述、記述などに関して、第一に、それらが適切ないし不適切とされるための、第二に、それが「正しい」ないし「間違い」とされるための特定の仕方が何であるかということ、すなわち、それらを肯定的あるいは否定的に評価するためにいかなる用語が用いられ、またそれらがいかなることを意味するかということを、それぞれの種類に応じて、批判的に確立することの必要性ということとの、(a)、(b)の二点であることは確実である。この問題は広汎な広がりをもち、「真」か「偽」かという単純な区別に落ち着くことはないであろう。またさらに、陳述をその他から区別するということで終わることもないであろう。なぜならば、陳述は、発語内行為の種類に属するあまたある言語行為のなかの一つにすぎないからである。
 さらに、発語内行為だけでなく、発語行為もまったくの抽象の産物である。すべての真正な言語行為は、同時にこの両者なのである。このことは、用語行為、意味行為等が単なる抽象の産物であるという事情に類似している。しかしもちろん、われわれは、さまざまな可能な言い誤り、すなわちこの場合では、それらの行為を遂行する際に生じ得るさまざまな型のナンセンスを利用して、このような抽象の結果であるさまざまな「行為」を区別しているのである。まさにこの点に関して、われわれが冒頭の講義においてナンセンスの種類の分類に関して述べたことを想い起こしてみることは有益なことであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.242-245,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:陳述,事実確認的発言,行為遂行的発言,真偽値)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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2020年4月26日日曜日

真偽値を持つ陳述(事実確認的発言)には特別な発語媒介的な目的が存在しておらず「純粋」であると感じたり、行為遂行的発言には陳述が持つ真偽値は持たないように感じることがあるが、いずれも表面的な見方である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

事実確認的発言とは何なのか?

【真偽値を持つ陳述(事実確認的発言)には特別な発語媒介的な目的が存在しておらず「純粋」であると感じたり、行為遂行的発言には陳述が持つ真偽値は持たないように感じることがあるが、いずれも表面的な見方である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(1) 真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
(2)行為遂行的発言「私はそこに行くと約束する」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「約束する」という言葉を発することが、権利と義務を発生させるような慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、そこに行く意図を持っている。
  (ii)私は、そこに行くことが可能であると思っている。
  (iii)このとき、「私はそこに行くと約束する」は、この意味で「真」であるとも言い得る。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性
(3)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
   真偽値を持つ陳述も、行為遂行的発言と同じように、有効に発動するための諸条件がある。例として、言及対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく「不適切」である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
  (i)陳述は、言及対象の存在を前提にしている。対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。例として、「現在のフランス国王は禿である」。
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 (3.1)発語内行為の3つの効果
  陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
  (a)了解の獲得
  (b)効力の発生
   ・陳述した内容が真であるか偽であるかが問題となってくる。
   ・後続の陳述への制限が生ずる。
   ・相手の陳述が、反論や反駁等の意味を持つものに変化させる。
  (c)反応の誘発
 (3.2)慣習的な行為である。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.3)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
  (a)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
  (b)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
  (c)発語媒介行為の2つの効果
   (i)目的を達成すること
   (ii)後続事件を惹き起こすこと
  (d)慣習的な行為ではない。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.4)発語内行為とは関係のない発語媒介行為

 「おそらく最も重大な論点となり、また相応の妥当性をもつと思われることは、陳述の場合においては、情報伝達や論証を行う場合とは異なり、その陳述と特別に関連する発語媒介的な《目的》が存在していないということである。この相対的な純粋さ故に、おそらくわれわれは「陳述」に対してある特別な位置を与えているのであろう。しかし、このことが、たとえば本来の意味で使われた「記述」というものに対して同様の優先性を与えることを正当化するものではないことは確実であるし、また、このことは多くの発語内行為について成立することでもある。
 しかしながら、行為遂行的発言の側から事態を観察した場合には、遂行的発言の有するものを陳述もまた有しているというわれわれの以前の主張に反し、依然として、遂行的発言は陳述の有するなにものかを欠いているという感を抱くかもしれないのである。すなわち、言うまでもなく、遂行的発言は、何ごとかを行うことであると同時に、たまたま、何ごとかを言うことでもある。ところが、われわれは、これらが陳述と同様には真または偽であるということをその本質としていないと感ずることがある。つまり、われわれが事実確認的発言を判断し、査定し、評価する際の観点として用いながら(もちろん、それが適切な行為であると前提して)なおかつ、非事実確認的、すなわち行為遂行的発言に対する観点としては用いられないようなものもここに存在するように感ずることがあるのである。さて、私が何ごとかを陳述することに成功するためにはこれらすべての、状況という環境が定まっていなければならないということを認めておこう。ところが、私がその陳述に成功したちょうどそのときに、《この》問題、すなわち、私が陳述したことは真であったのか、それとも偽であったのか、という問題が生じてくるのである。そして、この問題は、通常の言い方をすれば、陳述が「事実に合致している」(correspond with the facts)か否かの問題であるようにわれわれは感ずるのである。以上のことに関して私は同意する。すなわち、「は真である」という表現の使用が、手形の裏書きをすることなどと同値であると言おうとする試みは成り立たないのである。かくして、ここに、完遂された陳述の新しい評価観点が得られたことになるわけである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.233-234,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:事実確認的発言,陳述,行為遂行的発言,真偽値)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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2020年4月24日金曜日

陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言としての陳述

【陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

参考: 真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(3.1)追記。

(3)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
   真偽値を持つ陳述も、行為遂行的発言と同じように、有効に発動するための諸条件がある。例として、言及対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく「不適切」である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
  (i)陳述は、言及対象の存在を前提にしている。対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。例として、「現在のフランス国王は禿である」。
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 (3.1)発語内行為の3つの効果
  陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。
  (a)了解の獲得
  (b)効力の発生
  (c)反応の誘発
 (3.2)慣習的な行為である。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.3)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
  (a)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
  (b)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
  (c)発語媒介行為の2つの効果
   (i)目的を達成すること
   (ii)後続事件を惹き起こすこと
  (d)慣習的な行為ではない。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.4)発語内行為とは関係のない発語媒介行為


 「われわれの研究すべきものが文では《なく》、むしろ一つの発言状況において一つの発言を行うことであるということをいったん悟るならば、陳述することは一つの行為を遂行することであるということが理解されないということはもはやほとんどあり得ないことであろう。さらに、陳述するということを、すでに発語内行為についてわれわれが述べたことと比較するならば、陳述するということは他の発語内行為の場合とまったく同程度に「了解の確保」ということを不可欠とするような種類の遂行であるということが理解されるだろう。すなわち、もし私が述べたことが了解されなかったり、聞こえなかったりするとき、はたして私は陳述したことになるのか否かという疑問は、私が述べたことを抗議として受け取らない人がいたとするならば、私はそっと(sotto voce)警告したことになるのかそれとも依然として抗議したことになっているのかという疑問とまったく同じものである。さらに、陳述は「命名」とまったく同程度に「効力を生じさせる」のである。たとえば、私が何かを陳述したとき、そのことによって私は別の陳述を行わなければならなくなるというようなことが起こる。しかも、私が行うその別の陳述は先に行なった陳述によって適当なものとなったり不適当なものとなったりすることになる。また、相手の行なう陳述や評言も以降は、私に対する反論となるかならないかのいずれかとなり、あるいはまた私に対する反駁となるか否かのいずれかとなる。また、かりに陳述が反応を惹き起こさないことがあるとしても、そのことはいずれにせよ発語内行為のすべてにとって本質的なことではない。しかも、陳述を行う際に、われわれは実際あらゆる種類の発語媒介行為を遂行しており、またそのことは許されているのである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.232-233,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的発言,陳述,事実確認的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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2019年4月25日木曜日

真偽値を持つ陳述も、行為遂行的発言と同じように、有効に発動するための諸条件がある。例として、言及対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく「不適切」である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

不適切な陳述

【真偽値を持つ陳述も、行為遂行的発言と同じように、有効に発動するための諸条件がある。例として、言及対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく「不適切」である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(3)(A・2)追記。

(1) 真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
(2)行為遂行的発言「私はそこに行くと約束する」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「約束する」という言葉を発することが、権利と義務を発生させるような慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、そこに行く意図を持っている。
  (ii)私は、そこに行くことが可能であると思っている。
  (iii)このとき、「私はそこに行くと約束する」は、この意味で「真」であるとも言い得る。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性
(3)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
  (i)陳述は、言及対象の存在を前提にしている。対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。例として、「現在のフランス国王は禿である」。
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 「さて、AとBの種類の不適切性は、――警告、保証というような――種類の行為を空虚で無効なものとするものであったが、陳述はこの種の不適切性に関してはいかなることになるのであろうか。すなわち、陳述の外見を呈するものが、一般に契約などについて言われているのとまったく同様に空虚で無効なものになり得るであろうか。これに対する答えは、重要な点で肯定的であるように思われる。最初の事例はA・1とA・2とである。すなわち、慣習すなわち一般に受け入れられた慣習が一切存在しない場合、または、与えられた状況が発言者による当該慣習の発動に対して不適当である場合である。まさにこの型の不適切性の多くが陳述を待ちうけているのである。
 われわれはすでに、陳述であってそれが言及しているところのものの存在を(いわば)《前提》(presuppose)しているとされるような場合を知っている。もし、そのようなものが存在しないとするならば、その「陳述」は何ものについてのものでもないということになるであろう。さて、ある人々の言い方によれば、このような状況においてたとえば、ある人が現在のフランス国王は禿であると主張したとすると、そのとき、「その国王が禿であるか否かの問題は生じない」ということになる。しかし、このような場合はむしろ、私があなたに何かを売ろうと言いながら、そのものが自分の所有物でないとか、(火事に遭って)もはや存在しないというようなときとまったく同様に、その陳述が空虚で無効であると言う方が適切なのである。契約は、しばしば、その関与している対象が存在しないという理由から無効となる。これは、対象言及に故障があるという場合である。(全体的曖昧性)」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.229-230,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:不適切な陳述,行為遂行的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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2019年4月14日日曜日

真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言を超えるもの

【真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(1)行為遂行的発言「私はそこに行くと約束する」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「約束する」という言葉を発することが、権利と義務を発生させるような慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、そこに行く意図を持っている。
  (ii)私は、そこに行くことが可能であると思っている。
  (iii)このとき、「私はそこに行くと約束する」は、この意味で「真」であるとも言い得る。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性
(2)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 「次の両者の間、すなわち、
(a)発言を行うことが何ごとかを行うことであるということ、と、
(b)その発言が真偽いずれかであるということ、
との間には必然的な対立は一切ない。その点に関して、たとえば、「私はあなたに、それが突きかかろうとしていると警告する」という発言をこれを比較されたい。ここでは、それが突きかかろうとしているということは、同時に警告であり、かつ、真偽のいずれかである。しかもこのことは、この警告の評価に際して、まったく同じ仕方でというわけにはいかないが陳述の評価の際のそれと同じ程度には問題になることである。
 一見したところ、「私は………と陳述する」は、「私は………と主張する」(このように言うことは、………と主張することにほかならない)や、「私はあなたに、………と伝達する」や、「私は………と証言する」等と本質的な点では一切相異しないように思われる。あるいは、これらの動詞の間の「本質的な」差異というようなものが将来確立されることになるかもしれない。しかし、いまのところこの方向で何ごとかがなされたということはない。
(2)さらに、そこで成立すると主張された第二番目の対照、すなわち、遂行的発言は適切か不適切かであり、陳述は真か偽かであるということを再びまた、明白に陳述であるとみなされるいわゆる事実確認的発言の側から考察してみるならば、われわれは直ちに陳述なるものにおいても、およそ遂行的発言に関して起こり得るあらゆる種類の不適切性がここでも起こり得るので《ある》ということを理解するであろう。ここで再び振り返って、陳述なるものは、われわれがたとえば警告などの場合において、「不適切性」と名づけた欠陥(disabilities)と正確に同一の欠陥を持つことがはたしてないものであるか否かを考察してみよう。ここでいう不適切性とは、発言の真偽のいずれともすることなくただ不適切なものとする、さまざまな欠陥のことにほかならない。
 われわれは、すでに、「猫がマットの上にいる」と言うこと、またそう陳述することが同時に、私がその猫がそのマットの上にいると信じていることを含意(imply)しているということの意味を明らかにした。この意味は、「私はそこに行くと約束する」が、私がそこに行く意図を持ち、かつまた、私がそこに行くことが可能であると思っているという二つのことを含意するということに対応する意味――あるいはそれと同じ意味である。したがって、この陳述は《不誠実》という形の不適切行為となり得る。また、猫がマットの上にいると言ったり陳述したりすることによって、これ以降、私は「マットは猫の下にある」と言ったり陳述したりしなければならなくなるということが起こるが、これはちょうど、(たとえば法令において用いられている場合のように)「私はXをYと定義する」という遂行的発言によって、私が将来その語をある特別の仕方で用いなければならなくなると同様であるという意味において、《違反》(breach)という形式の不適切行為ともなり得る。また、このことが約束などの行為といかに関係しているかを理解することも容易であろう。以上のことが意味していることは、陳述がまさにΓの種類に属する二種の不適切性を生み出し得るということである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.226-228,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:真偽値を持つ陳述,行為遂行的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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2019年4月8日月曜日

発話という行為の構造のまとめ/それでもなお、以下のような種類の発話が存在する。(a)言語の字義通りでない使用法、(b)冗談に類する、言葉の真面目でない使用法、(c)感情表出的な使用法。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

字義通りでない使用法、真面目でない使用法、感情表出的な使用法

【発話という行為の構造のまとめ/それでもなお、以下のような種類の発話が存在する。(a)言語の字義通りでない使用法、(b)冗談に類する、言葉の真面目でない使用法、(c)感情表出的な使用法。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(2.3)、(2.4)追記。
(3.3)、(3.4)追記。

発話という行為の構造:(A)発語行為(音声行為、用語行為、意味行為)、(B)発語内行為、(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為、(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(1)行為(A)発語行為
 (1.1) 「何かを言う」とは、(a)物理的な音声を発する音声行為、(b)ある構文に従い単語を発する用語行為、(c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象と一定の意味を発する意味行為の、3つの側面から理解できる。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

「何かを言う」とは、
(A・a)ある一定の音声(音声素)を発する行為(音声行為)。
(A・b)ある一定の単語(用語素)を発する行為(用語行為)。
(A・c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象(意味素)と一定の意味を発する行為(意味行為)。

(2)行為(B)発語内行為
 (2.1) 適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
 (2.2)(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(A・1)ある一定の慣習的な効果を持つ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存在しなければならない。そして、その手続きはある一定の状況のもとにおける、ある一定の人々による、ある一定の言葉の発言を含んでいなければならない。
(A・2)発動された特定の手続きに関して、ある与えられた場合における人物および状況がその発動に対して適当でなくてはならない。
(B・1)その手続きは、すべての参与者によって正しく実行されなくてはならない。かつまた、
(B・2)完全に実行されなくてはならない。
(Γ・1)その手続きが、しばしば見受けられるように、ある一定の考え、あるいは感情を持つ人物によって使用されるように構成されている場合、あるいは、参与者のいずれかに対して一連の行為を惹き起こすように構成されている場合には、その手続きに参与し、その手続きをそのように発動する人物は、事実、これらの考え、あるいは感情を持っていなければならない。また、それらの参与者は自らそのように行動することを意図していなければならない。そしてさらに、
(Γ・2)これら参与者は、その後も引き続き、実際にそのように行動しなければならない。
 (2.3)発語内行為の3つの効果
  (a)了解の獲得
  (b)効力の発生
  (c)反応の誘発
 (2.4)慣習的な行為である。非言語的にも遂行され、達成され得る。

(3)行為(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
 (3.1)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
 (3.2)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
 (3.3)発語媒介行為の2つの効果
  (a)目的を達成すること
  (b)後続事件を惹き起こすこと
 (3.4)慣習的な行為ではない。非言語的にも遂行され、達成され得る。
(4)行為(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為

以上は、発話という行為についてのまとめである。
しかし、それでもなお、下記のような発話については、その分析の対象外である。
 (a)言語の字義通りでない使用法
 (b)冗談に類する、言葉の真面目でない使用法
 (c)感情表出的な使用法

 「われわれは行為遂行的発言と事実確認的発言との間の当初の区別と、顕在的な行為遂行的単語、ことに動詞の一覧表を発見するという計画からしばらく離れて、何ごとかを言うことが何ごとかを行うことであるということの意味を考察することによって、まったく新たな一歩を踏み出したのであった。その結果《意味》(meaning)をもつ発語行為(その中には、音声行為、用語行為、意味行為がある)、何ごとかを言いつつある一定の力《を》示す発語内行為、何ごとかを言うことによってある一定の《効果を達成する》発語媒介行為の三者を区別した。
 さらに前回の講義においては、これらとの関連において結果や効果という語のもついくつかの意味を区別した。とくに、効果が発語内行為に伴って現れる三つの意味、すなわち、了解の獲得、効力の発生、反応の誘発の三者を区別した。また発語媒介行為に関しては、目的を達成することと後続事件を惹き起こすこととの間に大雑把な区別をつけた。発語内行為は慣習的な行為であり、他方、発語媒介行為は慣習的な行為では《ない》。たしかに、これら両種類の行為――あるいはより正確に言えば、同じ名前で呼ばれる行為(たとえば、警告という発語内行為や納得させるという発語媒介行為と同等の行為)――は、いずれも非言語的に遂行され、達成され得る。
 しかし、そのような場合においても、たとえばそれが警告などのような発語内行為の名称に値するためには、《慣習的である》非言語的な行為でなければならないのである。他方、発語媒介行為の場合は、その達成のために慣習的行為を利用することがあるにしても、それ自身は慣習的ではない。裁判官は、何が述べられたかということを聴くことによって、いかなる発語行為といかなる発語内行為が遂行されたかを判定できるものでなければならないが、しかしいかなる発語媒介行為が達成されたかということを判定できるものである必要はない。
 最後に、われわれは、「いかにしてわれわれは言語を使用しているか」ないし「何ごとかを言いつつ何を行なっているか」ということに関して、さらに別の全般的な問題が存在しているということを述べた。この問題は、これまでの問題とはまったく異質のものであり、かつ、直感的にも異質であるように見えるということについても述べた。そして、それはわれわれがまだ足を踏み入れていないこれから先の問題であるということも示した。たとえば、ほのめかすこと(およびこれに類する、言語の《字義通りでない》(non-literal)使用法)や、冗談(およびこれに類する、言葉の《真面目でない》(non-serious)使用法)や、毒づいたり、ひけらかしたりすること(これらは、おそらく言語の感情表出的(expressive)な用法であろう)である。実際、われわれは、「xと言って、私は冗談を述べていた」(………とほのめかしていた、自分の感情を表していた等々)と言うことができる。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第10講 言語行為の一般理論Ⅳ,pp.200-201,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:発語行為,発語内行為,発語媒介行為)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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2019年4月2日火曜日

08.発話という行為の構造:(A)発語行為(音声行為、用語行為、意味行為)、(B)発語内行為、(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為、(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

発話という行為の構造

【発話という行為の構造:(A)発語行為(音声行為、用語行為、意味行為)、(B)発語内行為、(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為、(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(1)行為(A)発語行為
 (1.1) 「何かを言う」とは、(a)物理的な音声を発する音声行為、(b)ある構文に従い単語を発する用語行為、(c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象と一定の意味を発する意味行為の、3つの側面から理解できる。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(2)行為(B)発語内行為
 (2.1) 適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
 (2.2)(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(3)行為(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
 (3.1)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
 (3.2)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
(4)行為(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為

 「発語内行為というこの概念をさらに研磨する作業に取りかかるのに先立って、発語行為、《および》発語内行為の両者を、さらに第三番目の種類に属する行為と比較してみることにしよう。
 すなわち、発語行為を遂行し、それに伴って発語内行為を遂行するということがさらに、いま一つ別種の意味の行為を遂行することであるというような言葉の使用の第三の意味(C)が存在する。何かを言うことは、多くの場合というよりは、むしろ通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して結果としての効果を生ずることがある。さらに、その効果を生ぜしめるという計画(design)、意図(intention)、目的(purpose)を伴って発言を行うことも可能である。したがって、以上の点に留意するならば、話し手は目下の分類法における発語行為、もしくは発語内行為の遂行に対して、(C・a)間接的に(obliquely)のみ関連する、あるいは、(C・b)全然関連を持たないような、ある行為を遂行したのだと言うことができるであろう。この種の行為の遂行を《発語媒介的行為》(perlocutionary act, perlocution)の遂行と呼ぶ。しかし、当面はさしあたりこの概念について、これ以上の細心な定義を与えることは控え――もちろん、必要なことではあるが――単に例を掲げるにとどめておこう。
(例1)
 行為(A)発語行為
  彼は私に「彼女を射て」で射つことを意味し(mean)、「彼女」で彼女に言及していた。
 行為(B)発語内行為
  彼は私に、彼女を射つように促した。(あるいは助言した。命令した等々)
 行為(C・a)すなわち、発語媒介行為
  彼は私に対して、彼女を射つことを説得した。
 行為(C・b)
  彼は私に彼女を射たせた。
(例2)
 行為(A)発語行為
  彼は私に「君はそれをすることができない。」(You can't do that.)と言った。
 行為(B)発語内行為
  彼は、私がそれを行うことに抗議した。
 行為(C・a)発語媒介行為
  彼は私を制止した(pull up, check)。
 行為(C・b)
  彼は私を制止した。彼は私を正気に戻した等々。
  彼は私を悩ませた。
 さらに同様に、次のように区別することができるだろう。すなわち、「彼は………と言った」は発語行為であり、「彼は………と論じた」は発語内行為であり、また、「彼は、私に………と納得させた」は発語媒介行為である。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第8講 言語行為の一般理論Ⅱ,pp.174-176,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:発語行為,発語内行為,発語媒介行為)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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2018年11月20日火曜日

07.「何かを言う」とは、(a)物理的な音声を発する音声行為、(b)ある構文に従い単語を発する用語行為、(c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象と一定の意味を発する意味行為の、3つの側面から理解できる。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

音声行為、用語行為、意味行為

【「何かを言う」とは、(a)物理的な音声を発する音声行為、(b)ある構文に従い単語を発する用語行為、(c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象と一定の意味を発する意味行為の、3つの側面から理解できる。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

「何かを言う」とは、
(A・a)ある一定の音声(音声素)を発する行為(音声行為)。
(A・b)ある一定の単語(用語素)を発する行為(用語行為)。
(A・c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象(意味素)と一定の意味を発する行為(意味行為)。

 「いまや、「言葉を発する」(issuing an utterance)というときの諸状況を精査すべき時に至った。まずはじめに、私が(A)と標示する一群の意味が存在する。そこでは何かを言うことが、常に何かを行うことであるといえる。このさまざまな意味をすべて足し合わせると、「言う」(say)ということの完全な意味において、何かを「言う」ことになる。定式化の細部に固執しないならば、およそ何かを言うということは、次の三つの行為を遂行していることになるということにわれわれは同意することができるであろう。
(A・a)常に、ある一定の音声(noises)を発する行為(「音声」(phonetic)行為を遂行する)。この場合、発せられた言葉は、音声素(a phone)である。
(A・b)常に、ある一定の音語(vocables)あるいは単語(words)を発する行為を遂行する。すなわち、一定のイントネーションその他を伴い、一定の文法に合致し、かつ、合致している限りの一定の構文の中に組み込まれた、一定の語彙に属し、かつ、属している限りの一定の型の音声を発する行為である。この行為を「用語」行為(phatic act)と呼び、当の発する行為によって発せられた言葉を「用語素」(a pheme)と(言語理論における「言素」(phememe)とは区別して)呼ぶことができるであろう。
(A・c)一般に、ある一定の、ある程度明確な「意味」(sense)と、ある程度明確な「言及対象」(reference)とを伴って、(この両者を合わせたものがいわゆる「意味」(meaning)と一致する)用語素、あるいは、連続する複数の用語素を使用する行為を遂行する。この行為を、「意味」行為(rhetic act)と呼び、当の語を発する行為によって発せられた言葉を「意味素」(a rheme)と呼ぶことができるであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第7講 行為遂行的発言と事実確認的発言,pp.161-162,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:何かを言うこと,音声行為,用語行為,意味行為)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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2018年11月19日月曜日

6.行為遂行的発言は、参与者によって聞かれ、誤解なく正しく理解されなければならない。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

誤解から生ずる不適切性

【行為遂行的発言は、参与者によって聞かれ、誤解なく正しく理解されなければならない。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(3)追加記載

(1)行為が、強制や錯誤、意図せずになされた偶然のものではないこと。
  行為遂行的発言は、行為であるが故に、いかなる行為も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。強制による行為、錯誤による行為、意図することのない行為、偶然の行為等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
(2)発言は、虚構や詩の中での語りや、独り言ではないこと。
  行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。役者によって語られる場合、詩の中で語られる場合、独り言として語られる場合等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
(3)発言は、参与者によって聞かれ、誤解なく正しく理解されなければならない。
 行為遂行的発言は、発言であるからには、次の条件が満たされなければならない。
 (a)発言者の言ったことが、参与者によって聞かれなければならない。
 (b)参与者は、発言者の発言の内容を、正しく理解しなければならない。
(4)(1)~(3)が全て適切であるという前提条件の下、行為遂行的発言に固有の不適切性が存在する。
 (A1)慣習存在せず・誤発動・不発、(A2)誤適用・誤発動・不発、(B1)欠陥手続き・誤執行・不発、(B2)障害あり・誤執行・不発、(Γ1)不誠実・濫用、(Γ2)行為不適合・濫用。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

 「ここで私が、「誤解」(misunderstanding)から生ずるような種類の「不適切性」(infelicity)――それは実際にこのことばで呼ばれるかもしれない――に言及しなかったのは、一面において今述べたような特殊の場合の考察を当面排除しておきたかったからである。たとえば、約束をしたと言うためには、通常、
 (A)私の言ったことが誰かによって、おそらく約束相手によって、《聞かれ》なければならないし、また同時に、
 (B)その人物によって私の言ったことが約束として理解されていなければならない
という二つのことが明らかに必要である。
 この二つの条件がいずれか一つでも満たされない場合には、私が本当に約束をしたのか否かという点について疑義が生じ、その結果、あるいは私の行為は未遂、または無効とみなされることになる。法律については、この種の不適切さを避けるために、令状や召喚状の執行に際して特別に注意が払われている。この特殊ではあるが、重大な意義をもつ問題の考察は、後で再び別の問題との関連で行なわれることになるであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第2講 不適切性の理論Ⅰ,pp.37-38,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的発言の不適切性の理論,誤解)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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2018年11月18日日曜日

5.行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。役者によって語られる場合、詩の中で語られる場合、独り言として語られる場合等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

言語褪化の理論

【行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。役者によって語られる場合、詩の中で語られる場合、独り言として語られる場合等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

 行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つことがある。この場合、発言は特殊な状況において、大きくその相貌を変化させ、発言は実質のないものとなったり、無効なものとなったりする。これらは「言語褪化の理論」と呼ばれるものの中で、論じられる。
(a)発言が、舞台の上で役者によって語られる。
(b)発言が、詩の中で用いられる。
(c)発言が、独り言の中で述べられる。

(再掲)

(A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
 行為は企図されたが、慣習的な手続きが存在せず、行為は許されず無効である。
(慣習存在せず・誤発動・不発)
(A・2)発言者、状況の手続的適合性
 行為は企図されたが、発言者、状況が不適合のため、行為は許されず無効である。
(誤適用・誤発動・不発)
(B・1)手続きの適正な実行
 行為は企図されたが、手続きが適正に実行されず、行為は実効を失い無効である。
(欠陥手続き・誤執行・不発)
(B・2)完全な実行
 行為は企図されたが、手続きが完全に実行されず、行為は実効を失い無効である。
(障害あり・誤執行・不発)
(Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
 発言者の考え、感情、参与者の意図に適合性がなく、言葉だけで実質がない。
(不誠実・濫用)
(Γ・2)参与者の行為の適合性
 参与者の行為に適合性がなく、実質がない。
(行為不適合・濫用)

 「第二に、他方、問題の行為遂行的発言は、まさに《発言》であるが故に《すべての》発言を汚染する別種の災禍を《もまた》被ることになる。そして、この災禍についても同様に、より一般的な説明が存在するかもしれない。しかし、われわれは当面、意図的にこの問題に立ち入ることを避けておきたい。この災禍という語で、私は、たとえば、次のようなことを考えているのである。すなわち、ある種の遂行的発言は、たとえば、舞台の上で役者によって語られたり、詩の中で用いられたり、独り言の中で述べられたりしたときに、《独特の仕方で》実質のないものとなったり、あるいは、無効なものとなったりするというような種類のことがらである。このことはおよそ発言といえるもののすべてについて同様な意味で妥当する。すなわち、発言はそれぞれの特殊な状況においては大きくその相貌を変化させるのである。そのような状況において言語は、独特な仕方で――すなわち、それとわかるような仕方で――、まじめにではなく、しかし正常の用法に《寄生》する仕方で使用されている。この種の仕方は言語《褪化》(etiolation of the language)の理論というべきものの範囲の中で扱われる種類のものであろう。われわれは、これらのすべてを一応考察の対象から除外する。われわれの遂行的発言とは、それが適切なものであれ、不適切なものであれ、すべて通常の状況で行なわれたものであると理解することにしたい。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第2講 不適切性の理論Ⅰ,pp.37-38,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:言語褪化の理論,行為遂行的発言の不適切性の理論)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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