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2019年4月30日火曜日

15.私たちは、行為が及ぼす影響範囲を評価し、明らかに他者の権利を侵害したり、仮に皆が行えば社会に害が発生するような行為の場合には、道徳基準に従うことによって、あとは動機に任せて行為し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

行為の動機と道徳基準

【私たちは、行為が及ぼす影響範囲を評価し、明らかに他者の権利を侵害したり、仮に皆が行えば社会に害が発生するような行為の場合には、道徳基準に従うことによって、あとは動機に任せて行為し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追加。

(2)道徳基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
   人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)基本的な考え方。
   (i)あたかも、自分自身が利害関係にない善意ある観察者のように判断すること。
   (ii)人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。
   (iii)自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
  (b)次のような法や社会制度を設計すること。
   (i)あらゆる個人の幸福や利害と、全体の幸福や利害が最大限一致している。
  (c)人間の性格に対して大きな力を持っている教育や世論の力を、次のような目的に用いる。
   (i)自らの幸福と全体の幸福の間には、密接な結びつきがあることを、正しく理解すること。
   (ii)従って、全体の幸福のための行為を消極的にでも積極的にでも実行することが、自らの幸福のために必要であることを、正しく理解すること。
   (iii)全体の幸福に反するような行為は、自らの幸福のためも好ましくないことを、正しく理解すること。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。

(3)行為の動機と道徳基準
 (3.1)行為の動機
  (a)私たちは、ほとんどの場合、道徳基準に従って意識的に行為しているわけではない。
  (b)動機は、行為の道徳性とは無関係である。例えば、溺れている同胞を助ける人は、その動機が義務からであろうと、苦労に対する報酬への期待であろうと、状況に応ずる衝動からであろうと、道徳的には正しいことをしているのである。
  (c)私たちは、行為者の動機によって、行為者を賞賛したり侮蔑したりする。
   参照:行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)道徳基準の実践的な適用方法
  道徳基準は、一貫性のある論理体系として追究される人間行為の規則であり、行為の動機など人間の現実的な心理過程は、また別事象である。道徳基準の実践的な適用方法は、以下の通りである。
  (a)行為が及ぼす影響範囲を考えよ。
   (a.1)普通は、関係する特定の人々の利害を考えればよい。
   (a.2)しかし、ある行為が社会一般に影響するような能力を持っているような人は、より広い範囲の人々の幸せを考慮する必要がある。
  (b)明らかに有害であることは自制すること。
   (b.1)関係者以外の人々の合法的で正当な期待を侵害することにならないかを、確認すること。
   (b.2)帰結が有益と思われても、もしその行為が一般に行われれば、広く害を及ぼすような種類のものであるとき、その行為は差し控えること。

 「反功利主義者はいつも誹謗するような仕方で功利主義を描き出していることで非難されるわけではない。

それどころか、功利主義が公平性をもっているという正しい考えを受け入れている人のなかには、功利主義の基準は人類にとって高すぎるとして批判する人もいる。

彼らは、つねに社会全体の利益を促進することを動機として行動するように人々に求めることは厳しすぎると述べている。

しかし、これは道徳の基準の正しい意味を誤解し、行為の規則と行為の動機を混同しているのである。

倫理学の役割は私たちの義務は何であるかやどのような試金石によってそれらを知ることができるかを示すことであるが、あらゆる行為の唯一の動機は義務の感情でなければならないとするような倫理学の体系はない。

それどころか、私たちの百のうち九十九の行為が他の動機からなされており、義務の規則がそれをとがめないならば、それは正しくなされていることになる。

功利主義道徳論者は、動機は行為者の価値には大いに関係するけれども行為の道徳性には無関係であるということを他のほとんどすべての道徳論者よりも強く主張していたのだから、このような誤解が反功利主義の根拠になっているというのは功利主義にとっていっそう不当なことである。

溺れている同胞を助ける人は、その動機が義務であろうと苦労に対する報酬への期待であろうと、道徳的には正しいことをしているのである。信頼してくれている友人を裏切る人は、その目的がより大きい恩義を受けている他の人のためであったとしても、罪を犯しているのである。

 しかし、義務という動機からなされた行為にかぎって、そして原理に直接的に従っているかぎりで言うならば、世界や社会全体にわたるくらいに広範囲に気をかけることを人々に求めていると考えるのは功利主義的思考法に対する誤解である。

善い行為の大部分は世界の利益になることを意図したものではなく、世界の善を構成している個々人の利益になることを意図されたものである。

このような場合には、大部分の有徳な人は、関係者の利益を図るときに他の誰かの権利――つまり、合法的で正当な期待――を自らが侵害していないことを確かめる必要があるときを例外とすれば、関係する特定の人々以外のことを考える必要はない。

功利主義的倫理にしたがえば、幸福を増大させることが徳の目的である。しかし、(千人のうち一人くらいを別にすれば)誰かが広範にわたって幸福を増大させる能力をもっている、言い換えれば、公共の役に立つ人であるという場合は滅多にない。

このような場合にだけ公共の功利を考慮することが求められ、他のあらゆる場合には個人の功利、つまりごく少数の人の利益や幸福だけに関心を向けていればよい。

自らの行為が社会一般に影響するような人だけがこういう広い対象に習慣的に関心を向ける必要がある。

ある特定の場合には帰結が有益かもしれなくても道徳的配慮から人々が差し控えるようなことを実際に自制するという事例について言えば、その行為が一般に行われれば広く害を及ぼすような種類のものであるということや、このことがこの行為を控える義務の根拠となっているということを意識的に考えることがないというのでは、知性ある人に値しないだろう。

ここで公共の利益に対する配慮の程度はあらゆる道徳体系が求めているものと変わらない。

というのは、それらはいずれも社会にとって明らかに有害なものは何であっても控えるように求めているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.280-282,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:動機,道徳基準,行為の道徳性,行為が及ぼす影響範囲)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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