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2022年1月7日金曜日

正義と公正の理念は、その適用において(a)公正な手続の結果はすべて正義であるとする考えから、(b) 結果としての正義が公正であるとする考えまで幅があり、また困難な問題においては、公正と正義が時として衝突する。整合的な諸原理による純一性の理念は、このような場合の判断を導いてくれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的理念としての純一性

正義と公正の理念は、その適用において(a)公正な手続の結果はすべて正義であるとする考えから、(b) 結果としての正義が公正であるとする考えまで幅があり、また困難な問題においては、公正と正義が時として衝突する。整合的な諸原理による純一性の理念は、このような場合の判断を導いてくれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(a) 公正な手続の結果はすべて正義である
 正義は公正とは別個に独立した意味をもちえず、政治においては、ちょうどルーレットにおけるように、 公正な手続を通じて生じた結果はすべて正義である。
(b)結果としての正義が公正である
 政治における公正の唯一のテストは 結果のテストであり、いかなる手続も、独立した何らかの正義のテストを充たすような政治的 決定を生みだす可能性の強いものでないかぎり、公正な手続とは言えない。
(c)公正と正義は別の理念
 公正と正義はある程度まで相互に独立した理念であ り、それゆえ、公正な制度でもしばしば不正な決定を生みだし、不公正な制度でも正しい決定 を生みだすことがある。
(d)政治的理念としての純一性
 これら困難な問題が生ずるのは、公正と正義が時として衝突するか らである。もし我々が純一性というものを第三の独立した理念として見なすのであれば、公正あるいは正義の どちらかを純一性のために時として犠牲にせざるをえないと我々が考えることも、充分うなず けるだろう。


「理念の間の衝突は、政治においてはごくあたりまえのことである。たとえ我々が純一性を 拒否し、我々の政治活動を公正と正義と手続的デュー・プロセスだけに基づかせた場合であっても、公正と正義という二つの徳がしばしば相反する方向へと我々を導いていくことがあるだ ろう。ある哲学者たちは、正義と公正のうちの一方が終局的には他方から導出されると信ずる ことから、これら二つの徳の間の根本的な衝突の可能性を否定する。ある人々は、正義は公正とは別個に独立した意味をもちえず、政治においては、ちょうどルーレットにおけるように、 公正な手続を通じて生じた結果はすべて正義であると主張している。これが、公正としての正 義と呼ばれる理念の極端な形態である。また他の人々は、政治における公正の唯一のテストは 結果のテストであり、いかなる手続も、独立した何らかの正義のテストを充たすような政治的 決定を生みだす可能性の強いものでないかぎり公正な手続とは言えない、と考えている。これ は、正義としての公正という逆の理念の極端な形態である。また大抵の政治哲学者は――そして 私の考えるところでは大多数の人々は――公正と正義はある程度まで相互に独立した理念であ り、それゆえ、公正な制度でもしばしば不正な決定を生みだし、不公正な制度でも正しい決定 を生みだすことがある、といった中間的な見解を採っている。  もしそうであるならば、通常の政治において我々がどの政治的綱領を支持すべきかを決定す る際に、二つの徳のどちらかをしばしば選択しなければならないことになる。我々は、多数決 ルールこそ政治において機能しうる最も公正な決定手続であると考えるかもしれないが、同時 に我々は、時として――おそらく非常にしばしば――多数派が個人の権利に関して不正な決定を下 すことを知っている。それでは我々は、多数決ルールをそのまま適用したのではある経済的集 団にとって正当な量に満たない持ち分しか割当てないおそれがあるという理由で、当の集団に 対してそのメンバー数によって正当化される以上の特別な投票上の力を与えることによって、 多数決ルールに修正を加えるべきであろうか。また、言論の自由や他の重要な自由を多数派が 制限してしまうことを防止するために、民主主義的権力に憲法上の制約を加えることを我々は 受け容れるべきだろうか。これら困難な問題が生ずるのは、公正と正義が時として衝突するか らである。もし我々が純一性というものを――少なくとも前記の二つの理念の一つについて人々 の見解が対立するときは――第三の独立した理念として見なすのであれば、公正あるいは正義の どちらかを純一性のために時として犠牲にせざるをえないと我々が考えることも、充分うなず けるだろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,純一性は適合するか, 未来社(1995),pp.282-283,小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2020年4月17日金曜日

司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法としての適正と正義の原則

【司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(f)追加。

 (1.3)基準は、どのようなものか
  (a)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。従って、実質的な内容を伴うと思われる。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これは恐らく違うだろう。
  (c)基準は、道徳とは異なると考えたこともあるが、「道徳的」と呼んで差し支えないようなものである。理由は、以下の通りである。
   半影的問題における司法的決定を導く法以外の「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾しないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (i)開かれた構造を持つ法を解釈する際、ルールの目的は合理的なものであり、そのルールが不正な働きをしたり、確定した道徳的原則に反するはずがないという前提に基づいて行なわれる。
   (ii)法に従わないときも、法に従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきた。
  (d)高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。
  (e)立法的と呼ぶのに躊躇を感じるような司法的活動は、次のような特徴を持つ。
   (i)選択肢を考慮するさいの不偏性と中立性
   (ii)影響されるであろうすべての者の利益の考慮
   (iii)決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとする関心
  (f)司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。

 「(v)法としての適正と正義の原則 周知され裁判で適用される一般的なルールによって人の行為がコントロールされるときにはいつでも、最小限の正義はかならず実現されているという根拠から、道徳と正義にある点において一致するよい法体系と、そうでない法体系とを区別することは誤っていると言えるであろう。すでに正義の観念を分析するさいにまさに指摘したように、そのもっとも単純な形態(法の適用における正義)は、偏見や利害や気まぐれによって左右されない同じ一般的なルールが、多くの異なる人々に適用されなければならないという考えを、まじめに採用することにほかならない。この不偏性こそイギリスやアメリカの法律家達の間で「自然的正義」の原則として知られている手続的基準が確保しようとしているものなのである。こうして、もっとも不愉快な法が正しく適用されることになるかもしれないが、その場合でもわれわれは、一般的な法のルールの適用というただそれだけの観念のなかに、正義の少なくとも萌芽を見るのである。
 「自然的」と呼んでもよいような、この最小限の正義の形態の側面を明らかにしようとするならば、それは、法のルールのみならずゲームのルールのような何らかの社会統制の方法に事実上含まれているものを研究すればよい。社会統制の方法は別段の公機関の指令がなくてもルールを理解しルールに一致するはずの部類の人々に伝えられた、一般的な行為の基準から主として成りたっている。この種の社会統制が機能するためには、そのルールは一定の条件を満たさなければならない。すなわちそれらは理解できるものであり、たいていの人が服従できる範囲内のものでなければならない。また例外もあるが、それらは一般的には遡及してはならない。つまり、たまたまルール違反のために罰せられる人々も、たいていは服従する能力と機会をもつのだろうということになる。ルールによる統制のさいのこれらの特徴は明らかに、法律家が法としての適正の原則と呼ぶ正義の要請と密接に関連している。実証主義に対するある批判者は、まさにルールによる統制のこれらの側面のなかに、法と道徳の必然的な結びつきを示す何ものかを見て、その側面を「法に内在する道徳」と呼ぶよう提案したのである。またもしこれが、法と道徳には必然的な結びつきがあるということの意味であるならば、われわれはそれを受けいれてもいいだろうが、不幸にもそれは極度の邪悪と両立しうるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.224-225,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法としての適正,正義の原則,道徳的基準,不偏性,公正な手続的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年8月20日火曜日

「善には善を」は、正義の原理である。なぜなら、恩恵に対する返礼は、自然で合理的な期待であり、それを裏切ることは、救済が正当化されるような重大な危害を与えるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

善には善を

【「善には善を」は、正義の原理である。なぜなら、恩恵に対する返礼は、自然で合理的な期待であり、それを裏切ることは、救済が正当化されるような重大な危害を与えるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.3)へ追記。

 (2.4)正義と便宜や機略の間には、本質的な違いがある。
   正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)強い拘束性
  「全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則」という性格が、正義に、便宜や機略を超える神聖性と強い拘束力を与えている。従って、正義が満足されてからはじめて、便宜や機略は傾聴されるべきである。
  (b)互いに危害を与えることの禁止
   正義は、人類が互いに危害を与えることを禁じる規則を含んでいるが、この規則は、人生の指針となる他のあらゆる規則よりも、人間の福利にとって不可欠なものである。
   (b.1)直接的で不当な侵害行為
   (b.2)自由への不当な干渉
   (b.3)自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて、人が見込んでいる何らかの善を、その人に与えないこと。
    (b.3.1)恩恵を受けた人は、その恩恵に対して返礼することが、自然で合理的なこととして期待されている。すなわち「善には善を」は習慣的に、十分に確信され信頼されている原理である。
    (b.3.2)相手が必要としているときに、恩恵に対する返礼を拒否することは、合理的な期待を裏切ることであり、相手に重大な危害を与える。
    (b.3.3)事例として、友情に背いたり、約束を破ったりすることは、重大な危害を与える。
  (c)危害を受けることへの恐れ
   人は、他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。
  (d)規則を互いに認識することの利益
   正義の規則は、他の人に互いに教えあい、認識させることが必要で、明白な利益がある規則であると、最も強く感じられている規則である。
  (e)違反の影響の大きさ
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、もし正義の規則が遵守されることがないならば、各人が他の全ての人を敵とみなして、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。
  (f)報復の感情を伴う
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、悪には悪をという報復の感情が、正義の感情と結びつくようになる。この感情は、自己を守るという衝動、他の人を守るという衝動、復讐の衝動を基礎に持つと思われる。

 「善には善をというのも正義の命じていることである。そして、その社会的功利性は明らかであり、それは自然な人間の感情を伴っているが、これは一見したところ、正義・不正義のもっとも基本的な事例において存在し、正義の感情に特有の激しさの源泉となっている、危害や侵害とのはっきりとした結びつきをもっていない。しかし、この結びつきは明白でないけれども実在していないわけではない。恩恵を受けながら、必要とされているときにその恩恵に対して返礼をすることを拒否する人は、もっとも自然で理にかなっている期待のうちの一つを裏切ることによって、そしてその人が少なくとも暗黙的には抱くように仕向け、それがなければ恩恵がもたらされることはまずなかったと思われるような期待を裏切ることによって、実際に危害を与えている。人による害悪や不正のなかで期待を裏切ることが重要な地位を占めていることは、それが友情に背いたり約束を破ったりするという二つのきわめて不道徳な行為の主要な違反要件になっているという事実に示されている。習慣的に、また十分に確信して信頼しているものに必要としているときに裏切られることほど、人が受けうる危害が重大なものはほとんどないし、これ以上の大きな危害を受けるものはない。このように善を与えないだけのことであるが、これ以上に重大な不正はほとんどないし、これ以上に被害を受けた人や共感を抱いている傍観者に憤りを感じさせるものはない。したがって、各人にふさわしいものを与える、つまり悪には悪を与えるとともに善には善を与えるという原則は、私たちが定義した正義の観念に含まれているだけでなく、人を評価する際に正義を単なる便宜性よりも重視させる、あの激しい感情の適切な対象にもなる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.340-343,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:善には善を,正義の原理,合理的な期待,恩恵に対する返礼)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月18日日曜日

正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義と、便宜や機略

【正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2)正義の原理
  「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (2.1)行為の規則
  (a)行為の規則は、全ての人に共通である。
   カントの道徳の根本原理「その行為の規則が、すべての理性的存在によって法として採用されるように行為せよ」も、同じことを主張している。
  (b)行為の規則は、全ての人にとっての善を目的としたものである。
   仮に、規則が「行為者の善のみを目的とせよ」という完全に利己的なものであったとしたら、この規則は、すべての理性的存在によって採用されるという要請とは矛盾するだろう。
  (c)自分自身や、自分が共感している人びとに限定されることなく、全ての人びとに広げられている。
 (2.2)行為の規則を是認する感情
  (a)行為の規則を犯した人に、処罰を与えてよいという欲求がある。
  (b)行為の規則に違反することによって、被害を被る特定の人がいるという認識を伴う。
  (c)仮に、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害であっても、まず、全ての人にとっての善という目的に適っているかどうかが判断される。
  (d)逆、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害がない場合でも、社会全体に対する危害に対して憤慨の感情が生じる。
 (2.3)「権利」とは何か。
  (a)自分か他者かは問わず、自分が共感している人びとか否かを問わず、行為の規則を犯した人によって加えられた被害に対して、規則を犯した人を処罰し、被害者を救済することが、社会に対して正当に請求できるとき、被害者は「権利」を保持しており、その権利を侵害されていると表現する。
  (b)仮に、何らかの原因により特定の人が被害を被っていても、社会がその人に何の措置も講じる必要はなく、彼を運命や自らの努力に委ねるべきであるということが認められれば、彼に「権利」はない。

 (2.4)正義と便宜や機略の間には、本質的な違いがある。
   「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)強い拘束性
  「全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則」という性格が、正義に、便宜や機略を超える神聖性と強い拘束力を与えている。従って、正義が満足されてからはじめて、便宜や機略は傾聴されるべきである。
  (b)互いに危害を与えることの禁止
   正義は、人類が互いに危害を与えることを禁じる規則を含んでいるが、この規則は、人生の指針となる他のあらゆる規則よりも、人間の福利にとって不可欠なものである。
   (b.1)直接的で不当な侵害行為
   (b.2)自由への不当な干渉
   (b.3)自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて人が見込んでいる何らかの善を、その人に与えないこと
  (c)危害を受けることへの恐れ
   人は、他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。
  (d)規則を互いに認識することの利益
   正義の規則は、他の人に互いに教えあい、認識させることが必要で、明白な利益がある規則であると、最も強く感じられている規則である。
  (e)違反の影響の大きさ
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、もし正義の規則が遵守されることがないならば、各人が他の全ての人を敵とみなして、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。
  (f)報復の感情を伴う
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、悪には悪をという報復の感情が、正義の感情と結びつくようになる。この感情は、自己を守るという衝動、他の人を守るという衝動、復讐の衝動を基礎に持つと思われる。

 「正義と便宜の間の違いは想像上の区別にすぎないのだろうか。正義は機略(policy)よりも神聖なものであり、正義が満足されてからはじめて機略は傾聴されるべきであると考えたのは、妄想にとりつかれていたということなのだろうか。けっしてそうではない。私たちが正義の感情の性質や起源についておこなった説明によって真の区別がはっきりと示されている。行為の帰結をその道徳性の一要素とすることにひどい軽蔑を示す人のなかに、私以上にこの区別を重要視している人はいない。私は功利性に基礎づけられていない空想的な正義の基準を打ち立てているあらゆる理論の主張に対して異議を唱えるが、功利性に基礎づけられた正義があらゆる道徳の主要部分であり、飛びぬけて神聖で拘束力の強い部分であるとみなしている。正義とはある種の道徳規則に対する名称であり、それは人生の指針となる他のあらゆる規則よりも人間の福利にとって不可欠なものにより緊密に関わるものであり、それゆえにより絶対的な拘束力をもっている。私たちが正義の観念にとって本質的であるとみなした考え、つまり個人に属している権利という観念は、このより強い拘束力をもった責務を含意し、それを立証しているのである。
 人類が互いに危害を与えることを禁じている道徳規則(互いの自由への不当な干渉を禁じることがこのなかに含まれていることを忘れてはいけない)は、人間の福利にとって他のあらゆる格率よりも重要であり、他の格率はどれほど大切だとしても、人間事象のいくつかの部門をうまく扱うための最良の方法を明らかにしているにすぎない。これらの道徳規則は人類の社会的感情の全体を左右する主要な要因であるという特性ももっている。人類がこれらの規則を遵守することによってのみ、人々の間で平和が保たれる。もしこれらを遵守することが決まりごとではなく、遵守違反が例外的ではないとしたら、各人が他のすべての人を敵とみなし、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。同じように重要なのは、これらの規則は、人類が他の人に対してこれらを認識させることにもっとも強く直接的な誘因をもった指針であるということである。人々は慎重に指針や勧告を互いに与え合うだけでは、何も得ないか、何も得ないだろうと考える。人々は積極的な善行の務めを互いに教えあうことに明白な利益を持っているが、その程度はきわめて小さい。人は他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。このように、他者から直接的に危害を被るにせよ、自らの善を追求する自由を妨げられることによって被る危害にせよ、他者から危害を受けないように個々人を保護している道徳は、人がもっとも心から気にかけているものであると同時に、言葉や行動によって示し実行することにもっとも強い関心を抱いているものでもある。この道徳を遵守するかどうかによって、人は人類という共同体の一員として生きていくのがふさわしいかどうかが試され判断される。というのは、人が関係をもつ人にとって厄介者になるかそうならないかはこのこと次第だからである。だから、正義の責務を構成しているのは主としてこれらの道徳である。もっとも際立った不正義の事例であり、この感情を特徴づけている反感の論調を決めている事例は、人に対する不当な侵害行為や不当な権力の行使である。これに続く事例は、人が受け取るべきものをその人に不当に与えないでおくことである。どちらの事例においても、直接的な苦痛という形によるか、自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて人が見込んでいる何らかの善をその人に与えないという形によるかして、積極的な危害が人に対して加えられている。
 これらの主要な道徳を指令するのと同じような強い動機が、これらに違反した人を処罰することを要求する。そして、それらの動機はすべて、自己を守るという衝動や他の人を守るという衝動、復讐の衝動として違反者に向けて呼びおこされるので、悪には悪をという報復は正義の感情と強く結びつくようになり、正義の観念のなかに一般的に含まれるようになる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.337-340,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:正義,便宜や機略,正義の拘束性,危害,報復の感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月8日木曜日

正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義の原理

【正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】


(3)事例。
 (3.1)個人の自由と正当防衛
  (a)個人の自由
   問題になっているのが、その人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰も持っていない。したがって、たとえその人の「ためになる」と思われることでも、介入することは不正義ではないか。
  (b)正当防衛
   個人の自由があるといっても、他の人に害悪が及ぶ場合には、それを防止するために介入することは、正義である。なぜなら、自分自身に害悪が及ぶ場合に、いかなる人も自分自身を守ることは、正当なことだからである。
  (c)個人の自由の限界は、どこにあるのか。ある人の自由な行為の結果が社会に及ぶ場合、影響のうちどの範囲のものが、他の人に及ぼされる害悪と言えるのか。さらに、害悪があるとしても、その害悪を防止するために自由を制限する限界はどこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)責任の原理、決定論と意志の自由
  (a)責任の原理
   本人がどうしようもできないことに関して、その人を罰することは不正義である。
  (b)決定論
   教育や環境によって性格が作り出されたとしたら、犯罪者にはどこまで責任があるのだろうか。
  (c)意志の自由
   人には意志の自由がある。したがって、徹底的に憎むべきような意志を持った人は、仮に教育や環境の影響があるにしても、自らの意志に責任を負わなければならない。
  (d)これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.3)同意あれば危害無しか、社会契約か
  (a)同意あれば危害無しの原則
   他の人の利益になるからといって、ある一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに犠牲にするということは、不正義である。
  (b)社会契約の擬制
   人間というものは、社会の構成員全員が、自分たちの利益や社会全体の利益のために、法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられるという契約をしているものだと考える。
  (c)本人の意志、同意によって決め得る正義の範囲の限界は、どこにあるのか。本人の意志に関わらず、正当なものとされる正義の限界は、どこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「私たちは、功利性は不確実な基準であって、すべての人が異なった仕方でそれを解釈しているし、それ自体が根拠をもっていて世論の揺らぎとは無関係な正義による不変で不滅で明白な指令以外に確実なものはないと絶えず告げられる。ここから、正義に関する問題については論争の余地がなく、正義を規則とみなせば、どのような事例に適用しても数学の証明のようにほとんど疑問の余地がなくなると思うかもしれない。このことは事実から遠く離れており、何が正しいのかについては、何が社会にとって有用なのかについてと同じように、多くの見解の相違や多くの議論がある。異なった国民や個人は異なった正義の観念をもっているだけでなく、同一の個人の心のなかでさえ、正義は何らかの単一の規則、原理、格率ではなく、多くのものからなっており、それらの指令はつねに一致するとはかぎらないし、それらの中から選び取るときには、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれるのである。
 たとえば、他の人への見せしめのために人を処罰することは不正義であり、処罰はそれを受ける人の善を目的としているときにのみ正義にかなっていると言う人がいる。まったく反対のことを言って、その人の利益のためといって分別ある年齢に達している人を罰するのは、問題になっているのがその人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰ももっていないのだから、横暴で不正義であるが、他の人に害悪が及ぶのを防止するためには、これは自己防衛という正当な権利の行使であるから、正当に罰を与えることができると主張する人もいる。また、オウエン氏は、犯罪者が自らの性格を作り出したのではなく、教育や取り囲んでいた環境が人を犯罪者にしたのであり、それらについてその人は責任がないのだから、処罰はとにかく不正義であると主張している。これらの見解はすべて非常にもっともらしいし、この問題が単に正義に関するものの一つとして論じられ、正義の根底にありその権威の源泉となっている原理にまで掘り下げられることがないならば、どのようにしてこれらの論者を論破することができるかは私にはわからない。というのは、実際にこれらの三つの主張はいずれも明らかに真の正義の規則に立脚しているからである。第一のものは、一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに他の人の利益のためにその人を犠牲にするという広く認められている不正義に訴えている。第二のものは、自己防衛という広く認められている正義と、人が自分の善は何であるかということについて他の人に従うように強要されるという一般に認められた不正義に訴えている。オウエン主義者は、本人がどうしようもできないことに関して人を罰することは不正義であるという一般に認められた原理を持ち出している。自らが選んだもの以外の正義の格率も考慮しなければならないようにならないかぎりは、いずれの論者も得意げにしている。しかし、それらの複数の格率がつき合わされると、それぞれの論者は、他の論者とまったく同じ程度の自己弁護論を並べ立てるだけのように思われる。彼らのうち誰も、同じような拘束力をもっている他の正義の観念を踏みにじることなく、自らの正義の観念を押し通すことはできない。これらが難点であり、これまでずっとそのように思われてきた。そして、それらを克服するというより避けるために多くの工夫が考案されてきた。三つのうち最後のものからの逃げ込み場として、人々は意志の自由と呼ぶものを考え出し、徹底的に憎むべきような意志をもった人を罰することは、そのような状態になったのはそれまでの環境の影響によるものではないと思われないかぎり、正当化することはできないと考えている。その他の難問から逃れるために都合のよい工夫は契約という擬制であり、それによって、いつのことか分かっていないある時代に社会の全構成員が法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられることに同意し、その結果として、彼らを自分たちの利益あるいは社会の利益のために罰するという、このようなことをしなければ手にすることができなかったような権利を彼らの立法者に与えたとされる。この巧妙な考えは難点を全面的に取り除くものと考えられ、危害を被ると思われる人の同意を得てなされることは不正義ではないということを意味する「同意あれば危害なし(Volenti non fit injuria)」という、もう一つの一般に認められている正義の格率に基づいて処罰を与えることを正当化するものと考えられた。この同意が単なる擬制ではないとしても、この格率はそれが取って代ろうとした他の格率よりも優越した権威をもっていないということを指摘する必要はほとんどない。むしろ、この格率は正義の原理というものがいい加減でいびつな仕方でできあがってくることを示している教訓的な実例である。この特殊な格率は法廷での急場しのぎの一助として使われるようになったものであり、法廷は、詳細に検討しようとするとより大きな害悪がしばしば生じてくるだろうという理由から、時にはきわめて不確実な推論で納得せざるをえない。しかし、法廷でさえこの格率をつねに遵守できてはいない。というのは、詐欺を理由として、あるいは時にはほんの些細な誤解や誤認を理由として、法廷は自発的な契約を無効にすることを認めているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.331-334,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:正義の原理,個人の自由,正当防衛,責任の原理,決定論,意志の自由,同意あれば危害無し,社会契約)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月4日日曜日

「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義の原理と権利

【「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)報復の原理
 (1.1)行為の規則
  (a)行為の規則は、自分自身や、自分が共感している人びとのものである。
  (b)行為の規則は、自分が共感している人びとにとっての善を目的としたものである。
 (1.2)行為の規則を是認する感情
   憤慨の感情、報復や復讐の感情
   自分自身や、自分が共感している人に対する危害や損害にたいして、反撃したり報復したりしたいという動物的欲求に由来する。
(2)正義の原理
 (2.1)行為の規則
  (a)行為の規則は、全ての人に共通である。
   カントの道徳の根本原理「その行為の規則が、すべての理性的存在によって法として採用されるように行為せよ」も、同じことを主張している。
  (b)行為の規則は、全ての人にとっての善を目的としたものである。
   仮に、規則が「行為者の善のみを目的とせよ」という完全に利己的なものであったとしたら、この規則は、すべての理性的存在によって採用されるという要請とは矛盾するだろう。
  (c)自分自身や、自分が共感している人びとに限定されることなく、全ての人びとに広げられている。
 (2.2)行為の規則を是認する感情
  (a)行為の規則を犯した人に、処罰を与えてよいという欲求がある。
  (b)行為の規則に違反することによって、被害を被る特定の人がいるという認識を伴う。
  (c)仮に、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害であっても、まず、全ての人にとっての善という目的に適っているかどうかが判断される。
  (d)逆、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害がない場合でも、社会全体に対する危害に対して憤慨の感情が生じる。
 (2.3)「権利」とは何か。
  (a)自分か他者かは問わず、自分が共感している人びとか否かを問わず、行為の規則を犯した人によって加えられた被害に対して、規則を犯した人を処罰し、被害者を救済することが、社会に対して正当に請求できるとき、被害者は「権利」を保持しており、その権利を侵害されていると表現する。
  (b)仮に、何らかの原因により特定の人が被害を被っていても、社会がその人に何の措置も講じる必要はなく、彼を運命や自らの努力に委ねるべきであるということが認められれば、彼に「権利」はない。

 「正義の感情は処罰したいという欲求を作り上げている要素の一つであるという点からして、そのような被害、つまり社会を通じて、あるいは社会全体とともに、私たちを傷つけるような危害に対して適用される、知性と共感によって起こる報復や復讐という自然な感情であるように思われる。この感情はそれ自体としては道徳的なものを一切含んではいない。道徳的なのは、この感情が社会的共感の求めるところに付随し従うようになるくらい完全にその下位に置かれることである。というのは、私たちは誰かに不愉快なことをされると、それがどのようなことであっても、自然な感情によって見境なく憤慨するだろうが、社会的感情によって道徳化されている場合には、自然な感情は全体の善と一致するような方向にしか作用しないからである。正義にかなっている人々は自らに対するものではなくても社会に対する危害に憤慨するが、自らに対する危害に対しては、それを制圧することが社会の共通の利益になるようなものでないかぎりは、それがどれほど苦痛なものであっても憤慨しない。
 私たちの正義の感情が踏みにじられたと感じるとき、私たちは社会全体のことや社会全体の集合的利益のことを考えていないし、個人的なことしか考えていないと述べても、この理論に対する反論にはならない。たしかに、自分が苦痛を被るという理由だけから憤慨の感情を抱くことはまったく一般的なことである。しかし、憤慨が本当に道徳的感情であるような人、つまりある行為に憤慨する前にそれが非難されるべきものなのかを考える人――このような人は、自分が社会の利益のために行動しているとははっきりとは自認していないかもしれないが、自分自身の利益のためだけでなく他者の利益のためにもなる規則を主張しているということをたしかに感じている。もしその人がこのことを感じていないとしたら――その行為が自分一人にだけ影響を与えるものと考えているとしたら――彼は自覚的に正義にかなおうとしていないことになる。その人は自らの行為が正義にかなっているかに関心を持っていないのである。このことは反功利主義的道徳論者によっても認められている。カントは(先に指摘したように)道徳の根本原理として「その行為の規則がすべての理性的存在によって法として採用されるように行為せよ」というものを提案したとき、行為の道徳性を入念に確定するためには、人類の利益が集合的に、あるいは少なくとも人々の利益が差別されることなく、行為者の念頭におかれていなければならないということを事実上認めていた。そうでなければ、彼は無意味な言葉を用いていたことになる。というのは、完全に利己的な規則がすべての理性的存在によっては《おそらく》採用されえないということ――これを採用することを阻む超えることのできない障壁が事物の本性には存在しているということ――を説得力をもって主張できないからである。カントの原理に何らかの意味をもたせるには、次のような意味が与えられなければならない。すなわち、私たちはすべての理性的存在が採用するであろう規則と《それらの存在の集合的利益への便益》を勘案して自らの行為を決定しなければならない。
 要約すると、正義の観念は行為の規則とその規則を是認する感情という二つのことを想定している。前者は全人類に共通し全人類の善を目的としていると思われるものでなければならない。後者(感情)は規則を犯した人に処罰を与えてよいという欲求である。さらに、規則を違反することによって被害を被る特定の人、規則を違反することによって権利を(この場合に適切な表現を使えば)侵害される人がいるという考えも含まれている。自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害にたいして反撃したり報復したりしたいという動物的欲求が、深められた共感能力と理にかなった自己利益という人間にふさわしい考え方によってすべての人間を対象とするように広げられているものが正義の感情であるように私には思える。
 私はここまでずっと、危害を受けた人に属している危害によって侵害された権利という観念を、正義の観念や感情を構成している個別の要素としてではなく、他の二つの要素が形を取って現れるときの一つの形態として扱ってきた。二つの要素とは、一つは特定可能な一人あるいは複数の人に対する危害というものであり、もう一つは処罰の要求である。自分たち自身の精神を吟味してみると、私たちが権利の侵害について語るときに意味しているのはこれら二つのことに尽きるということが分かると思う。私たちが何らかのものを人の権利と呼ぶとき、私たちが意味しているのは、人がその所有しているものを法律の力あるいは教育や世論の力によって保護してもらうことを社会に対して正当に請求できるということである。どのような理由であっても、社会によって保護されるべきものをもっているということに関して、その人が十分な主張だと私たちがみなすものをもっているとしたら、私たちはその人はそれに対する権利をもっていると述べる。あるものが権利として人に属していないことを明らかにしたいと望むなら、社会がそれをその人に保障するために何の措置も講じる必要はなく、彼を運命や自らの努力に委ねるべきであるということが認められさえすればよい。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.326-329,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:正義の原理,権利,憤慨の感情,報復や復讐の感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年8月1日木曜日

一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的な原則の特徴

【一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

一般の行動規則、道徳的な原則、正義の原則の違い。
 (1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
 (2)道徳的な原則:個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
  (2.1)在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則も、在る法を批判する根拠の一つである。
  (2.2)道徳的な原則は、次の4つの特徴を持つ。
   (a)重要性
   (b)意図的な変更を受けないこと
   (c)道徳的犯罪の自発的な性格
   (d)道徳的圧力の形態
 (3)正義の原則:個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
 (4)法:実際に在る法

 「正義というのは、個人の行動にではなく、さまざまな《部類》の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。このことによって、正義は法や他の公的ないしは社会的制度を批判するさい、特別な重要性をもつのである。それは徳のうちでもっとも公的なそしてもっとも法的なものである。しかし正義の原則は道徳の観念をすべて含んではいない。だから、道徳的な基礎からなされる法についてのすべての批判が、正義の名においてなされるわけではない。ある法は道徳的には個人がしてはいけないとされる行動を求めているという単にそれだけの理由によって、あるいは、道徳的には義務的である行動を差し控えるよう求めているという理由で、そのような法は道徳的に悪であると非難されるかもしれない。
 それゆえ、道徳に属しそして行為を道徳的に義務づけるような、個人の行為に関する、これらの原則 principles、ルール、基準 standards を、一般的な用語で特徴づけることが必要である。ここで、われわれは二つの関連した困難に直面する。まず第一に、「道徳」という言葉、および「倫理」というようにそれと関連しあるいはほとんど同義の他のすべての用語は、それ自身かなりの曖昧な部分や「開かれた構造」をもつのである。ある人は道徳と分類するだろうが、他の人はそうしないような一定の形態の原則やルールがある。第二に、以上の点に関して合意が存在し、一定のルールや原則が疑いもなく道徳に属するものとして受けいれられているところにおいてさえ、それらの《地位》、つまりそれが人間の他の知識や経験に対してどのような関係にあるのかについて、大きな哲学的な不一致がまだ存在するかもしれない。それらは人間によってつくられたのではなく、人間の知性によって発見されるのを待っている宇宙の構造の一部を形成する不変の原則なのであろうか。それとも、それらは変化する人間の態度、選択、要求、感情の表現なのであろうか。これらは道徳哲学における二つの極端をぞんざいに方式化したものである。それら両極端の間に、多くの複雑で微妙な変形が存在するのであり、哲学者たちはそれらを道徳の性質を解明するため努力するなかで発展させたのである。
 これから後において、われわれはこれらの哲学的な困難さを取り除こうとするのである。われわれは、後に「重要性」、「意図的な変更を受けないこと」、「道徳的犯罪の自発的な性格」、「道徳的圧力の形態」という見出しの下で、4つの基本的な特徴を確認するのであるが、それらの特徴は、もっとも一般的に「道徳」とみなされている行動に関する原則、ルール、基準のなかに常に一緒に見い出されるのである。 これらの4つの特徴は、そのような基準が社会生活や個々人の生活において演じている特徴的で重要な機能のさまざまな側面を反映している。このことによってのみ、これら4つの特徴をもつものをすべて、別々の考慮のために、なかんずく法との対比および比較のために、区分することは正当化されるだろう。さらに道徳がこれらの4つの特徴をもつという主張は、その《地位》や「基本的」性格について対立する哲学理論にはかかわらないのである。たしかに、すべてとは言わないまでもほとんどの哲学者は、これら4つの特徴がすべての道徳的ルールや原則に必要であることに同意するであろう。もっともその場合、彼らは道徳がそれらの特徴をもつという事実については非常に異なった解釈や説明をするだろう。これらの特徴は、道徳と、もっと厳密なテストによれば道徳から除外されるような、行動に関する一定のルールや原則とを区別するのに必要であるだろうけれども、《ただ》必要であるだけであって、十分ではないとして反論されるかもしれない。われわれは、そのような反論が基礎としている事実には言及するだろうが、われわれは広い意味での「道徳」を支持する。そうするのが正しいと考えるのは、多くの慣用法と一致するからであり、またこの広い意味でのこの言葉があらわすものは社会生活および個人生活において重要で明白な機能を演じているからである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,pp.183-184,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:道徳的な原則の特徴,行動規則,正義の原則)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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