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2024年4月23日火曜日

19.このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう(マルティン・ブーバー(1878-1965)

このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう(マルティン・ブーバー(1878-1965)




 「だが、観察とも照察とも決定的におもむきを異にしている知覚というものがある。
 観察者と照察者とは、彼らがひとつの眼目、まさに、われわれの眼前に生きている人間を知覚しようという意向を有している点で共通している。

さらにこの両者にとって相手の人間は、観察し照察する彼ら自身からも、彼らの個人的生活からも切り離された一個の対象であり、まさにそれゆえにこそ《正当》に知覚され得るのだ。

したがって彼らがそうして経験するものとは、観察者においては諸特徴の総和であり、照察者においてはひとつの存在(Existenz)であるというようにことなってはいても、それによって彼らに行為が要求されることも、運命がもたらされることもなく、むしろすべてのことは、切り離された知覚能力(Ästhesie)の場においておこなわれるのである。

 だが、私の個人生活がある敏感な状態におかれている時に、ひとりの人間が私のまえに現われ、彼のところから私にむかって何かが、私がまったく客体的に把握できぬ何かが、《何かを語る》ような場合、事情は別である。

この場合、その人間がどういう人間だとか、彼のうちにどのようなことが起こっているとか、そういうことが私に語られるのではけっしてない。

いや、何かが《私にむかって》語られ、語りかけられ、何かが私自身の生のうちへと語りかけられるのだ。

それは、その人間に関する何か、たとえば、彼が私を必要としているというようなことでもあり得るし、一方また、この私に関する何かでもあり得よう。 

しかしその人間自身が、私とかかりあうことによってこのような語りかけにたずさわるのではない。彼はそもそも私とかかりあってはいない、彼はたぶん私の存在にすらまったく気づいてはいないわけである。

つまり、そのことを私に語るのは彼なのではなく、ただ何かによってこちらへと《語られる》ことがあるだけなのだ。

それゆえあの孤独な男がベンチのうえで、隣の男に自分の秘密を無言のままに打ち明けたこととは、話がまた別なのである。

 この場合、《語る》、《語られる》という言葉を比喩として理解するなら、事は理解されない。《これには何も語りかけてくるものがない》という慣用句は、比喩としてはもう擦りきれている。

しかし、私が指し示している語りかけは、事実として存在する言語なのだ。言語という家のなかには多くの部屋があり、そしてこの場合の言語とは、内面の言語という部屋のうちのひとつなのである。

 このように語りかけられることを感受するという行為は、照察や観察のそれとはまったくことなっている。私は、そのひとのところから、そのひとを通して何かが私に語られたところの人間を、描写したり、物語ったり、記述したりすることはできない。

もし私がそうしようとこころみるならば、あの語りかけは止んでしまうだろう。この人間は私の対象物ではない。私は彼に関わりを持つにいたったのである。たぶん、私は彼との関係を通して何かをはたさなければならない。

だがたぶん、私はただ何かを会得することができるだけであって、そして肝心なのはただ、私がその語りかけを《引き受ける》ことなのである。

この場合、私がほかならぬその人間にむかって直ちに応答するようなこともあり得よう。あるいはまた、その語りかけが、長いあいだにおよぶ一種の多様な連動作用を有していて、私がその語りかけにたいしてどこか別の所で、いつか別の時に、だれか別の人間にむかって応答することもあり得よう、……いかなる言語によってであるかはいざ知らず。

そして今は、私がその応答を引き受けるということだけが大事なのだ。いずれにしてもしかし、私にむかってひとつの言葉が、ひとつの応答を求めるひとつの言葉が生じたわけである。

 このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう。

 私が感得するのは人間であるとは限らない。それは動物でも、植物でも、石でもあり得るのだ。時に応じてそれらを通して何かが私に語りかけられるところの現象の系列から根本的に締め出されているような、いかなる種類の現象も、出来事も存在しないのである。

いかなるものも、言葉の容器たることを拒むことはできない。対話的なものの可能性とは、感得の可能限度なのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.198-199、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話




照察者(Betrachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)

 照察者(Betrachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)


「照察者(Betrachter)は、そもそも緊張していない。彼は対象を自由に見ることができるような姿勢をとり、自分のまえに示されるだろうものを虚心に待つ。

ただ最初のうちだけは、彼の心にも意図がはたらいているかも知れないが、そのあとのことはすべて無意的におこなわれるのだ。

彼はせかせかと記録したりはしない。彼は伸びやかにふるまい、何かを忘れることなどはすこしもおそれない(《忘れるのはよいことだ》と彼は言う)。彼は自分の記憶に責務を課したりはしない。

彼は、保持するにあたいするものを保持してくれる記憶の有機的なはたらきを信頼しているのだ。

彼は観察者のように草を緑色飼料として刈りいれたりはしない、彼は草の向きを変えて陽光を受けさせてやるのだ。

《特徴》には彼は注意をはらわない(《特徴は眼をあざむく》と彼は言う)。対象にそなわっているもののうち、彼にとって大事なのは、《特質》でも《外容》でもないところのものである(《興味をひくものは重要ではない》と彼は言う)。あらゆる偉大な芸術家は照察者であった。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.199-200、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話






観察者(Beobachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)

観察者(Beobachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)




 「われわれの眼前に生きているひとりの人間(私が念頭においているのは、学問の対象としての人間ではない。私はここでは学問については語らない)をわれわれが知覚する方法は、三つに区別される。

さてこの場合、われわれの知覚の対象である人間が、われわれのこと、われわれが彼のそばにいることを、知っている必要はいささかもない。彼がわれわれの知覚行為に何らかの関わりを有しているかどうか、何らかの挙止によって応ずるかどうかということもまた、どちらでもよいのである。

 観察者(Beobachter)は、被観察者を記憶に刻印し、《記録》すべく、このうえなく緊張している。

彼は相手を探知し、記述する。彼はしかも、あたうる限り多くの《特徴》(Züge)を記述しようとやっきになっている。彼はさまざまな特徴を、それらのうちの何ひとつとして取り逃すまいとして待ち伏せるのである。

対象はここではさまざまな特徴によって成り立っているにすぎず、あらゆる特徴について、その背後にひそんでいるものが知られてしまうのだ。

人間的事象の表出方式なるものについての知識が、新しく現れてくるさまざまな個人的な表出変差を絶えず直ぐさま抱合してゆき、相変わらず役立つわけである。

顔はここではたんなる表情にほかならず、行動はたんなる表出様態にほかならないのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.198-199、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話






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