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2018年9月22日土曜日

11.夢は、真の実在の仮象である現実の、さらに高次の仮象であり、私たちの夢みることへの深い内的な歓喜、仮象への憧憬は、真の実在の神秘に満ちた根底の何らかの本質を示しているのではないか。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

仮象への憧憬

【夢は、真の実在の仮象である現実の、さらに高次の仮象であり、私たちの夢みることへの深い内的な歓喜、仮象への憧憬は、真の実在の神秘に満ちた根底の何らかの本質を示しているのではないか。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)目覚めているときの現実
 (1.1)一見これのみが、重要かつ貴重であり、生きるに値するもののように思われる。
 (1.2)一方、人間はこの世界を、時間と空間の中における不断の生成として感じている。
(2)夢みているとき
 (2.1)夢みる者が夢の世界の幻想のただなかにあってその幻想を打ち壊すことなく、「これは夢だ、夢ならばさらに見続けてくれよう」とわが身に呼びかける、このような深い内的な歓喜が存在する。
 (2.2)これは仮象への憧憬、仮象による救済への熱烈な憧憬、何ものにもまして強力な芸術衝動である。
(3)一つの仮説。真実の存在者にして根源的一者たるものは、永遠に悩めるもの、矛盾に満てる者として、恍惚たる幻視を、歓喜に満ちた仮象を、自己の絶えざる救済のため必要としているのではないか。
 (3.1)目覚めているときの現実
  (3.1.1)時間と空間の中における不断の生成としての現象は、真の実在の一瞬ごとに作られる仮象であり、私たちは完全に仮象に囚われているのではないか。
 (3.2)夢みているとき
  (3.2.1)夢は、真の実在の仮象である「現実」の、さらに高次の仮象、仮象の仮象であり、私たちの夢みることへの深い内的な歓喜、仮象への憧憬は、真の実在の神秘に満ちた根底の何らかの本質を示しているのではないか。

 「この素朴的芸術家に関しては、夢の類比がわれわれに若干の教示を与える。

夢みる者が夢の世界の幻想のただなかにあってその幻想を打ち壊すことなく、「これは夢だ、夢ならばさらに見続けてくれよう」とわが身に呼びかける情景をわれわれが想像するならば、

またわれわれがそのことから、夢を観照することの深い内的な歓喜を推論しなければならないとすれば、

他面またわれわれが、そもそも観照にたいするこの内的な歓喜をもって夢み得んがためには、白昼とその怖るべき執拗さを完全に忘れ果てていなければならないとしたら、

われわれはこれらすべての現象を夢を占うアポロンの導きの下にあるいは、次のように解釈することもできよう。

たしかに生の両半、すなわち目覚めている一半と夢みている一半のうち、前者の方が比類なく優れており、重要かつ貴重であり、生きるに値するもの、否、これのみがわれわれの生きるものであるかのようにわれわれには思われるのであるが、

それにもかかわらず私は、いかに逆説のごとく見えようとも、われわれの本質―――その現象がわれわれである―――のかの神秘に満ちた根底にたいしては、これと反対に夢を評価することをまさに主張したいのである。

すなわち、私が自然のなかに、かの何ものにもまして強力な芸術衝動を、またこれらの衝動のなかに、仮象への、仮象による救済への熱烈な憧憬を認めれば認めるほど、ますます私は次のごとき形而上学的仮説を否応なく認めざるを得ないことを感ずるのである、

すなわち、真実の存在者にして根源的一者たるものは、永遠に悩めるもの、矛盾に満てる者として、恍惚たる幻視を、歓喜に満ちた仮象を同時に自己の絶えざる救済のため必要とする、という仮説である。

しかるにこの仮象を、完全に仮象に囚われ仮象より成るわれわれは、真実の非存在者として、すなわち、時間、空間、および因果性のうちにおける不断の生成として、換言すれば、経験的実在として感ぜざるを得ない。

それ故、われわれが一旦われわれ自身の「実在」を一瞬不問に付すならば、そしてわれわれの経験的存在を、世界一般の存在と同様、根源的一者の、一瞬毎に作られる表象として把握するならば、今やわれわれは夢を、《仮象の仮象》と、従って仮象への根源的欲求のさらに高次の満足と見做さねばならない。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『音楽の精神からの悲劇の誕生』四、ニーチェ全集2 悲劇の誕生、pp.48-49、[塩屋竹男・1994]) (索引:仮象への憧憬,アポロン)

悲劇の誕生―ニーチェ全集〈2〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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