われわれが、これまでにはわれわれになかったものを受け取り、しかもそれを、それがわれわれに他からあたえられたものだという認識において受け取るということ、これが現実なのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)
「われわれが啓示と呼ぶところのものの永遠的な原現象(Urphänomen)、《今》と《ここ》におけるその永遠的な根本現象とは何であろうか?
それは、あの至高の出会いの時間から出てくるとき、人間はその出会いのなかへはいっていったときの彼とはことなっているということである。
そのような出会いの瞬間とは、敏感な魂のうちで昂揚し完成するひとつの《体験》なのではない。そのときには、人間との関わりにおいて何ごとかが生ずるのだ。それは時としては微風のようなものとして、時としては格闘のようなものとして生ずるが、いずれにしても何ごとかが生ずるのである。
そして純粋なる関係という本質的行為から歩み出る人間の存在のなかには、ひとつの《より以上》(ein Mehr)が、ひとつの新たに発生したものがもたらされているが、それは彼がこれまでは知らなかったもの、またそれがどこから起こったかをあとからただしく言いあらわせないものである。
世界の現象の位置づけを好むような科学的操作は、無欠な因果律をうち立てようとするその権限を行使して、こうした新たなことの由来をも、何らかの因果的構図のなかへ組みいれてしまうことであろう。
だが、現実的なものの現実的な考察を重んずるわれわれには、潜在意識だの、その他の心的からくりによる説明は受けつけられない。
われわれが、これまでにはわれわれになかったものを受け取り、しかもそれを、それがわれわれに他からあたえられたものだという認識において受け取るということ、これが現実なのである。
聖書には語られている、《神を待ち望む者らは、新たなる力によって生かされるであろう》と。またこのような現実を伝えることにかけてやはり誠実であるニーチェは語っている、《人は受け取る、だが誰によってあたえられるかは問わない》と。」