2020年5月26日火曜日

ベンサムの主張。いかに理性的要求を満足し、それ以外にはあり得ないように思えても、法律の仕事は解放ではなく拘束であり、自由を侵犯する。悪を為す自由も、自由である。法律は、悪人から自由を奪いとる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

【ベンサムの主張。いかに理性的要求を満足し、それ以外にはあり得ないように思えても、法律の仕事は解放ではなく拘束であり、自由を侵犯する。悪を為す自由も、自由である。法律は、悪人から自由を奪いとる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(b)(vii)追記。


 (2.5)積極的自由の歪曲4:理性による解放
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。欲望、情念、偏見、神話、幻想は、その心理学的・社会学的原因と必然性の理解によって解消し、自由になれる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  欲望、情念、偏見、神話、幻想の心理学的・社会学的原因の理解はよい。しかし“合理的な”諸価値や事実が、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、まさに積極的自由が歪曲される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は、外的な法則への服従である。
   (ii)情念、偏見、恐怖、神経症等は、無知から生まれる。
   (iii)社会的な諸価値の体系も、外部の権威によって押しつけられるときは、異物として存在している。意識的で欺瞞的な空想からか、あるいは心理学的ないし社会学的な原因から生まれた神話、幻想は、他律の一形態である。
   (iv)知識は、非理性的な恐怖や欲望を除去することによって、ひとを自由にする。規則は、自分で自覚的にそれを自分に課し、それを理解して自由に受けとるのであるならば、自律である。
   (v)社会的な諸価値も、理性によってそれ以外ではあり得ないと理解できたとき、自律と考えられる。自分によって発案されたものであろうと他人の考案になるものであろうと、理性的なものである限り、つまり事物の必然性に合致するものである限り、抑圧し隷従させるものではない。
   (vi)理解を超えて、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
   (vii)ベンサムの主張。いかに理性的要求を満足し、それ以外にはあり得ないように思えても、法律の仕事は解放ではなく拘束であり、自由を侵犯する。悪を為す自由も、自由である。法律は、悪人から自由を奪いとる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性は、何が必然的で何が偶然的かを理解させてくれる。
   (ii)自由とは、選択し得るより多くの開かれた可能性を与えてくれるからというのではなく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからである。
   (iii)必然的でないものが、それ以外ではあり得ない、必然的であるという誤謬が信じられたとき、積極的自由が歪曲される。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 
 「自由はかくして、権威と両立しがたいどころではなく、実質的にそれを同一のものとなる。これが18世紀におけるすべての人権宣言の思想・言葉であり、また社会を賢明なる立法者の、自然の、歴史の、あるいは神の理性的な法によって構成・設計されたものとみなすすべてのひとびとの思想・言葉なのである。ほとんどただひとりベンタムだけが、法律の仕事は解放ではなく拘束である、「いかなる法律も自由の侵犯である」と、頑強に言いつづけたのであった。
 * この点に関しては、ベンタムの吐いた次の言葉が決定的なものであるように思われる。「悪をなす自由は自由ではないのか。もしそうだとすれば、それはなんなのか。愚者や悪人はそれを悪用するから、かれらから自由を奪いとる必要がある、とわれわれはいわないだろうか。」この言葉と、同じ時期にひとりのジャコバン党員が行った次のような典型的な声明とを比較してみられよ。「なんぴとも悪をなす自由はない。かれ〔が悪を行うの〕を妨げることこそ、かれを自由にすることである。」」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),5 サラストロの神殿,pp.54-55,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

実定法と自然法

【法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.4.2)追記。

 (4.4)在る法と在るべき法の区別
  それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
   仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (4.4.1)在る法
   ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続ける。
  (4.4.2)道徳的な原則
   法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。
 「ベンサムは、自然権の観念を二つの主要な仕方で攻撃したのである。第一に、彼は以下のように主張した。実定法により創造されない権利の観念は「冷たい熱」とか「輝く闇」のような用語矛盾である。つまり、権利とは、彼の主張によれば、すべて実定法の産物にすぎないし、また、人為法に先立ちそれから独立した権利が存在するという主張は、人びとが誤解して自然法を自然権の淵源だと語ってきたから、明らかに不条理だとして即座に摘発されるのを免れたにすぎない。しかし、これら(自然法と自然権)はともに、次のような事実に示されているように、実在しないものであった。すなわち、ある人が何らかの法的権利を有しているかどうか、その範囲はどのくらいか、ということに関して論争があるとすれば、これは確証可能な客観的事実に関する問題であって、関連する実定法の文言を引証することによって、あるいは、それがない場合には法廷に委ねることによって合理的に解決できる、という事実である。〔しかし〕このような合理的な解決や客観的な判決手続は、ある人が非実定法的な自然権たとえば言論や集会の自由への権利を持っているかどうかという問題を解決するのに、まったく役立たない。自然権の存否を立証するこれと同種の承認されたテストは存在しないし、それを知りうるための確定された法も存在しないのである。それゆえ、ベンサムは、「《法》の観念を問題にしなければ、《権利》という言葉で言われるものは反駁されるべきものとなる」と述べたのである。法に先行する権利も法に反する権利も存在しない。そのために、自然権の教義は話し手の感情、欲求、偏見を表出するかもしれないが、法が正当に行なったり要求したりすることに対する、合理的に識別し論議しうる客観的な制限として、それは功利主義のようには役立ちえないのである。人びとが彼ら自身の自然権について語るのは、思い通りにしたい理由を示さずにそうしたいときである、とベンサムは述べた。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第4部 自由・功利・権利,8 功利主義と自然権,pp.213-214,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),玉木秀敏(訳))
(索引:実定法,自然法,自然権)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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