2018年11月9日金曜日

法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の総体を正当化すべく要請された法理論

【法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 ある法理論を、他の法理論より優先して選択すべき、いかなる基礎が存在するかが問題である。
(1)法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論へと深く入り込まざるを得ないであろう。
(2)ある法律家の法理論においては、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理は、ほぼ全て何らかの意義と役割を持つであろう。
(3)ただし、憲法上の配慮により排除される原理は別とする。
(4)制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理だけでは、政治理論や道徳理論の構成には不十分である。
 参照: 原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 「私は他の法理論に優先してある理論を選択すべきいかなる基礎も見出されない、と主張しているのではない。逆に次節で検討される裁量論を私が拒否することからもわかるように、ある理論を他より勝れたものとして区別する説得力ある論証を示し《うる》と私は考えている。しかしこれらの論証は、たとえば社会における平等義務の本質は何か、といった規範的政治理論の諸問題の論証を含み、この種の論証は、法とは何かを決定する際に考慮さるべき問題には一定の限界がある、という実証主義的な観念では捉えることのできない論証である。制度的支えというテストは、ある法理論を最良の理論として特定化する機械的ないし歴史的基礎や倫理的に中立的な基礎を我々に与えてはくれない。それどころかこのテストは、ある一人の法律家が一連の法的原理を他のより広範な倫理的ないし政治的原理から区別することさえ可能にしないのである。通常、法律家の法理論には彼が受容するほぼすべての政治的倫理的原理の総体が含まれるだろう。確かに、憲法上の配慮により排除される原理を別とすれば、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理でありながら、法の総体を正当化すべく要請された詳細な正当化図式の内部には属さず、この図式において何の意義ももたないような原理を一つでも考えだすことは困難である。それ故実証主義者が制度的に確立した慣行を法の窮極的テストの役割を演ずるべきものとして採用しても、これはただ彼の台本の残りの部分をその犠牲として放棄することによってのみ可能なのである。
 しかしもしそうであれば、法理論にとり由々しい結果が生ずることになる。法理論は「法とは何か」という問いを立て、大半の法哲学者は法的権利義務の立証過程において適切な仕方で登場する「規準」を特定化することにより、この問いに答えようとしてきた。しかし、このような規準の網羅的なリストが作成されえないとすれば、法的権利義務を他のタイプの権利義務から区別する別の方法が発見されねばならない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,3「制度的支え」は承認のルールを構成するか,木鐸社(2003),pp.79-80,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法理論,政治理論,道徳理論,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言の不適切性の理論

【(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】
行為遂行的発言の不適切性の理論
(A・1)ある一定の慣習的な効果を持つ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存在しなければならない。そして、その手続きはある一定の状況のもとにおける、ある一定の人々による、ある一定の言葉の発言を含んでいなければならない。
(A・2)発動された特定の手続きに関して、ある与えられた場合における人物および状況がその発動に対して適当でなくてはならない。
(B・1)その手続きは、すべての参与者によって正しく実行されなくてはならない。かつまた、
(B・2)完全に実行されなくてはならない。
(Γ・1)その手続きが、しばしば見受けられるように、ある一定の考え、あるいは感情を持つ人物によって使用されるように構成されている場合、あるいは、参与者のいずれかに対して一連の行為を惹き起こすように構成されている場合には、その手続きに参与し、その手続きをそのように発動する人物は、事実、これらの考え、あるいは感情を持っていなければならない。また、それらの参与者は自らそのように行動することを意図していなければならない。そしてさらに、
(Γ・2)これら参与者は、その後も引き続き、実際にそのように行動しなければならない。

 「要するに、行為を適切に遂行した(have happily brought off our action)と言い得るためには、いわゆる遂行的な言葉を発すること以外に、一般的な通則としてなお数多くの事が正しく(right)なくてはならないし、また、数多くの事が正しく行なわれなくてはならないのである。そこでいったいいかなる事が正しくなくてはならないかということは、何かが《うまく行っていない》(go wrong)が故に、その結果として結婚、賭け、贈与、命名その他の行為が少なくともある程度において失敗に終わるような事例の型を観察、分類することによって明らかにすることができるであろう。そしてこれらの失敗に終わるような事例においてなされた発言については、それを偽であるというべきではなく、むしろ一般に《不適切》(unhappy)であるというべきであろう。そこでこの理由により、遂行的発言がなされた際に《何かがうまくない、または、何かがうまくはこんでいないといわれ得るようなその何か》に関する理論を《不適切性》の理論(the doctrine of the Infelicities)と名付けよう。
 以下さしあたり次のような順序で議論を進めて行くことにしたい。まず最初に、行為遂行的発言(あるいは、少なくともこの講義でこれまでとりあげてきた例にみられるような、高度に発達した顕在的な行為遂行的発言(explicit performative)を円滑、かつ適切に機能させるために必要とされる事柄のいくつかを、図式的に述べてみる。ただし、私はここで述べる図式がいかなる意味においても究極的に正しいものであると主張するつもりはない。そして、次に、不適切性とそれがもたらす結果についていくつかの例を挙げることを試みる。ここで私が危惧すると同時にまたもちろん希望することは、以下に述べる種類の満たされるべき必要条件なるものがあまりにも明白であることに諸兄が驚愕されることである。
(A・1)ある一定の慣習的な(conventional)効果をもつ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存在しなければならない。そして、その手続きはある一定の状況のもとにおける、ある一定の人々による、ある一定の言葉の発言を含んでいなければならない。
(A・2)発動(invoke)された特定の手続きに関して、ある与えられた場合における人物および状況がその発動に対して適当(appropriate)でなくてはならない。
(B・1)その手続きは、すべての参与者によって正しく実行されなくてはならない。かつまた、
(B・2)完全に実行されなくてはならない。
(Γ・1)その手続きが、しばしば見受けられるように、ある一定の考え、あるいは感情をもつ人物によって使用されるように構成されている場合、あるいは、参与者のいずれかに対して一連の行為を惹き起こすように構成されている場合には、その手続きに参与し、その手続きをそのように発動する人物は、事実、これらの考え、あるいは感情をもっていなければならない。また、それらの参与者は自らそのように行動することを意図していなければならない。そしてさらに、
(Γ・2)これら参与者は、その後も引き続き、実際に(actually)そのように行動しなければならない。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第2講 不適切性の理論Ⅰ,pp.25-27,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的発言の不適切性の理論)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))

難解な事案と在る法、在るべき法

【難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))】

(1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
 (1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
 (1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
(2)日常言語においても、次のような事実がある。
 (2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
 (2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
 (2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
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 「もし倫理学における「非認知主義的」理論やその他類似の理論を反証することが、在る法と在るべき法との区別に関係するもので、この区別をある点で破棄したり、何か弱めたりすると主張するためには、一層突っ込んだそして厳密な議論をしなければならない。ハーバード・ロー・スクールのフラー教授がそのさまざまな著作の中で展開している以上に、この方向での議論をはっきりと展開している人物はいない。そこで、その主要な論点だと思われるところを批判することで、この論文を終えたい。その論点は、意味が明確で議論を呼ぶことのない法的ルールないし法的ルールの意味の明確な部分ではなく、当初から問題があることが感じられており、具体的ケースにおいてルールの意味について議論がなされる場面でのルールの解釈を考察するときに再び私たちの前に現われてくるものである。どのような法体系においても、法的ルールの適用される範囲が、立法者が現実に考えたこと、あるいは、考えたと思われる具体的な事例の範囲に限られることはない。これが実際のところ、法的ルールと命令との重要な違いの一つである。ところが、立法者が考えた事例、もしくは、考えたであろう事例を超える事例にルールを適用していると考えられる場合に、このような新しいケースへのルールの拡張は、しばしば、ルールを解釈する者の意識的な選択や命令のようには見えない。それは、そのルールに新しい、拡張的な意味を与える決定とも見えないし、また、立法者が、たとえば18世紀に死んだのだがもし20世紀まで生きていたならば、言うであろうことの推測とも見えない。そうではなく、そのルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある特定の現存、物故の人物にというよりもルール自体に(ある意味で)帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。功利主義者は、このような古いルールの新しいケースへの解釈的な拡張を、司法立法と記述するのだが、これはこの現象を正しく扱っていない。これでは、新しいケースを過去のケースと同様に扱うという意識的な承認や決定と、ルールの下に新しいケースを包摂することが、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化することになるという認識(この認識には意識的なところはほとんどないし、また、任意的なところすらほとんどない)との違いについての手掛かりが与えられない。
 おそらく、多くの法律家や裁判官は、補完し明確化するという言いまわしの中に、彼らの経験にぴったり合致するものを感じるであろう。そうでない者は、これは、功利主義者の表現では司法「立法」、現代のアメリカの用語で言えば「創造的選択」という言葉でうまく語られている事実を、ロマンティックに解釈したものだと考えるかもしれない。
 この問題点を明確にするために、フラー教授は、法とは無関係な例を哲学者のウィトゲンシュタインから借りてきているが、啓発的な例であると思われる。
 『ある人が私に向かって「その子供たちにゲームを教えてやりなさい」と言う。そこで私はダイスを使うゲームを教える。すると、相手は「私はその種のゲームを考えていなかった」と言う。彼が私に命令した時に、ダイスを使うゲームを排除することが彼の念頭になければならないのだろうか。』
 この例はたいへん重要なことに触れているように私には思われる。おそらく次のような(区別可能な)論点がある。第一に、私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、仮定的な人間に共通の目的を考慮して解釈しているので、反対のことが明示的に指示されるまでは、幼い子供にゲームを教えろという指図を、他の文脈では「ゲーム」という言葉が自然にギャンブルの意味に解釈されることもあろうが、ギャンブルを教えてやれという命令とは解釈しない。第二に、たいへんしばしばあることだが、話し手がその言葉のそのような解釈を聞いて、「そうだ、それが私の言いたかったことだ。〔ないし「それが私がずっと考えていたことだ。」〕あなたがこの具体的なケースを私に示してくれるまでは思い至っていなかったがね」ということがある。第三に、前もってはっきりと心に描かれていなかった個別具体的なケースが曖昧に表現された指図の範囲の中に入ると、たいてい他人と議論したり相談したりした後でのことだが、認識したとしよう。この認識のあり方を記述するのに勝手にそのケースをそのように扱うように決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのかを、ないし、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。――これらの言い回しはフラー教授が同じ論文の後の部分で使用している。
 フラー教授が例に挙げた種類のケースに注意を向けることで、道徳的議論の性格についての哲学的議論は、多くの実りを得るものと私は信じている。このようなケースに注目することは、「目的」と「手段」との間は鋭く分離しており、「目的」について議論するときには互いに非合理的に働きかけることができるだけで、合理的議論は「手段」についての議論のためのものであるという見解を矯正するものを提供する助けになろう。しかし、この論点が、在る法と在るべき法との区別の主張が正しいものかどうかとか賢明なものかどうかという問題にどれほど関係しているかといえば、私は実際にはほとんど関係していないと考える。よく考えてみると、法的ルールを解釈する際に、ある解釈がルールのたいへん自然な精密化や明瞭化なので、それを「立法」だとか「法創造」だとか「命令」だとか考えたり呼んだりすることがうまくそぐわないもののように思える場合があるというのがこの議論の趣旨である。そして、そのような場合について、在るルールと在るべきルールを区別することは――少なくとも「べき」の持つある意味においては――誤解を招くであろう、という議論である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.92-94,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:難解な事案,在る法,在るべき法,半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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