2018年4月9日月曜日

欲望の統御:欲望は、真なる認識に従っているか。また、私たちに依存しているものと、依存していないものが、よく区別できているか。(ルネ・デカルト(1596-1650))

欲望の統制

【欲望の統御:欲望は、真なる認識に従っているか。また、私たちに依存しているものと、依存していないものが、よく区別できているか。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 入念に統御すべきは特に欲望である。まず、欲望は、真なる認識に従っている場合はつねに善く、何らかの誤りにもとづいている場合は必ず悪い。つぎに、わたしたちにまるごと依存しているものと、依存していないものとをよく区別すること。
 「これらの情念は、その引き起こす欲望を介してのみ、わたしたちを何らかの行動に向かわせうるのだから、入念に統御すべきは特に欲望であり、そこにこそ道徳の主たる有用性が存する。さて、いま述べたように欲望は、真なる認識に従っている場合はつねに善く、同様に、何らかの誤りにもとづいている場合は必ず悪い。そして欲望について最もふつうに犯される誤りは、わたしたちにまるごと依存しているものと、依存していないものとをよく区別しないことだと思われる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四四、p.122、[谷川多佳子・2008])
(索引:欲望の統御、欲望、私たちに依存しているもの)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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善の獲得、悪の回避等が可能であると考えただけで、欲望がそそられる。そして、実現の見込みの大きさに応じて、次の情動が生じる:〈安心〉〈希望〉〈不安〉〈執着〉〈絶望〉。(ルネ・デカルト(1596-1650))

希望と絶望

【善の獲得、悪の回避等が可能であると考えただけで、欲望がそそられる。そして、実現の見込みの大きさに応じて、次の情動が生じる:〈安心〉〈希望〉〈不安〉〈執着〉〈絶望〉。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 善の獲得、悪の回避等の「欲望がそそられる」ときは、善の獲得、悪の回避等は可能だと考えられている。
 善の獲得、悪の回避等が欲望され「安心」を感じているときは、善の獲得、悪の回避等の見込みが極度に大きいと考えられている。
 善の獲得、悪の回避等が欲望され「希望」を感じているときは、善の獲得、悪の回避等の見込みが多いと考えられている。
 善の獲得、悪の回避等が欲望され「不安」を感じているときは、善の獲得、悪の回避等の見込みがわずかであると考えられている。
 善の獲得、悪の回避等が欲望され、それに「執着」しているときも、善の獲得、悪の回避等の見込みがわずかであると考えられている。この情動は、不安の一種である。
 善の獲得、悪の回避等が欲望され「絶望」を感じているときは、善の獲得、悪の回避等の見込みが極度にわずかであると考えられている。
 「ある善の獲得、ある悪の回避が可能だと考えただけで、その欲望がそそられる。が、さらに、欲望するものを獲得する見込みが多いか少ないかが考慮されると、見込みが多いと示すものは、わたしたちのうちに希望を引き起こし、見込みがわずかであると示すものは、不安を引き起こす。執着は不安の一種である。希望は極度に大きいと性質を変えて、安心または確信とよばれる。反対に、極度の不安は絶望となる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五八、pp.55-56、[谷川多佳子・2008])
(索引:希望、不安、執着、安心、絶望)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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欲望の種類は、愛や憎しみの種類の数だけある。そして最も注目すべき最強の欲望は、快と嫌悪から生じる欲望である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

欲望の種類

【欲望の種類は、愛や憎しみの種類の数だけある。そして最も注目すべき最強の欲望は、快と嫌悪から生じる欲望である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「欲望を、追求する対象の多様性に応じてそれと同数の多様な種類に区別するのは、いっそう理にかなっている。というのも、たとえば、知る欲望にほかならない好奇心は、名誉の欲望とは大きく異なるし、またこの名誉欲は復讐の欲望とは大きく異なり、他も同様だからだ。だがここでは、欲望の種類が愛や憎しみの種類の数だけあること、そして最も注目すべき最強の欲望は快と嫌悪から生じる欲望であることを知れば、十分である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 八八、pp.76-77、[谷川多佳子・2008])
(索引:欲望、愛、憎しみ、快、嫌悪)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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