2019年8月30日金曜日

人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

自立した実践的推論者

【人間は、社会関係の中に組み込まれ他者に依存した状態から、共通善を理解し、めざすべき未来を他者と共有し、社会関係の形成や維持に寄与する自立した実践的推論者へと成長する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)子ども
 (a)ごく幼い子どもは、誕生する前から、自らが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に、組み込まれている。
 (b)子どもは、大人に依存している。
(2)子どもが、自立した実践的推論者になるための諸条件
 (a)言語の獲得と、言語を幅広く多様なしかたで用いる能力を獲得する。
 (b)自らの行動の諸理由を比較衡量する能力を獲得する。
 (c)自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力を獲得する。
 (d)ただ現在だけを意識している状態から、想像上の未来をも見通している意識状態へと変化する。
(3)自立した実践的推論者
 (a)自らが参加する社会関係の形成や維持に寄与する。
 (b)自立した実践的推論者たちによる共通善を理解する。
 (c)現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存在する。
 (d)共通善の達成を可能にするような、他者との協力関係を形成・維持する技術を学ぶ。

 「ごく幼い子どもは、その誕生の瞬間から、いやそれどころか誕生する前から、みずからが作り上げたわけではない一群の社会関係の中に組み込まれているし、そうした諸関係によって自己のありようを規定されている。そのような子どもがいずれ到達しなければならない状態とは、一人の自立した実践的推論者たるその人間が、他の自立した実践的推論者たちとの間に、また、〔いまはその子どもが彼らに依存しているのだが〕やがては彼らのほうがその人間に依存するようになる人々との間に、諸々の社会関係をとり結んでいる状態である。自立した実践的推論者は、幼児とは異なり、彼らがそこに参加する社会関係の形成や維持に寄与する。そして、自立した実践的推論者になる術を学ぶということは、自立した実践的推論者たちによる共通善の達成を可能にするような、そうした関係を他者と協力して形成・維持する術を学ぶことである。しかるに、そのような他者と協力しあっておこなう活動は、〔その活動にたずさわる人々の間に〕現在および未来の可能な諸相に関して、ある程度共通の理解が存することを前提としている。
 ただ現在だけを意識している状態から想像上の未来をも見通している意識状態へと変化することが、幼児の状態から自立した実践的推論者の状態への移行に見出される第三の側面である。この能力も、みずからの行動の諸理由を比較衡量する能力や、自分が現在抱いている諸々の要求から距離を置く能力と同様に、言語の獲得と言語を幅広く多様なしかたで用いる力の双方をその要件とする能力である。言語を用いない知的な種のメンバーは、この能力をもちえない。ウィトゲンシュタインはこう述べている。「動物(Tier)が怒っていたり、おびえていたり、悲しんでいたり、喜んでいたり、びっくりしている状態というのは想像できる。だが、希望に満ちた状態というのはどうだろう。そして、そのような状態が想像できないのはなぜだろう」。そして、彼は続けてこう指摘している。イヌは自分の主人がいま玄関にいることは信じることはあっても、自分の主人があさって帰ってくると信じることはないだろう、と。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第7章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」,pp.100-101,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:自立した実践的推論者,社会関係,共通善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

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