2018年12月4日火曜日

(a)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する「構成的定義」、(b)既に用いられている単純記号の意義を分析し、既に意義の明らかな構成要素から再構成する「分析的定義」(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

構成的定義と分析的定義

【(a)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する「構成的定義」、(b)既に用いられている単純記号の意義を分析し、既に意義の明らかな構成要素から再構成する「分析的定義」(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(a)構成的定義
 (a.1)既に意義の明らかな構成要素から、複合的表現すなわち新たな意義を構成する。
 (a.2)構成された複合的表現に、全く新しい単純記号を導入する。
(b)分析的定義
 (b.1)既に用いられている単純記号Aの意義を、論理的に分析する。
 (b.2)分析された意義を、既に意義の明らかな構成要素から再構成し、これを単純記号Bとして定義する。
 (b.3)問題は、単純記号AとBの意義が同じかどうかである。

 「従ってわれわれは、全く異なる二つの場合を区別しなければならない。
一.われわれは意義をその構成要素から構成し、この意義を表現するために全く新しい単純記号を導入する場合。これを「構成的定義」と呼ぶことができる。しかしわれわれは、むしろ端的に「定義」と呼びたい。
二.もうとっくに一つの単純記号が使われてきている場合。この場合、われわれはそれの意義を論理的に分析できると思うし、そしてその意義と同じ意義を表現しているとわれわれが考える、一つの複合表現が得られると思う。複合表現の構成要素として認めるのは、それ自身是認された意義を有するものだけである。この複合表現の意義は、その構成の仕方に従って結果しなければならない。その意義がとうに慣用となっている単純記号の意義と一致するということは、任意に取り決められたことではなくて、直接な理解によってしか認識されない。ここでも確かに定義について語られている。第一の場合と区別して、これを「分析的定義」と呼ぶことができよう。しかしより良いのは、「定義」という語を全く避けることである。なぜなら、ここで定義と呼びたいところのものは、本来は公理と解されるべきものであるからである。この第二の場合においては、任意の取り決めに対するいかなる余地も残ってはいない。なぜなら単純記号はすでに意義を有しているからである。」(中略)
 「さて、論理的分析が正しいかどうかに疑問の余地があるとき、この分析の際われわれが陥る窮状について考察するということが、まだ残されている。
 Aをとうに慣用となった単純記号(表現)とし、その意義をわれわれが論理的に分析しようと試みたと仮定しよう。そして、この分析を描写するものとして一つの複合表現を構成することによって、その論理的分析を行うとしよう。分析が成功しているのかどうか確かではないのだから、われわれはその複合表現をかの単純記号Aによって代理されるものと称することは、敢えてしない。もしわれわれが本来の定義を打ち立てようと欲するのであれば、すでに意義を有している記号Aを選んではならず、むしろ全く新しい記号、例えばB、を選ばねばならない。その記号に、いま定義によって初めて、かの複合表現の意義が与えられる。さて問題は、AとBとが同じ意義を有するか、ということである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『数学における論理[一九一四春]』227-228、フレーゲ著作集5、pp.230-231、田畑博敏)
(索引:構成的定義,分析的定義)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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