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2018年1月14日日曜日

数学において「無限」の推論を支える公理は、経験により検証可能なものではない。そうかと言って、恣意的な規約とも思えず、自明なものとして服従を強制されているかのようである。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

無限とは何か?

【数学において「無限」の推論を支える公理は、経験により検証可能なものではない。そうかと言って、恣意的な規約とも思えず、自明なものとして服従を強制されているかのようである。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学の定理に「無限」がかかわってくるときに、数学的帰納法(もしくは、これと同等の、正の整数のどんな集合のうちにも、集合中のほかのどれよりも小さい一数がいつでも存在という公理。)が必要になる。この数学的帰納法による証明は、我々が実際に無限の推論を展開できるわけではないという意味で、経験から真であることが知られるわけではない。またそれが、無限にかかわる限り、争うことのできない自明なものとして服従を強制されているように思われることから、任意に採否が決められる「規約」とも思えない。
 「もしある定理が1なる数について真であって、この定理が n なる数につき真であるかぎり、 n + 1 なる数についても真であることを証明したならば、この定理は正の整数すべてについて真であるとする「出直し法」による推理の根拠となる判断は別の形に直すことができる。たとえば相異なる正の整数の無限集合のうちには、集合中のほかのどれよりも小さい一数がいつでも存在するといえる。一つの命題から別の命題に容易に移れるところをみると、出直し法による推理の正当なことを証明したという幻想を抱く人もあるかもしれない。しかしいつでも途中で障害にあう、いつでも証明し得ない公理に到達する。そうしてこれは根本においては、証明すべき命題を別の言葉に翻訳したものにほかならない。
 だから出直し法による推理の規則は矛盾律に引き直し得ないというその結論からまぬかれることはできない。
 そのうえこの規則は経験から来たのでもない。経験が我々に教え得るのは、ある規則が例えば十までの数についてとか、百までの数についてとか真であるということで、経験は際限のない数の系列に追いつくことはできない。できるのは、ただこの系列のうちの、長くても短くてもとにかく必ず限られた一部分に過ぎない。
 ところでそれだけの話だとすれば、矛盾律だけで十分である。これによると我々はいつでも欲しいだけの三段論法を展開することができる。ところがただ一つの公式に無限のものを含ませる場合、ただ無限に対する場合だけこの原理は効果を失い、またその場合には経験も同様に無効になる。分析的な証明によっても、経験によっても捕えられないこの規則は先天的総合判断の真の典型である。しかもこれを幾何学の要請のあるもののように、一つの規約と認めようとするわけにもいかない。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第1章、6、pp.34-35、河野伊三郎(訳))
(索引:公理、先天的総合判断、無限、数学的帰納法、出直し法)


科学と仮説 (岩波文庫)





アンリ・ポアンカレ(1854-1912)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia

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問題:諸公理と推論規則による演繹体系である数学は、なぜ、大規模な同語反復に帰しないのであろうか。この豊かな諸成果は、何からもたらされるのか?(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

数学の豊かさの由来

【問題:諸公理と推論規則による演繹体系である数学は、なぜ、大規模な同語反復に帰しないのであろうか。この豊かな諸成果は、何からもたらされるのか?(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学の豊かな諸成果は、いったい何からもたらされるのだろうか。数学の諸定理が、推論全部の根源にある諸公理をもとにして、形式論理学の規則によって次から次へと引き出すことができるのならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。これら諸公理と推論規則の由来が、仮に実験的事実のようなものとして理解することができたり、あるいは、人間の認識が従わざるを得ない「先天的総合判断」のようなものとして理解することができたとしても、この数学の豊かな生産性は、依然として謎なのである。
 「数学についてはその可能性からしてすでに解けない矛盾であるように思われる。もし数学が演繹的なのはただ見かけに過ぎないならば、だれも夢にも疑おうとしないこの完全な厳密性はどこから来るのか。もし反対に数学で述べられている命題全部が形式論理学の規則によって次から次へ引き出すことができるならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。三段論法は我々に何も本質的に新しいことを教えることはできないし、もしすべてが同一律から出てくるべきものだとすれば、すべてはまたそこに帰着するはずである。それではこんなに多くの書物を満たしている定理の全部の叙述は「AはAである」というのを、まわりくどい方法でいったものに過ぎないということを承認するものがあるだろうか。
 もちろん推論全部の根源にある公理にまでさかのぼることはできる。もし公理を矛盾律に帰着させることができないと判断し、そのうえそれを数学的必然性を持ち得ない実験的事実と認めることを欲しないとしても、なおこれらの公理を[カントのいう]先天的総合判断のうちに入れるというくふうもある。これはその困難を解決するものではなく、ただ名前をつけただけである。そのうえ総合判断の本性が我々にとって少しも神秘的でないとしたところで、矛盾は消滅するわけでなくて、あとじさりさせただけのことになる。三段論法的推論はそこに持ち出された材料に何一つ付け加えることができずにいるし、その材料はいくつかの公理に帰着するのだから、その結論のうちには別のものは何も発見できないはずである。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第1章、1、pp.20-21、河野伊三郎(訳))
(索引:公理、論理学、同語反復、推論規則、先天的総合判断)

科学と仮説 (岩波文庫)





アンリ・ポアンカレ(1854-1912)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
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