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2021年11月13日土曜日

なぜ世界は変化しているように知覚されるのか。系が変化しているとみなせるのは、系の別の状態が、時計として指示された他の系(ある特別な脳部分系)の別の時間固有値と相関しているかぎりである。この特定の基底の選好は、私たちの意識の性質に起源を持つ。(マイケル・ロックウッド(1933-2018))

意識される時間の流れ

なぜ世界は変化しているように知覚されるのか。系が変化しているとみなせるのは、系の別の状態が、時計として指示された他の系(ある特別な脳部分系)の別の時間固有値と相関しているかぎりである。この特定の基底の選好は、私たちの意識の性質に起源を持つ。(マイケル・ロックウッド(1933-2018))

  「この章のはじめの方で、時間の流れ、あるいは時間を通じてのわれわれ自身の発展という 感覚は、単なる錯覚でないとしたならば、とにかくパースペクティブに呼応した現象、すなわ ち意識的な主体自身の観点からのみ生じると言えるにすぎないと主張した。しかしながら、い までは、もっと過激なことを主張している。少なくとも、時間とともに世界の状態が変化する ということ、未来のさまざまな集まりにはさまざまな時刻がむすびついているということは、 客観的で、観測者によらない事実でなければならないと考えるであろう。しかし、その仮定も また、最前のいくつかの段落での議論が疑いを差しはさんだものなのである。呼応状態の方法 を論理全体は、系が変化しているとみなせるのは、系の別の状態が、時計として指示されたほ かの系の別の時間固有値と相関しているかぎりであるという結論にむかっている。われわれ自 身は、ものの状態をわれわれ自身のある選好された状態に照らしあわせるというそれだけで、 世界を変化しているものと知覚しているのである。しかもこれらの選好された状態は、われわ れ自身の脳の「時計の読み」をふくみ、かつその基礎のうえでなりたっているのである。

   このことすべては、ヘンリー・フォードの「歴史は、まやかしだ」という論評についてのお どろくべき証明になっているのかも知れない。しかし、もちろん、歴史はまやかしなどではな い。私は、本当は何ごともいままでに起こりはしなかったなどと主張してはいない。むしろ、 逆であって、呼応状態の理論では、(物理的に)起こりうるすべてのことが、宇宙波動関数の どこかに見出せるという意味で、絶対起こるのである。私が世界の《まぎれも》ない歴史と考 えているものは、本当は、特定の伝記、しかも私の多くの伝記のうちのひとつにすぎないもの に呼応した世界の歴史なのである。その意味で、ふつう考えられるような歴史は、無数のおこ りうる歴史をふくんで横たわっている母胎から《抽出された》なにかなのである。また、この 全体系が、それだけで変化したり進化したりしている(あるいは、していない)という仮定 は、よく言って根拠のない、悪くいえば無意味なことなのである。アルキメデスは、てこの原 理についてこう言ったと伝えられている。「われに支点をあたえよ。されば地球をも動かさ ん。」しかしながら、そのような場所は存在しないし、原理的にすら、全体としての宇宙が定 常状態にあるのか否かをそれだけで決定できるような観測をすることのできるアルキメデス的 な地点も存在しない。最も抽象的な理論化においてのみ、われわれは、世界から自分自身を解 放できるし、しかも、ネーゲルのことばでは、どこにもない場所から景色を見たりできるので ある。」

 (マイケル・ロックウッド(1933-2018)『心、脳、量子』(日本語名『心身問題と量子力 学』)第15章 時間と心、pp.414-415、産業図書(1992)、奥田栄(訳))







脳のなかで起こっていることの一面だけが、なぜ意識に銘記されるのか、これが問題である。何らかの量子的状態の観測が意識化だとすると、ある特別な脳部分系のオブザーバブルの集合の固有状態が意識的現象に対応していることになる。特定基底の選好は意識の性質に起源を持つ。(マイケル・ロックウッド(1933-2018))

意識と量子的状態

脳のなかで起こっていることの一面だけが、なぜ意識に銘記されるのか、これが問題である。何らかの量子的状態の観測が意識化だとすると、ある特別な脳部分系のオブザーバブルの集合の固有状態が意識的現象に対応していることになる。特定基底の選好は意識の性質に起源を持つ。(マイケル・ロックウッド(1933-2018))


「要するに私は、特定の基底は選好されるということを、物理世界一般の性質というよりは むしろ、意識の性質に根源をもつものと理解しているのである。私は、一般に、どのような方 法でまたどんな理由で、ほかのものはそうでないのに、両立可能な脳オブザーバブルの特定の 集合の固有状態が現象的パースペクティブに対応しているのか、あるいは、そのなかにあらわ れるのか知っていると言うつもりはない(もっとも、第15章の時間についての議論は、この問 題とあるかかわりをもつではあろうが)。しかし、私にとって、なぜ脳のなかで起こっている ことの一面だけが意識に銘記されるのかという、量子力学とは独立に生じる問題にくらべてこ の問題がより神秘的であるとは思えないのである。どちらの場合も、われわれが経験している のは、現在の無知な状態では、任意とも思える選択性である。しかし、こうした選択性が存在 するということは、汎精神主義に踏み切らない理論という観点からすると、意識についてのの がれようのない事実なのである。肌理の問題は、この選択性のひとつのあらわれである。すな わち、なんらかの意識状態の現象的内容が、なんらかのもっともらしい対応する脳状態の微細 構造に鈍感であるように見えるという事実である。

 しかし、ここで、われわれは、選択性の古典力学的および量子力学的あらわれの強力な統一 の産物をもっているということを主張したい。というのは、双方ともたしかに、意識が特別な 脳部分系のうえの脳オブザーバブルの特別な集合を選好するという唯一の考察につつみこむこ とができるからである。実際、肌理の問題は、ひとたび、意識の内容が量子力学的《オブザー バブル》の集合の同時固有状態に対応すると要請されることを正しく理解しさえすれば、その 牙をうしなってしまうように思える。というのは、量子力学では、どんなオブザーバブルもア プリオリには特別扱いされることはないし、ほかのものよりも基本的であるとみなされること はないからである。また、意識が選好するのは、空間的あるいは時空的領域にわたるある程度 の《平均》をふくむオブザーバブルであると仮定することは自由である。(実際、このような 平均は、量子力学では不可避なのである。すなわち、《場の量子論》の文脈では、正確に決 まった点での電磁場の強さを観測することには意味がない。それは、初等的な量子力学におい て、位置の正確な観測や運動量の正確な観測に意味がないのとおなじことである。)もうひと つ、このことは、意識にうかぶものは見地によるという性質を反映しているのである。しか し、私が第11章で強調したように、それは決して、基礎になっている神経生理学的実在にかん してその客観性あるいは直接性を減じるものではない。その仮定は、その精神においてラッセ ル的なままである。

 ともあれ、意識のレベルでこのような選好基底を仮定すると、《われわれの知覚するとき に》、それが感覚知覚の対象自身に反映されるであろうということが容赦なくみちびかれる。 われわれが、日常の、古典的で、マクロなオブザーバブルと考えるものは、両立可能な脳オブ ザーバブルの選好集合の固有値と、感覚知覚の機構によって相関させられた固有値をもつもの であろう。したがって、われわれは、不可避的に、これらのオブザーバブルの決まった固有値 をもつものとして対象を見るであろう。ちょうどそれは、色のような第二性質をもったものと して対象を見るようなものである。」

(マイケル・ロックウッド(1933-2018)『心、脳、量子』(日本語名『心身問題と量子力 学』)第13章 量子力学と意識的観測者、pp.338-340、産業図書(1992)、奥田栄(訳)) 







2020年5月24日日曜日

任意の時刻において,それより大きい部分系の状態とは量子力学的な相関を持たないという意味で自己充足的な最小の部分系における,特別な状態の選択が,あるものが意識化される本質であるように思われる.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))

意識とは?

【任意の時刻において,それより大きい部分系の状態とは量子力学的な相関を持たないという意味で自己充足的な最小の部分系における,特別な状態の選択が,あるものが意識化される本質であるように思われる.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))】

 「この時点で、私がここで擁護しようとしている立場を簡単に要約しておくと役にたつだろう。非相対論的に考えると、宇宙はシュレーディンガー方程式にしたがってなめらかに決定論的に発展していく継目のない全体であると考えられる。この発展系は、無数のさまざまな仕方で部分系に分けることができる。部分系のあいだに相関があるかぎり、どんな部分系も、ある時刻になんらかの決定的な量子状態にあると考えることはできない。しかしながら、もし、特定の部分系を選んで、その系のある可能な状態を選ぶならば――くり返すが、「本当に」その状態にあるわけではない、というのは、相関があるとそのような状態は存在しないからである――そのときには、ほかの部分系に決まった量子状態、もとの部分系の選ばれた状態に呼応した状態を割り当てることができる。意識をもった主体にとって、意識的である任意の時刻において、それはいつも決まって、特別の部分系の特別の状態が選ばれた《かのように》みえる。つまり、主体の脳の内部にあるどんな物理系の状態も、じかに主体の意識の流れをささえているのである。私は、この状態を意識によって《指示された》状態と呼ぶ。関与している脳系のどんな状態も指示されるのにふさわしいというのではなく、ただ、関与している脳系のオブザーバブルのうちの特別な集合の共有された固有状態だけが選ばれるに値するのである。任意の時刻において、意識をもった主体は、宇宙ののこり全体をはじめとして他のどんな部分系をも、この指示された状態に呼応する決まった量子状態をもつものと考える資格をもっているのである。ひとがふつう、ある時刻の、なにものかの状態と考えるものは、本当はその人自身のある指示された状態に単に呼応した状態と考えるべきである。そして、これは、全体としての宇宙の状態についても通用するのである。
 私は、脳オブザーバブルのつくる優先集合の共有された固有状態だけが、指示されるに値すると言った。もう少しだけはっきりさせたい。全宇宙の状態が複数の状態の重ね合わせとしてあらわされていると仮定しよう。状態のおのおのは、部分系の状態のテンソル積であり、適切に分割された部分系のもと、その表現は適切に選ばれているとしよう。私は、《全》宇宙と言っている。しかし、実際は、関与している脳系を部分系としてふくんでいる宇宙の部分系のうち、その状態が宇宙の他の部分系(全部であれ一部であれ、すでにふくまれているものは別として)の状態と、量子力学的な意味で相関していないという意味で《自己充足的》であるような、最小のものを考えれば十分である。というのも、そうした条件を満たす部分系は――関与している脳系はそうではないだろうが――決定論的で意味のある客観的な量子状態をもっているはずだからである。(この最小の自己充足的な部分系は、残りと決して相互作用しない部分系が宇宙にないとすると(そんなことはありそうにないが)全宇宙と一致する。)
 さらに、私の意識をささえている脳部分系はその部分系のひとつで、選ばれた表現は、いま論じている脳オブザーバブルのつくる特別な集合によって定義されているとしよう。すると、任意の時刻で、オブザーバブルのつくる特別な集合の特別な共有されている固有状態が指示される必要条件は、宇宙の重ね合わせにあらわれるテンソル積のひとつにふくまれていることである。あるいは、もっと正確に言うと、ゼロでない係数をもった重ね合わせの要素のなかにあらわれていることである。これを、関与している脳系の状態が指示されるための必要条件と言おう。しかし、それは《十分条件》でもある。この条件を満たすすべての状態は、同時に指示することができ、したがって、すべておなじように私のものである並列現象的パースペクティブを生成している。それが、観測という文脈において、「精神」あるいは分離した観測者について語ることにあたえるべき文字どおりの意味である。」
(マイケル・ロックウッド(1933-2018)『心、脳、量子』(日本語名『心身問題と量子力学』)第13章 量子力学と意識的観測者、pp.326-328、産業図書(1992)、奥田栄(訳))
(索引:意識)

心身問題と量子力学


マイケル・ロックウッド(1933-2018)
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意識は仮像,現象であり,実在は科学的方法によって捉えられるという考えは,外的対象については正しい. しかし,意識そのものを対象にした場合,意識に現われるものは実在そのもの,少なくとも実在の一面である.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))

意識とは何か

【意識は仮像,現象であり,実在は科学的方法によって捉えられるという考えは,外的対象については正しい. しかし,意識そのものを対象にした場合,意識に現われるものは実在そのもの,少なくとも実在の一面である.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))】

 「要するに、私は、内省的な心理学が基本的な物理学に貢献するかもしれないということを遠まわしに言っているのである。もし心的状態が脳の状態であるならば、内省はすでに、脳物質には、物理学者の哲学のなかで現在容れられている以上のものが存在することを教えているように私には思えるのである。
 おなじくらい重要な、第二の点は、ラッセルのもともとの観点からは何か逸脱したものを述べているかも知れない。しかし、もしそうだとしても、それは、ラッセルの観点よりもっともらしくすると同時に、物理学内部におけるとともに哲学内部における現在の思考の線にそれをもっと密着させるものである。私は、意識にあきらかになるものに還元できないような《視角による》特性があることを認めなければならないと思う。なお、われわれは、意識をある脳状態の固有の性質をつたえるものと考えるべきなのである、と私は提案する。しかし、その知識は、ある観点に逃れようもなくむすびついているものである。われわれがここで抵抗しなければならないのは、ある観点から何かを知るということは、ともかく、それによってとらえられるものの客観性と相反するというあやまった考えなのである。現象的性質を感知するときにわれわれの感知しているものは、《実在にそのように埋めこまれたものとして意識にのぼるような》脳状態の属性であるけれども、見かけと実在のあいだにギャップは存在しない、ということを私は示唆している。意識にあらわれるものは実在《である》、少なくとも、実在の一部あるいは一面なのである。」
(マイケル・ロックウッド(1933-2018)『心、脳、量子』(日本語名『心身問題と量子力学』)第11章 状態とオブザーバブル、p.257、産業図書(1992)、奥田栄(訳))
(索引:)

心身問題と量子力学

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