2019年11月21日木曜日

ミセリコルディアとは、人が、他の誰かの苦しみを自らの苦しみとして理解する限りにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである。それは、家族や友人など社会的絆の有無を区別しない。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

ミセリコルディア

【ミセリコルディアとは、人が、他の誰かの苦しみを自らの苦しみとして理解する限りにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである。それは、家族や友人など社会的絆の有無を区別しない。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

ミセリコルディアとは。
 人が、他の誰かの苦しみを自らの苦しみとして理解する限りにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである(アクィナス)。ミセリコルディアは、以下の2つの要求を区別しない。
 (a)私たち自身が所属するコニュニティの中で、その人が占める位置のために、私たちとある明確な社会関係を有する人々の要求。例えば、家族の絆にもとづく要求や、直接的な社会的絆にもとづく要求。
 (b)私たちとの間にそのような関係があろうとなかろうと、現に何らかのしかたでひどく苦しんでいる人々の要求。特にその悪が、その苦しむ個人の選択から直接的に生じたものでない場合。

 「誰であれ、何らかの顕著な悪に苦しむすべての人々に対してであり、その悪がその苦しむ個人の選択から直接的に生じたものでない場合にはとりわけそうである。ただし、このような条件づけは、おそらくそれ自体、さらなる条件づけを必要としている。すなわち、〔ある行為者にとって〕ある他者が極度の苦境に陥り、緊急に援助を必要としているという事実そのものが、もっとも親密な家族の絆にもとづいて発せられる要求が提供する行動の理由をもしのぐほど強力な行動の理由を〔当該行為者に対して〕提供している。また、そうした他者のニーズがそれほど由々しきものではなく、かつまた、それほど緊急のものではない場合でさえ、そうした他者のニーズはしばしば、家族の絆にもとづく要求や、その他の直接的な社会的絆にもとづく要求に優先するものであると、適切にも判断されうる。とはいえ、どのようなケースがそうしたケースにあてはまるのかを決定する規則など存在しないのであって、それを判断するためには思慮 prudence という徳が発揮されねばならない。以上を踏まえる場合、私たちは、ときに相互に対立しあう、二種類の異なる要求にさらされているように思われる。すなわち、私たちは一方において、私たち自身が所属するコニュニティの中でその人が占める位置のために、私たちとある明確な社会関係を有する人々の要求にさらされているだろう。また他方において、私たちとの間にそのような関係があろうとなかろうと、現に何らかのしかたでひどく苦しんでいる人々の要求にさらされているだろう。しかし、ミセリコルディアという徳に関するアクィナスの説明は、少なくも私が右に定式化したような〔二つの要求の間の〕対比を拒絶するように私たちに求めている。
 ミセリコルディアとは、人が他の誰かの苦しみをみずからの苦しみとして理解するかぎりにおいて、その他者の苦しみに対して抱く嘆きや悲しみである、とアクィナスはいう。人がそのような嘆きや悲しみを抱くのは、その他者が以前からの友人であったり親族であったりする場合のように、かねてからその他者との間に何等かのつながりがあったからかもしれないし、あるいはまた、その人が当該他者の苦しみを理解するにあたって、ことによるとこの苦しみは自分にふりかかっていたものかもしれないと気づくからかもしれない。だが、そのような理解に必要とされているものは何であろうか。ミセリコルディアとは、私たちをして、私たちの隣人の必要とするものを彼らに提供するべく衝き動かす慈愛の一側面であって、そのようなものとしてミセリコルディアは私たちを私たちの隣人にかかわらせる諸徳のうちもっとも重要なものである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第10章 承認された依存の諸徳,pp.178-180,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:ミセリコルディア)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

単一の法体系が存在し得る2つの社会類型がある。一つは例外者を除いて規則を受入れている健全な社会、もう一つは公的機関を構成する人々は相互自制の規則を受入れているが、他の人々が強制によって服従している社会である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型

【単一の法体系が存在し得る2つの社会類型がある。一つは例外者を除いて規則を受入れている健全な社会、もう一つは公的機関を構成する人々は相互自制の規則を受入れているが、他の人々が強制によって服従している社会である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

  (3.3.3)追記。
  (3.3.4)追記。

(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
   「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.1)「せざるを得ない」
  (a)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
  (b)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避けるためそうしたということを意味する。
  (c)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないこともあろう。
 (3.2)「責務を負っている」
  (a)信念や動機についての事実は、必要ではない。
  (b)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
  (c)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促すことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。
 (3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
  社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
   (a)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持つ。
   (b)ルールが存在することを拒否する。
   (c)この人々は、ルールに「服従」している。
   (d)行為が「正しい」「適切だ」「義務である」かどうかという考えが、必ずしも含まれている必要がない。
   (e)逸脱したからといって、自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。
  (3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
   (a)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
   (b)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。
  (3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
    論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

   (a)人間の歴史の痛ましい事実は、社会が存続するためには、その構成員のいくらかの者に相互自制の体系を与えなければならないけれども、不幸にも、すべての者に与える必要はないということを十分に示している。
   (b)公機関
    法的妥当性の基準を明記する承認のルール、変更のルール、裁判のルールが、公機関の活動に関する共通の公的基準として、公機関によって有効に容認されている。従って、逸脱は義務からの違反として、批判される。
   (c)一般の私人
    これらのルールが、一般の私人によって従われている。私人は、それぞれ自分なりに「服従」している。また、その服従の動機はどのようなものでもよい。

  (3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
   (a)公機関も一般の私人も、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる健全な社会。
    (i)体系が公正であり、服従を要求される全ての人々の非常に重要な要求を満たしているならば、このような社会が実現し、その社会は安定しているだろう。
    (ii)このような社会で、強制的な制裁が加えられるのは、ルールの保護を受けているのに、利己的にルールを破る例外的な人びとに対してだけであろう。
   (b)一般の私人が、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々からなる社会。
    「このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。」しかし、法体系は存在している。
    (i)支配者集団に比べて大きいことも小さいこともある被支配者集団を、前者の利用できる強制、連帯、規律という手段を用いて、あるいは後者がその組織力において無力、無能であることを利用して、被支配者集団を服従させ、永続的に劣った状態におくために用いられるかもしれない。
    (ii)このような社会で圧迫される人々にとっては、この体系には忠誠を命じるものは何もなく、ただ恐れることだけしかないことになろう。


 「法が、受けいれられた道徳よりも進んでいる社会がときにはあったけれども、普通は、法は道徳に従うのであり、奴隷を殺すことが、公共資源の浪費とか奴隷所有者に対する犯罪とみなされることさえあるかもしれないのである。奴隷制が公的には認められていないところにおいてさえ、人種、皮膚の色あるいは信条にもとづく差別のために、あらゆる人々が他人からの最小限の保護を受ける資格があることを認めない法体系や社会道徳があるかもしれない。
 人間の歴史のこれらの痛ましい事実は、社会が存続するためには、その構成員の《いくらかの者》に相互自制の体系を与えなければならないけれども、不幸にも、すべての者に与える必要はないということを十分に示している。制裁の必要性および可能性を議論するさいにすでに強調しておいたとおり、ルールの体系がいかなる者にも強制的に課されるためには、それを自発的に受けいれる人々が十分いなければならないことは真実である。彼らの自発的な協力、したがって《権威》の創造がなければ、法と統治の強制的な力は確立されえない。しかし、このように権威にもとづいて確立された強制的な力は、二つの主なやり方で用いられるであろう。それは、ルールの保護を受けているのに、利己的にルールを破る悪人に対してだけ行使されるかもしれない。他方それは、支配者集団に比べて大きいことも小さいこともある被支配者集団を、前者の利用できる強制、連帯、規律という手段を用いて、あるいは後者がその組織力において無力、無能であることを利用して、被支配者集団を服従させ、永続的に劣った状態におくために用いられるかもしれない。このように圧迫される人々にとって、この体系には忠誠を命じるものは何もなく、ただ恐れることだけしかないことになろう。彼らは体系の犠牲者であって、その受益者ではないのである。
 本書の以前の章において、法体系の存在は常に二側面をもつ社会現象であって、法体系について現実的に見ようとすれば、われわれはその双方に注意しなければならないということを強調した。それは、ルールを自発的に受けいれるさいの態度や行為と単に服従ないしは黙従するときのより単純な態度や行為を含むのである。こうして、法をもつ社会には、ルールを、もしそれに従わなかったならば公機関が何を行なうであろうかということに関する信頼できる予測と単に見るのではなく、内的視点から、容認された行動の基準とみなす人々がいることになる。しかしその社会には、悪人でありあるいはその体系の救いようのない犠牲者であるという理由で、これらの法的基準が、力ないし力の威嚇によって課せられなければならない人々も含まれる。彼らがルールにかかわるのは、もっぱら可能な刑罰の源泉としてである。これら二つの構成要素のバランスは、さまざまな要因によって決定されるだろう。もし体系が公正であり、服従を要求されるすべての人々の非常に重要な要求を本当に満たすならば、その体系は、だいたいいつも、たいていの人々の忠誠を確保できるであろうし、したがってそれは安定しているだろう。他方それは、支配的集団の利益のために用いられる、偏狭な排他的な体系であるかもしれない。そしてそれは、社会的変動が起こるのではないかという潜在的なおそれのため、ますます抑圧的にまた不安定になるかもしれないのである。この両極端の間に、法に対する態度のさまざまな組み合わせが、しばしば同一個人においてさえ見られるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.219-220,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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6.干渉や妨害から自由でも,開かれている可能性の程度は様々である.(a)可能性の種類,多様性,(b)可能性が意志と行為で変えられるか否か,(c)各個人にとっての実現の難易度,(d)価値・重要性,(e)社会にとっての価値・重要性。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

開かれている可能性の程度

【干渉や妨害から自由でも,開かれている可能性の程度は様々である.(a)可能性の種類,多様性,(b)可能性が意志と行為で変えられるか否か,(c)各個人にとっての実現の難易度,(d)価値・重要性,(e)社会にとっての価値・重要性。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1.3)追記。

(1)消極的自由
  消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
  (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
  (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
  (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
  (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
 (1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
  (a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
   可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
  (b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
   (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
   (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
  (c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
  (d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
 (1.3)開かれている可能性の程度
  (a)可能性の種類、多様性
   どれほど多くの可能性が自分に開かれているか(この可能性を数える方法は印象主義的な方法以上のものではありえないが。行動の可能性は、あますことなく枚挙することのできるリンゴのような個々の実在ではない。)
  (b)可能性が意志と行為で変えられるか否か
   人間の行為によってこれらの可能性がどれほど閉じられたり、開かれたりするか。
  (c)各個人にとっての実現の難易度
   これらの可能性のそれぞれを現実化することがどれほど容易であるか、困難であるか。
  (d)各個人にとっての価値・重要度
   性格や環境を所与のものとするわたくしの人生設計において、これらの可能性が、相互に比較されたとき、どれほど重要な意義をもつか。
  (e)社会にとっての価値・重要度
   行為者だけでなく、かれの生活している社会の一般感情が、そのさまざまな可能性にどのような価値をおくか。
 (1.4)いかに自由でも、最低限放棄しなければならない自由
  (a)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由は、すべての個人が持つ権利である。
  (b)従って、その自由を奪いとることは、他のすべての個人に禁じられなければならない。
 (1.5)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由
   (a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)これを放棄すれば人間本性の本質に背くことになる自由は、放棄することができない。
  (b)では、人間本性の本質とは何か。自由の範囲を定める規準は、何か。
   自然法の原理、自然権の原理、功利の原理、定言命法、社会契約、その他の概念
  (c)個人の自由は、文明の進歩のために必要である。
   (i)文明の進歩の源泉は個人であり、個人の自発性、独創性、道徳的勇気が、真理や変化に富んだ豊かなものを生み出す。
   (ii)これに対して、集団的凡庸、慣習の重圧、画一性への不断の傾向が存在する。あるいはまた、公的権威による侵害、組織的な宣伝による大量催眠など。
  (d)自分で善しと考えた目標を選択し生きるのが、人間にとって一番大切で本質的なことである。
   仮に、本人以外の他の人が、いかに親切な動機から、いかに立派な目標であると思えても、その目標以外の全ての扉を本人に対して閉ざしてしまうことは、本人に対して罪を犯すことになる。

 「わたくしの自由の程度は次のような諸点によって定められると考えられる。

 (a)どれほど多くの可能性が自分に開かれているか(この可能性を数える方法は印象主義的な方法以上のものではありえないが。行動の可能性は、あますことなく枚挙することのできるリンゴのような個々の実在ではない。)、

 (b)これらの可能性のそれぞれを現実化することがどれほど容易であるか、困難であるか、

 (c)性格や環境を所与のものとするわたくしの人生設計において、これらの可能性が、相互に比較されたとき、どれほど重要な意義をもつか、

 (d)人間の行為によってこれらの可能性がどれほど閉じられたり、開かれたりするか、

 (e)行為者だけでなく、かれの生活している社会の一般感情が、そのさまざまな可能性にどのような価値をおくか。

 以上すべての諸点が「統合」されなければならぬ。したがって、その統合の過程から引き出されてくる結論は必然的に正確なもの、異論のないものではありえない。

おそらく数えきれないほどに多数の自由の段階があり、いかに頭をひねってもこれをひとつの尺度で測ることはできないであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,p.24,註**,みすず書房(1966),生松敬三(訳))

(索引:可能性の程度,可能性の種類・多様性,可能性の意志依存性,実現の難易度,可能性の価値・重要性)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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私有財産制は,(a)歴史的経緯,(b)財産の不均等を生ずる自然な傾向,(c)産業の発展に比べて遅れている社会制度によって,その理念である(a)自らの努力と労働の成果の保証と,(b)努力と報酬の比例原則が実現できていない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

私有財産制の理念

【私有財産制は,(a)歴史的経緯,(b)財産の不均等を生ずる自然な傾向,(c)産業の発展に比べて遅れている社会制度によって,その理念である(a)自らの努力と労働の成果の保証と,(b)努力と報酬の比例原則が実現できていない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)現在の如きものでない理想的の私有財産制
 (1.1)自らの努力と労働の成果の保証
  私有財産制とは、人々にその労働及び制欲の成果を保証するものである。
 (1.2)努力と報酬の比例原則
  私有財産制を弁護する説の根底には、報酬と努力との比例いう公平の原則がある。
 (1.3)財産の不均等と機会不均等の軽減
  私有財産制からは、財産の不均等と機会不均等とが、自然と生ずる傾向がある。これを軽減する努力が必要である。
(2)私有財産制の現状
 (2.1)他人の努力の成果を受け取ること
  何の功も努力もないのに、他人からその勤倹の成果を人が受けた場合、この人にこの成果をば保証してやるということは、私有財産制の本来のつとめではなく、ただ偶然の事柄であるに過ぎない。
 (2.2)労働の所産は、労働の分量に殆ど反比例して、分配されている。
  (a)全く労働しなかった人に、最も多く分け与えられる。
  (b)殆ど労働をしなかった人に、之に次いで多く分け与えられる。
  (c)労働の苛烈を加うるにしたがって、その受くる報酬は益々少なくなる。
  (d)最も精魂を涸らすような筋肉労働に至っては、露命をつなぐだけの報酬を得ることさえ不確実となる。
 (2.3)現在の状態に至る原因
  (a)現代のヨーロッパ社会のはじめの財産の振当ては、制服や略奪が許されていた時代の遺産である。
  (b)私有財産制からは、財産の不均等と機会不均等とが、自然と生ずる傾向がある。そして、産業は幾世紀にわたって発展し、その働きを変えて来た。
  (c)それにも拘わらず、社会制度は相変わらず大要もとのままである。
   (i)断じて財産としてはならない財産も存在するが、これに所有権が認められている。
   (ii)また単に有限所有権をのみ認むべき財産も存在するが、これに絶対所有権が認められている。
 「長所を悉く備えた場合の共産制と、苦痛・不正を伴える現今の私有財産制と、そのいずれを可とすべきか。私有財産制の現状を見るに、労働の所産は、労働の分量に殆ど反比例して、分配されている。――すなわち、労働の所産は、全く労働しなかった人に最も多く分け与えられ、殆ど労働をしなかった人に之に次いで多く分け与えられ、およそかくの如く、労働の苛烈を加うるにしたがってその受くる報酬は益々少なくなり、最も精魂を涸らすような筋肉労働に至っては、露命をつなぐだけの報酬を得ることさえ不確実である。かような場合の私有財産制と、最も好都合な場合の共産制と、そのいずれを取るかとなれば、共産制の大小すべての弱点を合わしても現時の私有財制の弱点とは全然くらべものにならぬほど軽少である。しかし、共産制と私有制とを正当に比較するには、最良の状態の共産制と、現在の如きものでない理想的の私有制とを比較しなくてはならない。抑々私有財産の主義は、未だどの国に於いても正しい試験をされたことはない。恐らく殊に我国に於いてそうである。現代のヨーロッパ社会のはじめの財産の振当ては、公平な配分によったものでもなければ勤労の結果でもなく、制服や略奪の結果である。その後産業は幾世紀にわたってそのはたらきを変えて来たが、それにも拘わらず、社会制度は相変わらず大要もとのままである。財産上の法規にして正当な私有財産主義に則ってつくられたものは未だ一つもない。これらの法規は、断じて財産としてはならないものをば財産となし、単に有限所有権をのみ認むべきものに絶対所有権を認めておる。これらの法規は、各人に公平な規定ではなくて、或る人々に害を与えるのもかえりみず他の人々に利を与えるものである。そうしてわざと不平等を大きくし、人生のスタートの公平を妨害した。なるほど、どのような私有財産法規といえども、万人のスタートを完全に平等にするということはできない。しかし、私有財産主義から自然に生ずる機会不均等をばわざわざ骨折って加重するようなことをせず、その骨折りを転じて、私有財産主義そのものを破壊せずに而も機会不均等を軽減するということに向けたならば、果たしてどうであったか。すなわち、もし立法者が、富の集中を排して富の分散を奨励し、巨富を山積させるようにつとめず之を小分するように奨励したならば、果たしてどうであったか。この場合には、殆どすべての社会主義述作家の断定に反し、必ずしも物的社会的弊害を伴わなかったであろう。
 私有財産制を弁護する者はみなおもえらく、私有財産制とは人々にその労働及び制欲の成果を保証するものであると、随って、何の功も努力もないのに他人からその勤倹の成果を人が受けた場合、この人にこの成果をば保証してやるということは、私有財産制の本来のつとめではなくただ偶然の事柄であるに過ぎない。しかもこのような保証が或る程度に達すると、私有財産を正当にしないで不当のものとするようになる。抑々およそ私有財産制を弁護する説の根底には、報酬と努力との比例するという公平の原則があると見るべきである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『経済学原理』,第2篇 分配,第1章 財産,3 共産主義の吟味,pp.18-20,春秋社(1939),戸田正雄(訳))
(索引:私有財産制,労働の成果の保証,努力と報酬の比例原則,財産の不均等と機会不均等の軽減)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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