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2020年5月28日木曜日

他の人々と共有された日常的な諸活動が課す様々な実践的な選択肢の比較衡量の中で,自己の認識の真偽,感情と暗黙の諸規範の妥当性の検証を介し,真なる個人的な善と共通善とを学び,自己と社会の変革の契機が生まれる.(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

真なる個人的な善と共通善とを学ぶ方法

【他の人々と共有された日常的な諸活動が課す様々な実践的な選択肢の比較衡量の中で,自己の認識の真偽,感情と暗黙の諸規範の妥当性の検証を介し,真なる個人的な善と共通善とを学び,自己と社会の変革の契機が生まれる.(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

いかにして自身の個人的な善と、共通善とを学ぶのか
 (1)理論的な内省か?
  理論的な内省によって学ぶのが、主ではない。
 (2)実践的な選択肢の比較衡量
  他の人々と共有された日常的な諸活動の中で、また、そうした諸活動が課してくるさまざまな実践的な選択肢を比較衡量する中で学ぶことになる。
 (3)事例
  体の一部の表面が腫れていたり、炎症を起こしていたり、傷跡があったり、膿んでいたりすることでその美観がひどく損なわれている点にその本質が存する障碍について考えてみよう。
  (3.1)二つの過ち
   (a)自分自身の感情、認識を、事実として受け入れないこと
    その患者は、実際のところ、恐れを抱かせるような外見を示していないと強弁する。
   (b)違和感を感じながらも、現状維持すること
    その患者の外見に気をとられるあまり、その人に不合理なしかたで接してしまう。
  (3.2)考えるべきこと
   (a)自分のこれまでの感情、認識を、ありのまま事実として認識すること。
   (b)認識に誤りはなかったのか、学ぶこと。
   (c)感情は妥当なものだったのか、学ぶこと。
   (d)なぜそのような認識、感情に導かれていたのか、学ぶこと。
   (e)感情を導いていた、暗黙の価値判断、諸規範が何なのか、学ぶこと。
 (4)個人的な善、共通善を捉えそこなう3つの失敗
  (a)自分自身の欲求から身を引き離すことができず、その欲求について判断する位置に立てないこと
  (b)適切な自己認識の欠如
  (c)私たちの他者への依存の本性を認識しそこなうこと
 (5)社会において支配的な諸規範に疑念がある場合の処方
  それら実践的推論の誤謬の原因が、私たちの社会環境においてこれまで支配的であった諸規範に由来するものである限りにおいて、私たちが自分たちの共有された熟議による推論においてそうした誤謬から解放されるためには、私たちは自己を変革するのみならず、そのような社会環境をも変革する必要がある、ということになるだろう。

 「〈私たちの共通善とは何かを学ぶ〉という場合に私が意味しているのは、これまで同様、そうした善についての実践的知識を私たちがどのようにして得るかということである。つまり、それについてのある一連の理論的公式をマスターすることではなく、むしろ、日常的な実践の中に具体的なかたちで示されるそうした善へと方向づけられた態度を身につけることである。すでに強調してきたように、私たちが共通善とは何かということを学ぶのは、否それどころか、私たち自身の個人的な善とは何かということをも学ぶのは、主として理論的な内省によってではないし、ひとえに理論的な反省によってではまったくない。私たちはそれらを、〔他の人々と〕共有された日常的な諸活動の中で、また、そうした諸活動が課してくるさまざまな選択肢を比較衡量する中で学ぶのである。また、これもすでに強調してきたことだが、私たちは、〔共通善や自身の個人的な善について〕学ぶ必要のあることがらを学びそこなうこともある。そして、そうした事態は、私が挙げた三つの失敗――すなわち、
 (1)自分自身の欲求から身を引き離すことができず、その欲求について判断する位置に立てないこと、
 (2)適切な自己認識の欠如、
 (3)私たちの他者への依存の本性を認識しそこなうこと
――をはじめとする、いくつかのタイプの失敗に起因するものである。以下において私は、障碍をもつ人々との関係を通じて学ばれうる、もしくは、概して障碍をもつ人々との関係を通じてしか学ばれえないことがらの一例について考察したいと思う。そのような学びを通じて私たちは、一連の間違った実践的判断や人を誤りに導く実践的判断をその帰結として伴う、上記三つの誤謬の原因のいずれかをみずからのうちに発見することがある。
 体の一部の表面が腫れていたり、炎症を起こしていたり、傷跡があったり、膿んでいたりすることでその美観がひどく損なわれている点にその本質が存する障碍について考えてみよう。そのような障碍に苦しむ患者の、恐れや嫌悪を抱かせる外見は、〔周囲の人々にとって〕一人のヒトとしての彼女や彼に接することを困難にする一因である。患者のそうした外見を肉体のより奥深いところで生じている現象の一連の徴候として理解することを仕事とする看護師や医師の場合、おそらく私たちほどそのような困難を感じないだろう。だが、看護師や医師ではない私たちは、次のような二つの〔両極端の〕過ちのいずれをも回避する道を探りあてる必要がある。すなわち、〈その患者は、実際のところ、おそれを抱かせるような外見を示していない〉と強弁する場合に犯すことになる過ちと、その患者の外見に気をとられるあまり、その人に不合理なしかたで接してしまう場合に犯すことになる過ちである。そして、そのような困難な課題に取り組むことを通じて、おそらく私たちは自分自身に関して、少なくとも次のようなことを学ぶだろう。すなわち、自分はこれまで他人の見栄えのよさや自分自身の見栄えのよさにどのような価値をどの程度見出していたのかということを学ぶだろうし、同時に、そうした従来の価値判断が犯していた誤りについて学ぶだろう。
 この点、社会心理学の諸研究は、日常の観察が示唆していること、すなわち、私たちが多くのさまざまな場面で、顔をはじめとする人間の外見からあまりにしばしば影響を受けているということを裏づけている。また、より一般的な事実として、他人の表明した意見を私たちがどの程度重く受けとめるかは、その意見を述べたのが誰であり、その人間はどのような声や表情でその意見を述べたかによってある程度左右されがちである。それゆえ私たちは、誰かの人柄やその誰かの表明した意見を、その人の容姿や話しかたから切り離して評価する術を学ぶ必要がある。そして、そうした術を学ぶ過程において、私たちはそれまでの自分が考えてもみなかったことに気づくかもしれない。すなわち、自分がいままで、あるタイプの容貌をもつ他者と接する際に、〔その他者の容貌によって引き起こされる〕不快感や嫌悪感や、ときには恐怖感といった感情から自分自身を切り離すことができずにいたこと。そして、それゆえに、そのような感情に対して批判的判断をくだすことができずにいたことに気づくかもしれない。また、自分自身のくだすさまざまな判断がそのような感情から不当な影響をこうむっていたことに気づいていなかった点で、自分がこれまで適切な自己認識を欠いていたことに気づくかもしれない。また、これまでの自分が、その外見が私たちの気分を害するような人々に応答する際に、自分には少なくとも《彼ら》から学びうることは何もないと決めてかかっていたことに気づくかもしれない。つまり私たちは、そのような障碍をもつ人々との出会いにおいて、これまで認識されずにいた、みずからの実践的推論の誤謬の原因を発見するのである。そして、それら実践的推論の誤謬の原因が、私たちの社会環境においてこれまで支配的であった諸規範に由来するものであるかぎりにおいて、私たちが自分たちの共有された熟議による推論においてそうした誤謬から解放されるためには、私たちは自己を変革するのみならず、そのような社会環境をも変革する必要がある、ということになるだろう。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第11章 共通善の政治的・社会的構造,pp.195-198,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:個人的な善,共通善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

2020年5月6日水曜日

個人的な善と共通善とが共に実現可能な社会は、最も弱い人々を含む全ての人々の意見が反映可能な、合理的な熟議を通じた意思決定の制度を持ち、最も依存的な人々がニーズに応じて受け取るという格率を自明とみなす。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

個人的な善と共通善とが共に実現可能な社会

【個人的な善と共通善とが共に実現可能な社会は、最も弱い人々を含む全ての人々の意見が反映可能な、合理的な熟議を通じた意思決定の制度を持ち、最も依存的な人々がニーズに応じて受け取るという格率を自明とみなす。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(3)追加。

(1)人間に関する一つの重要な事実
  人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい傷つきやすい存在であり、他者たちの保護と支援に依存することによって、はじめて生き続けることができ開花し得る。この事実の理解は、真の道徳哲学の要件の一つである。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))
 (1.1)傷つきやすさ
  人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい存在である。
  (a)幼年時代の初期
  (b)病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクト
  (c)一生の間、障碍を負い続ける場合
  (d)老年期
 (1.2)他者への依存性
  人は、他者に依存して生きる存在である。私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちの保護と支援を受けるからである。
(2)道徳哲学への影響
 (2.1)しばしば考えられてきた道徳哲学
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、健康で理性的な道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。道徳の問題は、私たちと「彼ら」の問題である。
 (2.2)事実に基づく真の道徳哲学の要件
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身であり、道徳の問題は私たち自身の問題である。
  (a)障碍に見舞われ、他者に依存せざるをえない事態は、私たちの誰もがその人生の折々に体験することであり、一人ひとりの個人が、そのような事態をどの程度体験することになるかはあらかじめ予測不可能である。
  (b)従って、病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者に対する利益は、特殊な利益ではなく、むしろ、社会全体にとっての利益であり、その社会で共通善とみなされているものの不可欠な要素をなす利益である。

(3)個人的な善と共通善とが共に達成される社会の条件
 個人的な善と、個人的な善を通じて達成される共通善とが共に、達成されるような、〈与えることと受けとること〉の諸関係を具現化しうる社会に要請されること。
 (3.1)合理的な熟議を通じた意思決定の手続き
  すべての者がアクセス可能で、全員の所産とみなし得るような、合理的な熟議を通じた意思決定の手続きが存在すること。
  (3.1.1)制度化された合理的な熟議の仕組み
   合理的な熟議を通じて、自立した実践的推論者たちの政治的意思決定に、表現を与えることが可能な、意思決定の手続きが存在すること。
  (3.1.2)すべての者がアクセス可能
   その意思決定の手続きには、訴えたい提案や反論や意見をもつ者すべてが、アクセスし得ること。
  (3.1.3)全員の所産とみなし得る意思決定
   熟議と、熟議を通じてもたらされる決定の双方が、コミュニティ全体の所産とみなされ得るような、一般的に受容可能な意思決定の手続きであること。
 (3.2)〈正しい気前のよさ〉という徳と矛盾しない諸格率
  (3.2.1)〈正しい気前のよさ〉という徳
   確立された正義の諸規範が、〈正しい気前のよさ〉という徳の実践と矛盾しないこと。
  (3.2.2)〈各人はその貢献に応じて受けとる〉という格率
   自立した実践的推論者同士の間の諸規範は、〈各人はその貢献に応じて受けとる〉という格率を満たすこと。
  (3.2.3)能力に応じて働き、できる限りニーズに応じて受けとるという格率
   ただし、他者に与え得る人々と、子どもや高齢者や障碍者といった最も依存的で、他者から受けとることを最も必要とする人々の間の諸規範は、「各人はその能力に応じて働き、かつまた、できる限りそのニーズに応じて受けとる」という格率を満たすこと。
 (3.3)様々な資質、能力を持つすべての人々の意見の反映
  (3.3.1)様々な資質、能力を持つすべての人々の意見
   自立した実践的推論能力を備えた人々と、そうした推論能力を限定的にしか備えていないか、まったく備えていない人々のいずれもが、コミュニティ内の熟議において、意見を表明し得ること。
  (3.3.2)意見表明が困難な人々の代理人の存在
   意見表明が困難な人々の代理人を務める能力と意志をもつ他者が存在するとともに、当該政治体制の中でそうした代理人の役割に公的な地位が付与されていること。

 「私たちの個人的な善と共通善がそれらを通じて達成されるような〈与えることと受けとること〉の諸関係を具現化しうる社会とは、政治的・社会的にみて、いかなるタイプの社会であろうか。そうした社会は次の三つの条件を満たしている必要があるだろう。すなわち、第一に、そうした社会は、特定のコミュニティのメンバーたちが共有された合理的な熟議を通じて共通の判断にいたることが重要な意義をもつすべてのことがらについて、〔まさにそのような手続きを通じて〕自立した〔実践的〕推論者たちがくだす政治的意思決定に表現を与える社会でなければならない。それゆえ、そうした社会には制度化された熟議の仕組みがなければならないし、そのような熟議の仕組みは、コミュニティのメンバーのうち、訴えたい提案や反論や意見をもつ者すべてがアクセスしうるようなものでなければならないだろう。また、熟議と熟議を通じてもたらされる決定の双方がコミュニティ全体の所産とみなされうるよう、意思決定の手続きは一般的に受容可能なものでなければならない。
 第二に、〈正しい気前のよさ〉が中心的な徳の一つとみなされる社会においては、確立された正義の諸規範がこの徳の実践と矛盾をきたさないことが必要であろう。さまざまな種類の〈正しい関係〉の維持に必要な、さまざまな種類の規範をそれ単独で包括的に説明しうる単純な公式など存在しない。自立した実践的推論者同士の間の諸規範は、マルクスが社会主義社会における正義の格率として提示した、〈各人はその貢献に応じて受けとる〉という格率を満たすものでなければならないだろう。また、〔一方における〕他者に与えうる人々と、〔他方における〕子どもや高齢者や障碍者といった、もっとも依存的で、他者から受けとることをもっとも必要とする人々の間の諸規範は、マルクスが共産主義社会における正義の格率として上記の格率を修正して提示した、「各人はその能力に応じて働き、かつまた、できるかぎりそのニーズに応じて受けとる」という格率を満たすものでなければならないだろう。もちろんマルクスは、彼が示した第二の格率は、いまだ実現不可能な未来の社会においてのみ適用可能であると考えていた。そして私たちも、経済的資源が無限に存在するわけではない社会では、この格率は不完全なしかたでしか適用されえないということ認識しておく必要がある。とはいえ、たとえ不完全な、あるいは、《ひどく》不完全なしかたであろうとも、ともかくこの格率が適用されないかぎり、私たちは次のような生活様式を維持することはできないだろう。すなわち、〔みずからの取り分を確保するうえで〕功績に訴えることとニーズに訴えることのいずれもが効果的である点に特徴をもつ生活様式を、それゆえ、自立した人々と依存的な人々の双方にとっての、また双方のための正義に特徴をもつ生活様式を維持することはできないだろう。
 第三に、そうした社会の政治機構は、自立した実践的推論能力を備えた人々と、そうした推論能力を限定的にしか備えていないか、まったく備えていない人々のいずれもが、右に述べたような正義の諸規範が要求していることは何かをめぐって交わされるコミュニティ内の熟議において、意見を表明しうるようなものでなければならない。そして、後者の人々についていえば、彼らがそのようなしかたで意見を表明しうるのは、彼らの代理人を務める能力と意志をもつ他者が存在するとともに、当該政治体制の中でそうした代理人の役割に公的な地位が付与されている場合だけである。
 それゆえ、ここで私が思い描いているのは、その社会の内部において次のことが当然視されているような政治社会である。すなわち、障碍に見舞われ、他者に依存せざるをえない事態は、私たちの誰もがその人生の折々に体験することであり、しかも一人ひとりの個人がそのような事態をどの程度体験することになるかはあらかじめ予測不可能であるということ。また、そうであるがゆえに、障碍をもつ人々が彼らのニーズを適切に表明できること、また、そうしたニーズが適切なしかたで満たされることは、ある特定の集団だけがその恩恵を受けるような特殊な利益ではなく、むしろ、その政治社会全体にとっての利益であり、その社会で共通善とみなされているものの不可欠な要素をなす利益であるということ。これらのことが当然視されているような政治社会である。だとすれば、そのようなしかたで理解された共通善を達成するために必要な諸々の構造を備えた社会とは、いかなる種類の社会であろうか。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第11章 共通善の政治的・社会的構造,pp.185-187,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:個人的な善,共通善,熟議を通じた意思決定)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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2019年9月4日水曜日

07.自立した実践的推論者は、様々な社会関係を通じて、共通善を受容し、必要なケアを受けまたは与え、自らの善を創造し、個々の善の自らの人生における位置づけを決定し、追求することによって、共通善に寄与する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

自立した実践的推論と共通善

【自立した実践的推論者は、様々な社会関係を通じて、共通善を受容し、必要なケアを受けまたは与え、自らの善を創造し、個々の善の自らの人生における位置づけを決定し、追求することによって、共通善に寄与する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)実践的推論
 実践的推論とは、その本性上、ある一群の明確な社会関係の内部で、他者たちと共に行われる推論である。
 (1.1)社会関係への依存
  私たち一人ひとりが、社会関係を通じて、自立した実践的推論者としての地位を獲得する。
 (1.2)各人の諸々の傾向性
  各人は、諸々の傾向性や活動の発展を通じて、自立した実践的推論者になることへと方向づけられる。
 (1.3)各人の善と共通善
  各人の善は、社会関係に参加する全ての人々の善を同時に追求することなしには追求されえない。なぜなら、自分が位置づけられている一群の社会関係全体の開花とは独立に、自らの善や自らの開花について、実践的に適切な理解を得ることはできないからである。
(2)各人の善の達成と共通善への寄与
 (2.1)自立した実践的推論者としての成功
  自立した実践的推論者として諸々の活動に参加し、社会関係の中で一定の成功を収める。
 (2.2)個人の善は、コミュニティの善に従属しているわけではない。
  (a)個人は、まずコミュニティの善を自らのものとして引き受けることによって、個人の善を具体的なものにすることができる。すなわち共通善は、彼らの個人的な善の不可欠な構成要素である。
  (b)しかし、一人ひとりの個人の善は、共通善以上のものである。
  (c)コニュニティ全体の善としての共通善以外にも、家族や家族以外の諸集団にとっての善や、さまざまな実践における善のような共通善が存在する。
  (d)各人は自立した実践的推論者として、それら個々の善が各々、自らの人生においていかなる位置を占めるのが最善かという問いに答える必要がある。
   参照: 特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))
 (2.3)逆にコミュニティの善が、個人の善に従属しているわけではない。
  (a)諸個人の善の総計が、コミュニティの善というわけではない。
  (b)諸個人の善の追求は、コミュニティにおける共通善に寄与し得る。
(3)障害を抱えている時期における善の追求
 必要とする細心のケアによって、何らかの障害を抱えている時期であっても、諸徳を身につけ諸徳を発揮し、他者たちの善を自己の善とみなして追求できる。
 (3.1)必要とする細心のケア
  幼少期や老年期や病気や怪我をしたときに、必要とする細心のケアを受け取ることができるし、そのような状況下で細心のケアを受け取ることが、合理的に期待しうる。
  (a)この合理的な期待は、利得の交換という意図による、計算による期待ではない。
  (b)他者に与えることが求められるものは、受け取ったものに比べて、不釣合いかもしれない。
  (c)与えることが求められる他者は、彼らから受け取ることがない人々であるかもしれない。
  (d)他者に与えるケアは、主として彼らのニーズに基づく、無条件的なものである。
 (3.2)幼少期や老年期や病気や怪我をしたときにおける、一人ひとりの開花は、コミュニティ全体の開花を示す一つの重要な指標である。なぜなら、このような人々に対する細心のケアは、その人々のニーズだけがケア提供の理由であるからである。

 「私が採用している、概してアリストテレス的な見解によれば、実践的推論とは、その本性上、他者たちとともにおこなわれる推論であり、一般的には、ある一群の明確な社会関係の内部で他者たちとともにおこなわれる推論である。そもそもそうした諸々の関係は、私たち一人ひとりがまずはそれらを通じて自立した実践的推論者としての地位を獲得し、その後も引き続き、それらに支えられてその地位を維持していくような、そうした諸関係として形成され、発展を遂げてきた。一般的かつ典型的には、まずもって家族や家庭といった諸関係が、続いて、各種学校や徒弟制度における人々の諸関係が、さらには、その特定の社会や文化に属する大人たちが従事する多様な実践における人々の諸関係が、そうした諸関係である。そのような諸関係の成立と存続は、各人がそれらを通じて自立した実践的推論者になることへと方向づけられる、諸々の傾向性や活動の発展から切り離しえない。それゆえ各人の善は、それらの関係に参加するすべての人々の善を同時に追求することなしには追求されえない。というのも、私たちは、そこに自分が位置づけられているのを見出す一群の社会関係全体の開花〔繁栄〕とは独立に、それとは切り離されたものとして、みずからの善やみずからの開花について実践的に適切な理解を得ることはできないからである。なぜできないのだろうか。
 もし私がヒトにとって可能なかぎりの開花を遂げたいと思うならば、私の人生の全体は次のようなものでなければならない。すなわち、自立した実践的推論者として諸々の活動に参加し、そこで一定の成功を収めるばかりでなく、幼少期や老年期や病気をしたときやけがをしたときに、そうした状況下で私が必要とする細心のケアを受けとることができるような、また、そのような状況下で細心のケアを受けとることを合理的に期待しうるような、そうした人生でなければならない。そうである以上、私たち一人ひとりがみずからの善を達成できるのは、ただ次のような場合だけである。すなわち、私たちが何らかの障碍を抱えている時期に、私たちが、諸徳を身につけ諸徳を発揮することを通じて他者たちの善を自己の善とみなして追求できる種類のヒトになれるよう他者たちが手助けしてくれる場合、また、そのようにして他者たちが私たちの善を彼ら自身の善とみなして追求してくれる場合だけである。そして、このように各人が他者の善を自己の善とみなして追求しうるとすれば、それは、〈私たちが他者を助ける場合にかぎって、彼らもまた利得の交換という意図で、私たちを助けてくれるだろう〉という具合に、私たちがあらかじめ計算をおこなったためではない。そのような計算をおこなうのは、そうすることがみずからの善である場合に、そしてただその場合にかぎって、他者の善を考慮に入れる種類のヒトであって、そのようなヒトは、〔ここで考察している種類のヒトとは〕まったく異なる種類のヒト、すなわち、すでに私がその特徴づけをおこなってきた諸徳の欠如したヒトであろう。
 というのも、上記のような与えることと受けとることの諸関係のネットワークに、諸徳が要求するようなしかたで参加するためには、私は次のことを理解していなければならない。すなわち、私が与えることを求められるものは、私が受けとったものに比してひどく不釣合いなものかもしれないということ。また、私が与えることを求められる人々は、私が彼らから何も受けとることがない人々であるかもしれないということを、私は理解していなければならない。さらに私は、私が他者に与えるケアは、ある重要な意味において無条件のものでなければならない、ということも理解していなければならない。なぜなら、私にどの程度のことが要求されるかは、たとえそれだけによって決定されるわけではないにせよ、主として彼らのニーズによって決定されるからである。
 家族や隣近所や仕事にかかわる諸関係のネットワークが開花した〔繁栄した〕状態にある場合、すなわち、ある開花した地域コミュニティが存在する場合、その理由はつねに、このコミュニティのメンバーたちが彼らの共通善をめざしておこなう諸活動が、彼らの実践的合理性によって適切に導かれているということに存するだろう。だが、そうしたコミュニティの開花から恩恵を受ける人々の中には、自立した実践的推論をおこなう能力がもっとも乏しい人々、すなわち、幼児や高齢者や病気にかかった人々やけがをしている人々や、その他さまざまなしかたで障碍を負っている人々も含まれるだろう。そして、そのような人々一人ひとりの開花は、コミュニティ全体の開花を示す一つの重要な指標であろう。というのも、ある特定のコミュニティのメンバーたちに対して行動の理由を提供するのが〔障碍をもった人々のニーズを含む〕《ニーズ》である場合にかぎって、そのコミュニティは開花するからだ。
 右の説明において、個人の善はコミュニティの善に従属しているわけではなく、また、その逆でもないことに注意されたい。個人はたんにみずからの善を追求するためばかりでなく、そもそもみずからの善を具体的なことばによって定義づけるためにも、まずはコミュニティの善を、みずからのものとして引き受けるべき善として認識する必要がある。それゆえ、共通善というものを、諸個人の善の総計として、すなわち、それらを単純に足し合わせたものとして理解することはできない。と同時に、あるコミュニティにおける共通善の追求は、そのことに寄与しうるすべての人間にとって、彼らの個人的な善の不可欠な構成要素であるとはいえ、一人ひとりの個人の善はそうした共通善以上のものである。また、いうまでもなく、コニュニティ全体の善としての共通善以外にも、家族や家族以外の諸集団にとっての善や、さまざまな実践における善のような共通善が存在する。〔それゆえ〕各人は自立した実践的推論者として、それら個々の善が各々、みずからの人生においていかなる位置を占めるのが最善かという問いに答える必要があるのだ。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第9章 社会関係、実践的推論、共通善、そして個人的な善,pp.150-153,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:自立した実践的推論,共通善,社会関係,個人的な善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

2019年8月30日金曜日

05.人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

自立した実践的推論者

【人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)子ども
 (a)ごく幼い子どもは、誕生する前から、自らが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に、組み込まれている。
 (b)子どもは、大人に依存している。
(2)子どもが、自立した実践的推論者になるための諸条件
 (a)言語の獲得と、言語を幅広く多様なしかたで用いる能力を獲得する。
 (b)自らの行動の諸理由を比較衡量する能力を獲得する。
 (c)自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力を獲得する。
 (d)ただ現在だけを意識している状態から、想像上の未来をも見通している意識状態へと変化する。
(3)自立した実践的推論者
 (a)自らが参加する社会関係の形成や維持に寄与する。
 (b)自立した実践的推論者たちによる共通善を理解する。
 (c)現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存在する。
 (d)共通善の達成を可能にするような、他者との協力関係を形成・維持する技術を学ぶ。

 「ごく幼い子どもは、その誕生の瞬間から、いやそれどころか誕生する前から、みずからが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に組み込まれているし、そうした諸関係によって自己のありようを規定されている。そのような子どもがいずれ到達しなければならない状態とは、一人の自立した実践的推論者たるその人間が、他の自立した実践的推論者たちとの間に、また、〔いまはその子どもが彼らに依存しているのだが〕やがては彼らのほうがその人間に依存するようになる人々との間に、諸々の社会関係をとり結んでいる状態である。自立した実践的推論者は、幼児とは異なり、彼らがそこに参加する社会関係の形成や維持に寄与する。そして、自立した実践的推論者になる術を学ぶということは、自立した実践的推論者たちによる共通善の達成を可能にするような、そうした関係を他者と協力して形成・維持する術を学ぶことである。しかるに、そのような他者と協力しあっておこなう活動は、〔その活動にたずさわる人々の間に〕現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存することを前提としている。
 ただ現在だけを意識している状態から想像上の未来をも見通している意識状態へと変化することが、幼児の状態から自立した実践的推論者の状態への移行に見出される第三の側面である。この能力も、みずからの行動の諸理由を比較衡量する能力や、自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力と同様に、言語の獲得と言語を幅広く多様なしかたで用いる力の双方をその要件とする能力である。言語を用いない知的な種のメンバーは、この能力をもちえない。ウィトゲンシュタインはこう述べている。「動物(Tier)が怒っていたり、おびえていたり、悲しんでいたり、喜んでいたり、びっくりしている状態というのは想像できる。だが、希望に満ちた状態というのはどうだろう。そして、そのような状態が想像できないのはなぜだろう」。そして、彼は続けてこう指摘している。イヌは自分の主人がいま玄関にいることは信じることはあっても、自分の主人があさって帰ってくると信じることはないだろう、と。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第7章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」,pp.100-101,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:自立した実践的推論者,社会関係,共通善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

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2018年4月8日日曜日

解答:(1)自己の傾向性に多くを任せ、自己の良心を満足させれば十分である。(2)この世界と個人の真実を知れば、全体の共通の善も認識できる。(3)仮に自己利益の考慮のみでも、思慮を用いて行為すれば共通の善も実現される。但し、道徳が腐敗していない時代に限る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自己の良心と共通善

【解答:(1)自己の傾向性に多くを任せ、自己の良心を満足させれば十分である。(2)この世界と個人の真実を知れば、全体の共通の善も認識できる。(3)仮に自己利益の考慮のみでも、思慮を用いて行為すれば共通の善も実現される。但し、道徳が腐敗していない時代に限る。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
問題(1)
 善を完全に知るには、無限といえるほどの知識が必要ではないか。
解答(1)
 人は、無限といえるほどの知識を持てない。それにもかかわらず、自己の良心を満足させれば十分であり、この点で、自己の傾向性に多くを任せることができる。
問題(2)
 善の評価には、他の人の有益性も考慮すべきか。
解答(2)
 各々は他人から分離された個人であるとはいえ、人は一人では生存することができず、家族の、この社会の、この国の、この地球の、この宇宙の一部であり、それらと結合している。従って人は、一個人の利益よりも、自分がその一部である全体の利益を、節度と慎重さとをもって優先させるべきである。こうすることで、自分固有の善のみならず、集団に共通の善をも享受することができるだろう。
問題(3)
 他人の有益性の考慮がその人の性向だとしたら、違う人には違う「善」が完全だと承認させるのではないか。
解答(3)
 もちろん、自分自身のために善を獲得するよりも、他人に善を施すことへの傾向を持つ人は、より気高く、輝かしく、偉大な精神の持ち主である。しかし、たとえ各人がすべてを自分自身の利益にして、他人に対してどんな慈愛をもたないにしても、その人が思慮を用いて事を行ないさえするなら、そしてとりわけ道徳が腐敗していない時代に生きているならば、自らの力の及ぶすべてのものにおいて、通常は、やはり他人のために尽くしていることになる。なぜなら、事物の秩序は、人間全体をきわめて緊密な一つの社会に結び付けているからである。
 「このように神の善性、われわれの精神の不死、宇宙の広大さを認識したあとで、その認識がたいへん有益であると思われるもう一つの真理があります。それは、われわれの各々は他人から分離された個人であり、したがって、その利害は他の人の利害とある意味で区別されるにせよ、しかし人は一人では生存することができないと常に考えねばならないことです。実際、人は宇宙の一部であり、より詳しく言えば、この地球のまた一部であり、この国の、この社会の、この家族の一部であり、人はそれと住居、誓約、生まれにおいてつながっていると考えねばなりません。そして人は、一個人の利益よりも、自分がその一部である全体の利益をいつも優先させるべきです。ただ、それもあくまで節度と慎重さとをもってのことです。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『デカルト=エリザベト往復書簡』一六四五年九月一五日、p.131、[山田弘明・2001])
 「最後に、人は人生のさまざまな出来事において善の選択を迫られることがありますが、すべての善を完全に知るための、無限な知識を人がもつわけではありません。とはいえ、私が前便で数え上げた知識のように、より必要なことがらについて、ほどほどの知識を有することで満足すべきだと私には思われます。
 その手紙の中で私は、殿下が提出された問題、つまり、すべてを自分自身の利益にしようとする人は、他の人のために心を悩ます人よりも正しいかどうか、に対して私の意見をすでに申し述べておきました。というのは、われわれが自分のことしか考えないなら、われわれに固有の善しか享受できないでしょうが、その代わりに、自分を何か他の集団の一部と考えるなら、どんな固有の善もそのために奪われることなしに、われわれは集団に共通の善をも分けもつことになるでしょう。」(中略)
 「理性が公共の利益をどこまで考慮すべしと命じているかを、正確に測ることは困難であることを私も認めます。しかしそれはまた、きわめて正確であらねばならぬことがらではありません。自己の良心を満足させれば十分であり、この点で、自己の傾向性に多くを任せることができます。というのは、神は事物の秩序をきちんと確立し、人間全体をきわめて緊密な一つの社会に結び付けているので、たとえ各人がすべてを自分自身の利益にして、他人に対してどんな慈愛をもたないにしても、その人が思慮を用いて事を行ないさえするなら、そしてとりわけ道徳が腐敗していない時代に生きているならば、自らの力の及ぶすべてのものにおいて、通常は、やはり他人のために尽くしていることになるのです。そしてさらに、善を自分自身のために獲得するよりも、他人に善を施すことの方が、より気高く、より輝かしいことですから、そのことへの最も大きい傾向をもち、自らの所有する善をほとんど尊重しない人は、最も偉大な精神のもち主です。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『デカルト=エリザベト往復書簡』一六四五年一〇月六日、p.143、pp.150-151、[山田弘明・2001])
(索引:善と知識、利他傾向、利己傾向、良心、傾向性、共通善、思慮、道徳)

デカルト=エリザベト往復書簡 (講談社学術文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの


(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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