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2020年4月24日金曜日

欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、外部の世界が特に圧制的、残虐かつ不正なとき、誘惑が強くなり、行為の結果は度外視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却への罠

【欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、外部の世界が特に圧制的、残虐かつ不正なとき、誘惑が強くなり、行為の結果は度外視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

参考:欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 「自分がある「低劣」な衝動にかられ、自分の好まぬ動因に動かされて行為をするのを見、またまさにそれをする瞬間には嫌悪を感じるかもしれないようなことをするのを見、あとになってあのとき自分は「自分でなかった」のだとか、「自分をしっかり統御していなかった」のだとか反省する心理的経験は、こうした考え方・言い方に属しているものである。自分というものを自分のなかの批判的・理性的な要素と同一視するのである。自分の行為の生みだすさまざまな結果は問題とはなりえない。なぜなら、それは自分の統制下にはないものだから。ただ自分の動機だけが統御できるものなのだ。これは世間を無視し、人間や事物をつなぐ鎖から離脱した孤立的な思想家の信条である。このような形態においては、この学説はまず第一義的に倫理的信条であって、政治的信条ではぜんぜんないと見られるかもしれない。ところが、それの政治との関連は明々白々なのであって、自由主義的個人主義の伝統のなかには、少なくとも自由の「消極的」概念と同じくらいに、深く浸透しているのである。
 真の自我という内なる砦に逃げ込んだ理性的賢者の概念がその個人主義的形態において現れてくるのは、ただ外部の世界がとくに圧制的で残虐かつ不正であることが明らかになったときのみであるかにみえるということは、おそらく一言ふれておくだけの価値はあるであろう。「自分のなしうることを欲し、自分の欲することを行うひとは、真に自由である」と、ルソーは言った。幸福なり正義なり自由(いかなる意味のものであれ)なりを求めているひとが、やりたいことをする道があまりに塞がれてしまっているために、ほとんどなにひとつできないという世界にあっては、自分自身へと引き籠ってしまう誘惑は抗しがたいものとなってくるであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.38-39,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:内なる砦への退却)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

催眠術、洗脳、識閾下の暗示

【欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】
参考:自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 「カントの心理学、さらにストア派やキリスト教徒の心理学も、人間におけるある要素――「心のうちなる要塞」――は〔いかなる外的〕規制・調整からも守られうるものだ、と想定していた。催眠術、「洗脳」、識閾下の暗示、等々の技術の発展によって、このア・プリオリな想定は、少なくとも経験的仮説としては、信憑性に乏しいものとなってしまった。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,p.37,註**,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:催眠術,洗脳,識閾下の暗示,内なる砦への退却)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2020年4月21日火曜日

自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却

【自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(2.4)追加。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 (2.2)積極的自由の歪曲1:欲望・情念・衝動
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えないとする説。
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないとする説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は「低次」なのか?
   (ii)情念は「制御できない」のか?
   (iii)社会的な諸価値の体系は「高次」「真実」「理想的」なのか?
   (iv)理性による判断
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得るとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 (2.4)積極的自由の歪曲3:内なる砦への退却
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えない。また、社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存しており自由とは言えないとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望や情念に従うことは、外部的要因に依存することである。
   (ii)社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存することである。
   (iii)外部的な要因は、自分では支配できない世界である。
   (iv)理性による判断は、自律的であり、このかぎりにおいて私は自由である。この法則は、自分自身が命ずる法則であって、この法則に服従することは、自由である。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)理性による判断

 「この学説が個人に適用された場合、そこからカントのようなひとびとの考え方、つまり自由を欲望の除去とまではいわないにしても、欲望への抵抗および欲望の支配と同一視するという考え方までは、それほど大きな距離があるわけではない。みずからをこの支配者と同一視し、支配されるものの隷従状態から脱却する。わたくしは自律的であるがゆえに、また自律的である限りにおいて、自由である。わたくしは法則に従う。けれどもわたくしは自分の強制されざる自我のうえにこの法則を課したのであり、いいかえればその自我のうちにこの法則を見出したのである。自由は服従である。しかし、これは「われわれがわれわれ自身に命ずる法則に対する服従」であって、なんぴとも自分自身を奴隷とするというわけにはゆかない。他律とは外部的要因への依存であり、自分では完全に支配しえないところの、また《それだけ》protanto わたくしを支配し「隷従させる」ところの外的世界のなぐさみものとなることを免れることである。自分ではどうすることもできない力の下にある、いかなるものによってもわたくしが「束縛」されていない程度においてのみ、わたくしは自由である。わたくしは自然の法則を支配することはできない。したがって、《その仮定からして》ex hypothesi わたくしの自由な活動は経験的な因果の世界の上に超越させられなければならぬことになる。いまここでは、この古来有名な学説の真偽を議論しているわけにはゆかない。ただ、実現不可能な欲望への抵抗(ないしそれからの逃避)としての自由、因果性の領域からの独立としての自由というこの観念は、倫理学におけると同様、政治学においても中心的な役割を演じてきたものなのだということだけは注意しておきたいと思う。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.33-34,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:内なる砦への退却,積極的自由,欲望,情念,社会的な諸価値)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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