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2024年3月17日日曜日

14. 真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)


真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)


 「組織が公的生活を生み出すものでないことは、ますます多くのひとびとが、しかもますます募る苦悩をもって感じ取っている。

これが、何とかして活路を見いだそうとする切実な時代的要求の出発点である。

感情が個人生活を生み出すものではないということはしかし、ごく少数のひとびとしか、まだ理解していない。むしろ、ここにこそもっとも個人的なものがやどっているようにみえるわけである。

そして、近代人はおおむねそうなのだが、やたらに自分自身の感情と関わりあうようになって、そのあげく、感情の非現実性に絶望しても、ひとびとはその絶望によってすら容易には蒙をひらかれることがない。なぜなら、絶望もまたひとつの感情、興味ぶかい対象だからである。 

 組織が公的生活を生み出すものでないということに苦しむひとびとは、ひとつの解決手段を思いついた、……すなわち、それを他ならぬ感情によって、ゆるめたり、溶かすなり、うち破るなりせねばならないというのだ。組織のなかへ《感情の自由》をみちびきいれることによって、まさに感情の面からそれを革新せねばならないというわけである。

たとえば、国家が自動機械じみたものに化されてしまって、たがいに心の触れあいのない市民をただともかく繋ぎあわせているにすぎず、彼らのあいだに何らの共同的なつながりをもうち立てたり推し進めたりしていないからには、このような国家は愛の共同体(Liebengemeinde)によって取りかえられるべきだというのが、このひとびとの考えなのだ。

そして愛の共同体とは、民衆が自由な、熱烈な感情にうながされて集いあい、たがいに生活を共にしようと欲するときにこそ成り立つというのである。

だが、事実はそうではない。真の共同体(Gemeinde)とは、ひとびとがたがいにあたたかな感情をもちあうことによって成り立つのではない(むろんこのことなしには成り立たないとはいえ)。

真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立するのである。


この後者は前者から生ずるのであるが、しかしこれが前者とともにのみ存在したためしはまだない。共同体は生ける相互関係をもとにして築きあげられる、しかし、その建築師はあの生きて働きかけてくる中心なのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.60-61、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話







2024年2月3日土曜日

13.組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)


組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)




「経験と利用の機能の向上は、たいていの場合、人間の関係能力の低下と引きかえに起こる。

 精神を自分のための享受手段に仕立てあげてしまった人間……このような人間は、自分のまわりに生きている存在といったいどのように関わりあうのであろうか?

 このような人間は、《我》と《それ》とを相いへだてる分離の根元語のもとに立って、《共に在る人間》(Mitmensch)との共同生活を判然と区画された二つの管区に、つまり組織と感情とに、《それ》の管区(Es-Revier)と《我》の管区(Ich-Revier)とに分割してしまうのである。 

 組織とは《外部》のことであって、ここでは
ひとは、ありとあらゆる目的事にかかずりあっている。労働し、取り引きし、影響をおよぼし、企業し、競争し、編成し、経営し、執務し、説教することによって。この《外部》とはいちおう秩序づけられた、また、いささか調和もとれている機構であって、そこではさまざまな要件が、人智と構成人員との多様な参与によって推進されているのである。 

 感情とは、ひとがそこで自分だけの生活をいとなみ、組織の束縛からはなれて休養するところの《内部》のことである。ここでは情緒のスペクトルが興味ぶかく眺める眼のまえで揺れ動き、愛好や、憎悪や、快楽や、そして、それがひどすぎるものでなければ、悲しみすらも享受されるのだ。ここではひとはくつろいで、そして揺り椅子のなかで身を伸ばすのである。 

 組織は厄介の多い集会場であり、感情は変化にみちた古城の私室である。 

 むろんこの両者の境界はたえずおびやかされている。なぜなら、気まぐれな感情は時としては、いかに即物的な組織のなかへも闖入するからだ。しかし、いささかそのつもりになれば、この境界はふたたびきちんと画されるのである。

 いわゆる個人生活の諸領域の内部でこのような境界を確実に画することは、もっとも困難である。たとえば結婚生活においては、これはそう簡単にはおこなわれないことがある。だが、ここにもやはりその種の境界は存在しているのだ。

いわゆる公的生活の諸領域においては、その種の境界はきっぱりと画されている、たとえば、諸政党や、あるいはまた、超党派性を標榜する諸団体の年間の明け暮れや《活動》をながめてみるがよい、ここでは天を衝くばかりのはげしいやりとりが交わされる会合と、そして――機械的に一様な、といってもあるいは有機的にだらけた、といっても同じことだが――地を這うような実務とが、見事に分離しているのである。

 だが、組織の場における分離された《それ》は、一種のゴーレムであり、感情の場における分離された《我》は、飛びさまよう一種の魂の鳥である。 

この両者とも、真の人間というものを知らないのだ。前者はただ規範を、後者はただ《対象物》を知っているにすぎず、いずれも人格たる人間を、共同性を知らない。いずれも現在を知らないのである。
 
組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》(das Nochnichtsein)を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。組織は公的生活を生み出さず、感情は個人生活を生み出さないのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.58-60、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話








2020年5月19日火曜日

12.幼児は,関係への努力という根源的欲求を持っている.それは万象を身体との関係事象,生きて働きかけてくる向かい合う汝として引き入れようとする衝動であり,ときに,自らの充溢によって触れ合う相手を夢想する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

関係への努力という根源的欲求

【幼児は,関係への努力という根源的欲求を持っている.それは万象を身体との関係事象,生きて働きかけてくる向かい合う汝として引き入れようとする衝動であり,ときに,自らの充溢によって触れ合う相手を夢想する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

 「関係への努力という根源的欲求は、もっと幼い、もっともおぼろげな生成段階においてもすでにあらわれる。

まだ個別のものが知覚され得る以前に、幼児の視力に乏しいまなざしは、模糊たる空間のなかへ注がれ、ある定かならぬものに向けられる。そして乳を欲しがっていないようなときには、やわらかな両手を、見たところはあてもなく空中にさし出し、ある定かならぬものをさがし求め、つかみ取ろうとする。

これを動物的と言いたければ、そう言うがよい、しかし、それでは何も理解したことにならない。

なぜなら、まさに幼児のこのまなざしは、長い練習のあげくに、ひとたびじっと赤い絨毯のアラベスクのうえにとどまると、赤という色の魂がそのまなざしの前にすがたをひらくまでは、もうそこからそらされないだろうからだ。

また、幼児のこの手の動きは、毛のふさふさとした玩具の熊に触れることによって、自己の感覚形式を明確に獲得し、ひとつの完全な体をそなえたものをいとおしく、忘れがたく感知するようになるだろうからだ。

これらはいずれも対象物の経験というようなことではなくて、ひとつの――むろんただ《夢想》のうちにおいてだが――生きてはたらきかけてくる相手との触れあいなのである。

(ここで《夢想》というのはしかし、決して《万物霊有化》(Allbeseelung)ではなく、万象を自己の《汝》としようとする衝動、万象との関係をもとめる衝動であり、この衝動は、実際に生きてはたらきかけてくる相手が面前にはなく、ただその模写や象徴物しかない場合には、みずからの充溢によって、その生きたはたらきかけの欠如を補ってしまうのだ。)

いまはまだ、ちいさな、不明瞭な声が、意味をなさぬままに、根気よく無のなかへと響いている。だが、まさにその声がいつの日か、ふいに対話へと変わっていることであろう。いったい何との? 恐らくはぐらぐらと沸きたっている湯わかしとの。だが、やはりその声は対話となっているのだ。

反射行為といわれている数かずの運動は、実は人格という世界が構築されるときの、しっかりとした漆喰鏝なのである。

幼児は決して、最初にある対象を知覚し、それから自己をその対象と関係させたりするのではない。最初にあるのは、関係への努力だ、向かいあう存在がそのなかへ引きいれられる、あのふっくらとした手だ。

そして第二に起こるのが、向かいあう存在との関係、《汝を言うこと》(Dusagen)の言葉なき前形態なのだ。

《汝》が《もの》となることなどは、しかし、もっと後になってからの所産で、――《我》の成立にしてもそうであるように――根源的関係体験の分裂、つまり、結合しあっていた相手との分離から生ずるのである。

はじめには関係があるのだ。存在のカテゴリーとして、準備として、把握の形式として、魂の鋳型として。はじめには関係のアプリオリが、《生得の汝》(das eingeborene Du)があるのだ。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.37-39、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:関係への努力)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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2020年5月5日火曜日

11.生存と認識にとって最重要なものが、身体との関係事象として最初に現われる。次に対象が出現するが、道具や玩具の事物に向き合うのは全体としての身体である。最後に、関係事象から我が客体化され分離する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

我の意識の起源

【生存と認識にとって最重要なものが、身体との関係事象として最初に現われる。次に対象が出現するが、道具や玩具の事物に向き合うのは全体としての身体である。最後に、関係事象から我が客体化され分離する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

我の意識の起源
(1)関係事象、作用しかけてくるもの
  向かいあう存在がありありと体感され、ただ全身で受けとめられる関係事象が、最初に存在する。次に、関係における作用の担い手が対象化される。神秘的威力を持った、月、太陽、野獣、酋長、シャーマン、死者たち。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
 (a)生存本能にとってもっとも重要なもの、認識本能にとってもっとも顕著なものである、作用しかけてくるものが、最も強く前面に現われ、独立する。
 (b)生殖によって自己を保存しようとするのは、我ではなくて、我というものをまだ知らぬ身体である。
(2)対象の出現
 (a)重要ではないものは、後方に退き、徐々に対象化され、そして少しずつ相い集まってきわめて徐々に群や類をなしてゆく。
 (b)道具や玩具などの事物をつくろうとし、その創始者であろうとするのも、我ではなくて、まだ分たれぬ全体としての身体である。
(3)互いに作用しつつある我と汝の関係事象から我が客体化され分離する
 我は原初的体感の分裂によって浮びあがり、また、我に作用しつつある汝、汝に作用しつつある我という生命にみちた始原語の分裂によって、つまり、この作用しつつあるという分詞が名詞化され、客体化されてから、はじめて単独な要素として浮びあがってくるのである。

 「記憶は訓練されることによって、さまざまな重大な関係事件や根元的な震撼などを分類しはじめるが、そのときもっとも強度に前面にあらわれ、きわだち、ひとり立ちするのは、生存本能にとってもっとも重要なものや、認識本能にとってもっとも顕著なもの、ほかでもなくあの《作用しかけてくるもの》である。

一方、さまざまな体験のうちでも、たいして重要ではないもの、共通の事件ではなかったもの、次々と交代する《汝》は、後方にしりぞき、記憶のなかに離ればなれに残り、徐々に対象化し、そしてすこしずつ相い集まってきわめて徐々に群や類をなしてゆく。

そして第三のものとして、分離された場合には怖るべきものとなり、死者や月よりも時としては妖怪めいて、しかし次第にまがうことなく明らかに現れてくるのだ、もうひとつのものが、《つねに同一である》伴侶が、――《我》が。

 《自己》保存本能や、その他の諸本能の原初的な活動には、《我の意識》は付随していない。

本能がまだ自然のままに活動している段階では、生殖によって自己を保存しようとするのは《我》ではなくて、《我》というものをまだ知らぬ身体である。

そこでは道具や玩具などの事物をつくろうとし、その《創始者》(Urheber)であろうとするのも《我》ではなくて、まだ分たれぬ全体としての身体なのである。

また原始的な認識機能のなかには《われ識る、ゆえにわれあり》(Cognosco ergo sum)はいかに素朴なかたちにおいても見出されない。

およそ経験主体に関する擬人化はいかに子供っぽいかたちでもここには見出されない。

《我》は原初的体感の分裂によって浮びあがり、また、《我に作用しつつある汝》(Ich-wirkend-Du)、《汝に作用しつつある我》(Du-wirkend-Ich)という生命にみちた始原語の分裂によって、つまり、この《作用しつつある》という分詞が名詞化され、客体化されてから、はじめて単独な要素として浮びあがってくるのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.30-31、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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2020年4月30日木曜日

10.実在的なるもの、真実の現在は、現前しているもの、出会い、関係が存在する限りにおいてのみ存在する。人間は、自分が経験し利用している事物にのみ満足している限りは、過去のうちに生きている。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

真実の現在

【実在的なるもの、真実の現在は、現前しているもの、出会い、関係が存在する限りにおいてのみ存在する。人間は、自分が経験し利用している事物にのみ満足している限りは、過去のうちに生きている。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

 「現在、といってもそれは、たんに思惟のうちでそのときどきに措定される《これまでに経過した》時間の末端を、つまり、見せかけのうえでだけ固定された時の経過を表示するひとつの《点》のようなものではない。

真実の、そして充実した現在は、現前しているものが、出会いが、関係が存在するかぎりにおいてのみ存在するのだ。《汝》が現前するという、そのことによってのみ現在は生ずるのである。

 根元語・《我-それ》における《我》、すなわちひとつの《汝》に対して生身の存在として向いあってはいない《我》、多様な内容(Inhalten)によって取りかこまれている《我》には過去があるだけで、現在はない。
言いかえれば、人間は自分が経験し利用している事物にのみ満足しているかぎりは、過去のうちに生きているのであって、彼の瞬間は現在なき瞬間なのだ。

彼は対象物以外の何ものをも有していない。対象物なるものはしかし、既往(Gewesensein)のうちに存在しているのだ。

 現在とは、一時的なもの、滑り去ってゆくものではなく、《現前的に待っているもの》にして《現前的に存続しているもの》である。

対象物とはしかし、持続ではなく、静止であり、停止(Innehalten)であり、中断、硬直、分立であり、関係の欠如、現在の欠如である。

 実在的なるもの(Wesenheiten)は現在のうちで生きられるが、対象的なるもの(Gegenständlichkeiten)は過去のうちで生きられるのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.19-20、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:真実の現在,現前,出会い,関係)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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2019年4月5日金曜日

9.あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。関係は、印象、想像物、情緒ではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

出会い

【あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。関係は、印象、想像物、情緒ではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。
 (a)関係の成立:我-汝の関係が成立しているとき、私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。
 (b)捉えられた汝は、印象のように部分的な対象ではない。汝の存在の全体が捉えられている。
 (c)捉えられた汝は、私の恣意的な想像物ではない。私という存在の全体が、汝を捉えている。
 (d)私に引き起こされた情緒によって、汝に捉えられているのではない。
 (e)関係の受動性:関係は、探し求めても、見い出されない。私が汝と出会うのは、汝が私に向い寄って来るからである。
 (f)関係の能動性:汝との直接的な関係のなかへ歩み入るのは、私の存在の全体をかけた行為である。

 「私が《汝》と出会うのは恩寵によってである、――探しもとめることによっては《汝》は見いだされない。

しかし私が《汝》にむかってあの根元語を語りかけることは、私の存在そのものの行為、私の本質的行為である。

 私が《汝》と出会うのは、《汝》が私に向いよってくるからである。だが、《汝》との直接的な関係のなかへ歩みいるのはこの私の行為である。

このように、関係とは《選ばれること》であると同時に《選ぶこと》であり、受動(Passion)であると同時に能動(Aktion)である。

なぜなら、およそ存在の全体をかけた能動的行為においては、あらゆる部分的行為は止揚され、したがって――たんに部分的行為の限界に根ざしているにすぎぬ――あらゆる行為感覚も止揚されてしまうので、その行為の能動性は受動に似たものになってしまうからである。

 根元語・《我-汝》は、ただ存在の全体でもってのみ語られ得る。

私の存在が集一し溶解してひとつの全的存在となることは、決して私のわざによることではないが、私なくしては決して起こり得ない。

私は《汝》との関わりにおいて《我》となり、《我》となることによって私は、《汝》を語るのである。あらゆる真に生きられる現実は出会いである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.17-18、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:出会い,印象,想像,情緒,関係,関係の受動性,関係の能動性)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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2018年11月27日火曜日

8.9.世界は、人間にとって、人間の二重の態度に応じて二重である。我-汝。あるいは、我-それ、我-彼、我-彼女。人間は、自然、人間、精神的実在と我-汝の関係を成立させることで、真の存在に触れ、向き合い、応答する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

我と汝、我とそれ、彼、彼女

【世界は、人間にとって、人間の二重の態度に応じて二重である。我-汝。あるいは、我-それ、我-彼、我-彼女。人間は、自然、人間、精神的実在と我-汝の関係を成立させることで、真の存在に触れ、向き合い、応答する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

(1)世界は、人間にとって、人間の二重の態度に応じて二重である。
 (1.1)我-汝
 (1.2)我-それ、我-彼、我-彼女
(2)それに応じて、人間の我もまた二重である。
  2種類の《我》:(1)相手と自己を《それ》と捉える個我は、自己幻像を拠り所とし、真の存在から遠ざかる。(2)相手に《汝》として出会う人格は、自己がいかなる存在であるかを直視し、共存する存在の真実を知る。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
(3)関係の世界がそのなかでうち立てられる領域は、三つある。
 (3.1)自然との交わりにおける生。
  もろもろの被造物は、われわれに向いあって活動している。
  (3.1.1) 一本の樹木が、生身の存在として私と向き合い、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。これは、私の全てがその樹に捉えられているような状態であり、単なる印象、想像、情緒によるものではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
  (3.1.2) 猫の眼を見つめているとき、猫との「関係」が実現していると思われる瞬間が存在する。その時、猫の眼は、精神の一触を受けて、生成の不安のなかに閉じこめられている存在の秘密を語っているかのように感じられる。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
 (3.2)人間との交わりにおける生。
  ここでは関係は開かれていて、言語という形体を取っている。われわれは汝を与え、また受けとることができる。
 (3.3)精神的実在との交わりにおける生。
  われわれは、汝という呼びかけを聴きとることはないのに、しかもそう呼びかけられているのを感じ、そして、形成し、思考し、行為することによって応答する。
  (3.3.1) 人間は、自らと向かいあうことで、あの《汝》と出会い、生きた言葉の語りかけを聞く。そして、その語りかけに対して、みずからが作品となり、生命をもって答える。これが、恣意によることのない行為である。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

 「世界は人間にとっては、人間の二重の態度に応じて二重である。

 人間の態度は、人間が語り得る根元語(Grundwort)が二つであることに応じて二重である。

 この根元語とは、単一語ではなくて対偶語(Wortpaar)である。

 根元語のうちのひとつは対偶語・《我-汝》(Ich-Du)である。

 もうひとつの根元語は対偶語・《我-それ》(Ich-Es)であり、この場合には、《それ》を《彼》(Er)あるいは《彼女》(Sie)のいずれかで置きかえても、その意味するところには変りない。

 このような根元語が二つあるからには、人間の《我》もまた二重である。
 なぜなら、根元語・《我-汝》における《我》は、根元語・《我-それ》における《我》とはことなっているからである。」


(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)p.5、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))

 「関係の世界がそのなかでうち立てられる領域は、三つある。

 第一は、自然との交わりにおける生。ここでは関係はまだ暗闇のなかに揺れ動いていて、言語の地平以下のところにある。もろもろの被造物はわれわれに向いあって活動しているが、われわれのところに達することはできない。そしてわれわれがかれらに《汝》を言っても、それは言語の敷居のところで止まってしまう。

 第二は、人間との交わりにおける生。ここでは関係は開かれていて、言語という形体を取っている。われわれは《汝》をあたえ、また受けとることができる。

 第三は精神的実在(geistige Wesenheiten)との交わりにおける生。ここでは関係は雲のなかにつつまれていながら、しかし自己を開示しつつあり、無言でありながら、しかし言語を生み出しつつある。われわれはここでは《汝》という呼びかけを聴きとることはないのに、しかもそう呼びかけられているのを感じ、そして、応答するのだ、――形成し、思考し、行為することによって。

すなわち、われわれは口でもって《汝》を言うことはできぬが、われわれの存在そのものでもってあの根元語を語るのである。

 だが、いかにしてわれわれは、言語の外にあるものを根元語の世界のなかへみちびきいれることができるのであろうか?

 これらのいかなる領域にあっても、われわれのまえに現在となって生じてくるあらゆるものをとおして、われわれは永遠の《汝》の辺縁を望み見るのだ。

あらゆるものからわれわれは永遠の《汝》のそよぎを聴きとり、われわれの言うあらゆる《汝》のなかからわれわれは永遠の《汝》に呼びかけるのだ、――いかなる領域にあっても、そのそれぞれにふさわしい仕方でもって。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.10-11、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:我と汝,我とそれ,我と彼,我と彼女)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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2018年9月23日日曜日

7. 2種類の《我》:(1)相手と自己を《それ》と捉える個我は、自己幻像を拠り所とし、真の存在から遠ざかる。(2)相手に《汝》として出会う人格は、自己がいかなる存在であるかを直視し、共存する存在の真実を知る。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

2種類の《我》:個我と人格

【2種類の《我》:(1)相手と自己を《それ》と捉える個我は、自己幻像を拠り所とし、真の存在から遠ざかる。(2)相手に《汝》として出会う人格は、自己がいかなる存在であるかを直視し、共存する存在の真実を知る。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

2種類の《我》
(1)個我
 (1.1)相手を《それ》として捉える《我》は、自分自身も《それ》として捉え、相手と自己とを経験し、利用する対象として意識する。
 (1.2)その結果、「私とは、このような人である」と、個我は言う。個我は、その我が物を拠り所とする。我が流儀、我が民族、我が創造、我が天分など。
 (1.3)《汝自身を知れ》は、個我にとっては《汝の存在様態を知れ》ということを意味する。自己認識とは、自分のために自ら仕立てあげた虚構、自己幻像であり、個我は、それを眺め、称揚しては、自分がそのような存在であるという疑似認識を獲得し、自己の特殊性を享受する。
 (1.4)その結果、個我は、自己と他のさまざまな個我との差異をきわだたせることによって、存在から遠ざかってしまう。
(2)人格
 (2.1)相手に《汝》として出会う《我》は、自分自身を、《汝》との関係における全体的な主体として意識する。
 (2.2)その結果、「私は、存在する」と、人格は言う。人格は、自己がいかなる存在であるかを直視する。
 (2.3)《汝自身を知れ》は、人格にとっては《汝を存在として知れ》ということを意味する。人格は、自己の存在の特殊性、別異性を放棄してしまうわけではない。それは必要で重要である。しかし、個我とは異なり、この特殊性を拠り所として人格が存在しているのではない。
 (2.4)その結果、人格は自己を、存在に関与しているものとして、ひとつの《共に存在しているもの》として意識し、そして、共に存在しているからこそ存在していることを知る。

 「根元語・《我-それ》における《我》は個我(Eigenwesen)として発現し、自己を(経験と利用との)主体として意識する。


 根元語・《我-汝》における《我》は人格(Person)として発現し、自己を(隷属的な属格を持たぬ)主体性として意識する。」(中略)

 「人格は自己を、存在に関与しているものとして、ひとつの《共に存在しているもの》として、そして、だからこそ存在しているものとして意識する。

個我は自己を、《かく在り-それ以外の仕方では存在していないもの》(ein so-und-nicht-anders-seiendes)として意識する。

人格は言う、《我は在る》と。しかし個我は言う、《我はかく在る》と。

《汝自身を知れ》は人格にとっては、《汝を存在として知れ》ということを意味し、個我にとっては《汝の存在様態を知れ》ということを意味する。

個我は自己と他のさまざまな個我との差異をきわだたせることによって、存在から遠ざかってしまうのである。

 といっても、人格は自己の存在の特殊性を、別異性を《放棄》してしまうのだなどというわけではない。人格にとっては、この特殊性はただ、人格がそれを拠り所とする視点ではないだけである、……それはただそこにあるもの、ただ存在を縁取っている必要にして重要な枠にほかならない。

個我はそれに反して、自己の特殊性を享受する。いやむしろ個我は多くの場合、自己が特殊であるという、自分のためにみずから仕立てあげた虚構を享受するのである。なぜなら、自己認識とは個我にとって実はたいていの場合、ひとつのもっともらしい、そして自分自身をもますます徹底して欺くに足るほどの自己幻像を作り出すことを意味し、それを眺め、称揚しては、自分がそのような存在であるという疑似認識を獲得することを意味しているからである。

が、自己がいかなる存在であるかを真に認識するなら、個我は自己破壊か――さもなくば再生へとみちびかれることになるであろう。

 人格は自己の本体を直視する。
個我はその《わが物》(Mein)とかかりあう、――わが流儀、わが民族、わが創造、わが天分などと。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.84-87、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:個我,人格)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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2018年9月22日土曜日

6.人間は、自らと向かいあうことで、あの《汝》と出会い、生きた言葉の語りかけを聞く。そして、その語りかけに対して、みずからが作品となり、生命をもって答える。これが、恣意によることのない行為である。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

恣意によることのない行為

【人間は、自らと向かいあうことで、あの《汝》と出会い、生きた言葉の語りかけを聞く。そして、その語りかけに対して、みずからが作品となり、生命をもって答える。これが、恣意によることのない行為である。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

恣意によることのない行為における関係の役割
(1)人間は、自らと向かいあうことで、あの《汝》と出会い、生きた言葉の語りかけを聞く。
(2)そして人間は、その語りかけに対して、みずからが作品となり、生命をもって答える。
(3)あの《汝》は、絶えず常に歩み寄り、自らに触れている。あの《汝》の生命と生きた交わりを持つことは、精神が死に絶えぬために必要なのである。あの《汝》は、自らが何であらねばならぬかではなく、真に生きるということが、いかなるものであるかを語る。
(4)自らが所持している知識、書庫の中の言葉、律法、法典が、あの《汝》との関係性ではない。関係における応答で、律法は成就されることもあれば、破られることもある。
(5)たっぷり心理学が混ぜこまれている崇敬などが、あの《汝》との関係性ではない。

(再掲)
一本の樹
(a)対象物としての樹、《それ》としての樹
 (a1)形象、色彩、運動
 (a2)分類学上のある種属、構造や生存様式
 (a3)化学的組成、物質の化合と分離とを支配する法則の表現
 (a4)純粋な数式
(b)生身の存在として私と向き合い私と関係する、一つの全体としての樹、《汝》としての樹
 (b1)(a)で知られる全てのことは、その樹のなかに存在し、ひとつの全体性のうちに包まれている。
 (b2)その樹と私の間に、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。
 (b3)関係が成立しているとき、私の全てがその樹に捉えられているような状態にあり、その樹も何らかの仕方で私と関わりを持っている。
 (b4)もちろん、その樹に意識のようなものがあるわけではない。
 (b5)その樹が私に及ぼす印象は、この関係性とは別のものである。
 (b6)その樹についての私の想像力が、この関係性を作り上げているわけではない。
 (b7)その樹が私に引き起こした情緒が、この関係性そのものというわけではない。

 「そして第三に、認識の精神や、芸術の精神よりも上位にあるものとして、人間存在の純粋な活動を、恣意によることのない行為をあげることができる。

なぜなら、ここでは無常な、肉体をそなえた人間が、より永続性のある質料に自己を刻印する必要はなく、みずからが作品となり、そのような質料よりも永続的な存在として、みずからの生きた言葉の音楽にかこまれつつ精神の星空に上昇してゆくのだから。

かつて深い秘密のなかから《あの汝》が人間のまえに出現したのも、このようなときであった。あの《汝》は、幽暗のうちよりみずから人間にむかって語りかけ、そして人間は彼の生命でもって答えたのだ。

このようなときに言葉はくり返し生命となったのである。

そしてこのような生命こそが、たとえそれが律法を成就したものであれ、あるいは破ったものであれ――律法を成就することも破ることも、どちらも、精神がこの地上で死に絶えぬためには必要なのだ――いまなお生きている《教え》なのである。

こうして後代の者たちのまえにこの教えとしての生命は立っているのだ。

彼らが何であり、また何であらねばならぬかを教えるためにではなく、精神のなかで、また、あの《汝》の顔前において生きるということがいかなるものであるかを教えるために。

そしてそれはまた、あの生命が彼らにたいしてみずから《汝》となり、彼らにたいして《汝》の世界をあけ放とうとして待機しているということなのだ。

いや、待機しているのではない、それは絶えずつねに彼らに向って歩みより、彼らに触れているのだ。

彼らはしかし、《汝》の世界をあけ放つ生命と生きた交わりを持とうとする気もなく、またその交わりにふさわしくもないものになってしまっている。

彼らはそのかわりに知識に通じているのだ。彼らは人格たる人間を歴史のなかに、そして彼の語った言葉を書庫のなかに閉じこめ、律法の成就であれ律法にたいする背反であれ、ひとしなみに法典に編みこんで所持しているのである。

しかも彼らは、近代人にふさわしく、たっぷり心理学が混ぜこまれている崇敬や、さらには拝跪にかけては惜しみもない。

おお、暗やみのなかの星のように孤独な《あの汝》の顔、おお、鈍感なひたいのうえにおかれている生ける指、おお、次第にひびき消えてゆく足音!」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.56-57、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:恣意によることのない行為)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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2018年9月17日月曜日

5.人間は、《汝》として向かいあう芸術作品と出会い、関係の真理の中に入り込んでゆくことで、芸術家が作品のうちに呪縛した向かいあう存在の形姿を解き放つ。学問的、審美的な理解は、関係の全体性の中に包含される。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

芸術における関係の役割

【人間は、《汝》として向かいあう芸術作品と出会い、関係の真理の中に入り込んでゆくことで、芸術家が作品のうちに呪縛した向かいあう存在の形姿を解き放つ。学問的、審美的な理解は、関係の全体性の中に包含される。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

芸術における関係の役割
(1)芸術家は、《汝》として向かいあう存在を真に観ることで、そこで明かされた存在の形姿を、作品へと呪縛する。
(2)人間は、《汝》として向かいあう芸術作品と出会い、関係の真理の中に入り込んでゆくことで、作品のうちに呪縛されている形姿を解き放つ。
(3)作品は、人間を不可欠の相手としている。
(4)芸術作品の学問的、審美的な理解も不要というわけではないが、理解し得る事柄は、理解を超える関係の全体性の中に包含される。

(再掲)
一本の樹
(a)対象物としての樹、《それ》としての樹
 (a1)形象、色彩、運動
 (a2)分類学上のある種属、構造や生存様式
 (a3)化学的組成、物質の化合と分離とを支配する法則の表現
 (a4)純粋な数式
(b)生身の存在として私と向き合い私と関係する、一つの全体としての樹、《汝》としての樹
 (b1)(a)で知られる全てのことは、その樹のなかに存在し、ひとつの全体性のうちに包まれている。
 (b2)その樹と私の間に、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。
 (b3)関係が成立しているとき、私の全てがその樹に捉えられているような状態にあり、その樹も何らかの仕方で私と関わりを持っている。
 (b4)もちろん、その樹に意識のようなものがあるわけではない。
 (b5)その樹が私に及ぼす印象は、この関係性とは別のものである。
 (b6)その樹についての私の想像力が、この関係性を作り上げているわけではない。
 (b7)その樹が私に引き起こした情緒が、この関係性そのものというわけではない。


 「芸術についてもこれは同様だ。向かいあう存在を真に観るとき、芸術家にはその存在の形姿が明かされる。彼はその形姿を作品へと呪縛する。

こうして制作された作品は、神々の世界というようなところではなくて、人間たちのこの大世界のなかに立つのである。

作品は、たとえ人間の眼がそれに触れていないときでも、たしかに《そこに》存在している。だが、それは眠っているのだ。

中国の詩人が語っている、――自分が玉笛で歌をかなでだとき、ひとびとはその歌を聞こうとしなかった。そこで神々にむかってその歌をかなでると、神々は耳をかたむけた。それ以来、ひとびともその歌に聴きいるようになった、と。すなわちこの詩人はやはり神々のところを去って人間たちのところへ帰っていったのである。

なぜなら、作品は人間を不可欠の相手としているからだ。芸術作品というものは夢のなかでのように人間との出会いを待ちこがれ、作品のうちに呪縛されている形姿を人間がその呪縛から解き放って、永遠の一瞬間だきしめてくれるのを待望しているのである。

ところが、そこへ人間が歩みよってきて、経験し得ることを経験するのだ、――この作品はこのように作られているのだとか、このことがそこに表現されているのだとか、その特質はこのようなものだとか、さらにまたその作品の等級がどの程度であるかなどを。

 芸術作品の学問的、審美的な理解力が不要だなどというわけではない。だが、そのような理解力は誠実に果たされねばならず、そして、理解し得る事柄を内に包容しつつ理解を超えている「関係の真理」のなかにはいりこんでゆくためにこそ必要なのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.55-56、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:芸術における関係の役割)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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2018年9月13日木曜日

4.諸々の《もの》や、諸々の事象のうちの一つではなく、《我》と《汝》が向かいあう状況において、「この樹」として現前し、向かいあう存在として、現象そのもののなかで、その存在の本質を打ち明ける。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

認識における関係の役割

【諸々の《もの》や、諸々の事象のうちの一つではなく、《我》と《汝》が向かいあう状況において、「この樹」として現前し、向かいあう存在として、現象そのもののなかで、その存在の本質を打ち明ける。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

認識における関係の役割
 諸々の《もの》のうちの一つでも、諸々の事象のうちの一つでもなく、《我》と《汝》が向かいあう状況において、「この樹」として現前し、向かいあう存在として、現象そのもののなかで、その存在の本質を打ち明ける。

(再掲)

一本の樹
(a)対象物としての樹、《それ》としての樹
 (a1)形象、色彩、運動
 (a2)分類学上のある種属、構造や生存様式
 (a3)化学的組成、物質の化合と分離とを支配する法則の表現
 (a4)純粋な数式
(b)生身の存在として私と向き合い私と関係する、一つの全体としての樹、《汝》としての樹
 (b1)(a)で知られる全てのことは、その樹のなかに存在し、ひとつの全体性のうちに包まれている。
 (b2)その樹と私の間に、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。
 (b3)関係が成立しているとき、私の全てがその樹に捉えられているような状態にあり、その樹も何らかの仕方で私と関わりを持っている。
 (b4)もちろん、その樹に意識のようなものがあるわけではない。
 (b5)その樹が私に及ぼす印象は、この関係性とは別のものである。
 (b6)その樹についての私の想像力が、この関係性を作り上げているわけではない。
 (b7)その樹が私に引き起こした情緒が、この関係性そのものというわけではない。

 「認識、……向いあう存在を真に観るとき、認識者にはその存在の本質が明らかにされる。

なるほど認識者は、彼が現前するものとして観た存在を、次には対象物として把握し、他のさまざまな対象物と比較し、対象物の系列のなかに組みいれねばならぬだろうし、客体的に記述し、分析せねばならぬだろう。ただ《それ》としてのみその存在は、存続する認識のなかへはいりこむことができるのである。

だが、向かいあう存在として直視されていたとき、それはもろもろの《もの》のうちのひとつでも、もろもろの事象のうちのひとつでもなく、専一的に現前していたのだ。その存在は、あとになって現象から抽き出された法則のうちにおいてではなく、現象そのもののなかで自己を打ち明けるのである。

一般的なものを考えるのは、分かちがたく縺れている事件を解きほぐす一方法にすぎない。

なぜなら、この事件は特殊な相において、《我》と《汝》が向かいあう状況において観られたのであるから。

が、さて一般化されると、この事件は概念的認識という、《それ》の様式(Esform)のなかへ閉じこめられてしまう。

そこからこの事件を開放して、現前する出来事としてふたたび観る者は、人間と人間とのあいだに現実となって作用するものとしてのあの認識行為の意味を成就することができる。

だが、認識というものはまた、《この事物の様態はこうであり、こう名づけられ、このように作られ、ここに属している》というようなことを確認するために行使されたり、《それ》と化したものを《それ》であるままに据えておいて、もっぱら《それ》として経験し利用し、そうすることによって世界に《通暁》し、さらには世界を《征服》しようとする認識主体の企図に役立つべく行使されもするのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.54-55、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:認識における関係の役割)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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