積極的自由
【干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】(2.1)追記。
(2)積極的自由
「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
(2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
(a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
(b)自分で目標を実現するための方策を考える。
(c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
「自由という言葉の「積極的」な意味は、自分自身の主人公でありたいという個人の側の願望からくるものである。
わたくしは自分の生活やさまざまの決定をいかなる外的な力にでもなく、わたくし自身に依拠させたいと願う。わたくしは他人のではなく、自分自身の意志行為の道具でありたいと願う。
わたくしは客体ではなく、主体でありたいと願い、いわば外部からわたくしに働きかけてくる原因によってではなく、自分自身のものである理由によって、自覚的な目的によって動かされるものであることを願う。
わたくしはなにもの somebody かであろうとし、なにものでもないもの nobody ではありたくない。
決定されるのではなくて、みずから決定を下し、自分で方向を与える行為者でありたいと願いのであって、外的な自然あるいは他人によって、まるで自分がものや動物や奴隷――自分自身の目標や方策を考えてそれを実現するという人間としての役割を演ずることができない――であるかのように働きかけられることを欲しない。
少なくともこれが、わたくしが理性的であるといい、わたくしを世界の他のものから人間として区別するものはわたくしの理性であるというときに、意味していることがらである。
なかんずくわたくしは、自分が考え、意志し、行為する存在、自分の選択には責任をとり、それを自分の観念なり目的なりに関連づけて説明できる存在でありたいと願う。
わたくしはこのことが真実であると信ずる程度において自由であると感じ、それが真実でないと自覚させられる程度において隷従させられていると感じるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),2 「積極的」自由の概念,pp.25-26,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由)
![]() |

(出典:wikipedia)

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))
アイザイア・バーリン(1909-1997)
検索(アイザイア バーリン)
アイザイア・バーリンの関連書籍(amazon)
