2022年2月24日木曜日

この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配の最も深遠なる遺産とは、合理的・技術的手段と、それが奉仕する根本的には不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識であるかのように見せかけてきたことにある。何らかの実現手段と、それとは別の自由な価値、または実現手段が価値を主張してくる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

合理的・技術的手段と目的、価値

この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配の最も深遠なる遺産とは、合理的・技術的手段と、それが奉仕する根本的には不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識であるかのように見せかけてきたことにある。何らかの実現手段と、それとは別の自由な価値、または実現手段が価値を主張してくる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)不合理な目的と合理的・技術的手段との分裂
 公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率的手段を見出すことのできる自らの能力に、誇りをおぼえている。その目標が、文化的繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。
(b)何らかの実現手段と、別の自由な目的
 人間は、豊かになるため市場に足を向け、そのための最も効率的な計算をすると想定されている。だが、いったん貨幣を手にしたら、それを使って何をしようがかまわないとも想定されている。
(c)自由な目的と、その実現手段
 ほとんどの時代や地域で、人の振る舞う方法は、その人の本質の根本的表現であると見做されている。すなわち、目的があって、それを実現するための手段と行為がある。
(d)何らかの実現手段が価値を主張する
 二つの領域、すなわち技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他方の領域に侵入を試み始めるかのようにみえる。合理性ないし効率性はそれ自体価値である、それらは究極の価値ですらある、我々は「合理的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間が現れるのだ。
(e)実現手段から切り離された目的
 その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間も現れる。しかし、こうした運動はすべて、自らが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのである。



「この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配のもっとも深遠なる遺産とは、合理 的・技術的手段とそれが奉仕する根本的には不合理な目的のあいだの直感的分裂を、あたかも 常識であるかのようにみせかけてきたことにある。まず国家レベルでこのことはいえる。そこ で公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率 的手段をみいだすことのできるみずからの能力に、誇りをおぼえている。その目標が、文化的 繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。それとおなじことが個 人レベルでもあてはまる。そこでは、人間は、豊かになるため市場に足をむけ、そのための もっとも効率的な計算をすると想定されている。だが、いったん貨幣を手にしたら、マンショ ンを買おうが、レースカーを買おうが、消えたUFOの探索費用にあてようが、あるいは、子ど もに気前よくばらまこうが、それを使ってなにをしようがかまわないとも想定されている。こ うしたことはあまりに自明視されているので、これまで歴史的に存在してきたほとんどの人間 社会では、そうした分裂が考えられもしなかったことなど、想起するのもむずかしい。ほとん どの時代や地域で、ひとのふるまう方法[ひとのとる手段]は、そのひとの本質[目的]の根 本的表現であるとみなされているのである。しかし、このように二つの領域――技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域――に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他 方の領域に侵入を試みはじめるかのようにみえる。合理性ないし効率性はそれ自体価値であ る、それらは究極の価値ですらある、われわれは(それがなにを意味していようと)「合理 的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間があらわれるのだ。その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間もあらわれる。しかし、こうした運 動はすべて、みずからが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのであ る。」

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.54-56,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






個人の自由の保護には、規則に縛られた組織が必要である。官僚制国家は、個人の自由のために正当化され、現在のシステムも、消費を介した個人の自己実現のためとされている。しかし、合理的な効率性が貢献する真の目的は何なのか、また個人の自由はシステムの枠内のみで追求されるものなのか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

規則に縛られた組織と個人の自由

個人の自由の保護には、規則に縛られた組織が必要である。官僚制国家は、個人の自由のために正当化され、現在のシステムも、消費を介した個人の自己実現のためとされている。しかし、合理的な効率性が貢献する真の目的は何なのか、また個人の自由はシステムの枠内のみで追求されるものなのか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)諸個人の自由と規則に縛られた組織との関係についての楽観的な見方
 19世紀、官僚制国家の権威主義的手段は、個人の財産の保護と個人の自由のために正当化された。官僚制的資本主義がアメリカ合衆国に現れたとき、同じように消費主義的基礎に基づいて正当化された。非人格的で規則に縛られた組織と、絶対的に自由な自己表現のあいだには、つねに相乗効果があると想定されていた。
(b)消費を介した個人の自由な自己実現
 市場と官僚制が究極的にはおなじ言葉を語るもうひとつの場所がここである。市場も官僚制も、個人の自由、そして消費を介した個人の自己実現のためにある、と述べた。
(c)目的と目標の隠蔽手段としての合理性
 合理的な効率性について語ることは、その効率性が実際には何のためのものかを語ることを回避する手段と化している。つまり、人間行動の究極の目的(ends)と、想定されている究極的には不合理な目標(aims)について語ることの回避である。


「いいかえれば、合理的な効率性について語ることは、その効率性が実際にはなんのための ものかを語ることを回避する手段と化している。つまり、人間行動の究極の目的(ends)と想 定されている究極的には不合理な目標(aims)について語ることの回避である。市場と官僚制 が究極的にはおなじ言葉を語るもうひとつの場所がここである。市場も官僚制も、個人の自 由、そして消費を介した個人の自己実現のためにある、と述べた。ヘーゲルやゲーテのような 19世紀プロシアの官僚制国家の支持者にとって、その権威主義的手段が正当化されうるのは、 みずからの財産が絶対的に保護されていること、それゆえみずからの住居ではなんでも意のま まに自由にできることが市民に許容されているがゆえであった。意のままに自由にできるとい うことの意味するところが、芸術、宗教、情事、哲学的思弁などを追求することであろうが、 あるいはたんに、どのビールを飲むか、どんな音楽を聴くか、どんな服装を着るかをじぶんで 決定することであろうと。官僚制的資本主義がアメリカ合衆国にあらわれたとき、おなじよう に消費主義的基礎にもとづいて正当化された。労働者だって、もっと種類があって、もっと安 価に家庭むけ商品が買えるのなら、労働条件の[労働者自身による]統制を放棄して当然だろ う、と、このように要求を正当化できるのである。非人格的で規則に縛られた組織――公的領域 であろうと生産領域であろうと――と、クラブやカフェ、台所、家族旅行における絶対的に自由 な自己表現のあいだには、つねに相乗効果があると想定されていた(最初はもちろんこの自由 は世帯の家父長に限定されていたが、しだいに、少なくとも原則的には万人に拡がった)。」 

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.53-54,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






政治は、究極的には価値にかかわるものである。しかし、巨大な官僚制システムを構成する人びとが、その価値が本当には何なのかを認めることはほとんどない。彼らは、自らの行動を効率性や合理性、技術的有効性のもとに正当化するが、投資家の利潤の保障という目的は隠蔽される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

効率性や合理性、技術的有効性とは

政治は、究極的には価値にかかわるものである。しかし、巨大な官僚制システムを構成する人びとが、その価値が本当には何なのかを認めることはほとんどない。彼らは、自らの行動を効率性や合理性、技術的有効性のもとに正当化するが、投資家の利潤の保障という目的は隠蔽される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「グローバル・ジャスティス運動が教えてくれるひとつのことがらは、政治は究極的には価 値にかかわるものであること、とはいえ、巨大な官僚制システムを構成する人びとがその価値 が本当にはなんなのかを認めることはほとんどない、ということである。このことは、現代の カーネギーたちにもあてはまる。ふつう、かれらは――20世紀の変わり目の泥棒男爵とおなじよ うに――、みずからの行動を効率性や「合理性」のもとに正当化するだろう。しかし、実際に は、こうした言葉はつねに、故意にあいまいにされている、あるいは無意味なものにされてい ることがわかる。「合理的」人間とは、基本的な論理の結合をなすことができ、現実を錯乱し ていない仕方で評価できるような人間を指す。いいかえれば、イカれていない人間のことであ る。みずからの政治を合理性に基礎づけると宣言する者は、みな――そしてこれは右翼にも左翼 にもあてはまるのだが――じぶんに同意しない人間は正気ではないと宣言しているのであり、こ れはひとが取りうるもっとも傲慢なポジションである。さもなくば、かられは、「合理性」を 「技術的有効性」とおなじ意味で用いることで、じぶんたちが《いかにして》物事に取り組ん でいるのかのみを語る。というのも、じぶんたちが究極的に取り組んでいるのは《なにか》に ついて語ることを望まないからである。このようなやり口にかけて、新古典派経済学は悪名高 い。国政選挙に投票するのは「不合理」である(個人の投票者が見込みうる利益よりも、その 努力の方が高くつくがゆえに)と、経済学者が証明しようと試みるとき、かららがこのような 物言いをするのは、「市民的参加や政治的理念、共通善それ自体には価値をおかない者、か つ、公共の事業を個人的利得の観点からしか考えない者にとってのみ不合理である」とはいい たくないためである。投票を通してみずからの政治的理想を促進させるべく最良の方法を合理 的に計算する、といったことが不可能である、とみなす理由はまったく存在しない。しかし、 くだんの経済学者たちの想定によるならば、このような道筋をとる者はだれしもイカれている ということになるのだ。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.52-53,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






「自由貿易」や「自由市場」とは実際には投資家にとっての利潤取得の保障を主要に狙う、グローバルな行政機構の形成のことであり、「グローバリゼーション」の本当の意味は官僚制化である。このシステムの諸基礎は1940年代に構築され、冷戦の衰退とともに真に実効的となった。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

自由貿易、自由市場とは何か

 「自由貿易」や「自由市場」とは実際には投資家にとっての利潤取得の保障を主要に狙う、グローバルな行政機構の形成のことであり、「グローバリゼーション」の本当の意味は官僚制化である。このシステムの諸基礎は1940年代に構築され、冷戦の衰退とともに真に実効的となった。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


 
(a)国際機関、官僚組織
 頂点には、NAFTAのような条約機構やEUとともに、 IMF、世界銀行、WTO、そしてG8諸国のような貿易にかかわる官僚組織がある。グローバルサウスのいわゆる民主的な政府も従っている経済政策、社会政策を展開させているのは、これらの組織である。
(b)金融会社
 トップのすぐ下には、ゴールドマン・サックス、リーマンブラ ザース、アメリカ保険グループのようなグローバルに展開する大規模金融会社、それに加え て、スタンダード&プアーズのような諸組織がある。
(c)超国家的巨大企業
 その下には、超国家的巨大企業がやってくる。「国際貿易」と呼ばれるものの多くが、実際には、同じ企業のさまざまな部門のあい だの、物資のやりとりを意味している。
(d)NGO
 最後に、NGOがあって、世界のさまざまな場所で、 かつては政府によっていた社会的サーヴィスの多くを担うようになった。その結果、ネパール にある市街の都市計画とかナイジェリアのある小さな町の保健政策が、チューリッヒやシカゴ の事務所で練られることになるわけである。


「グローバリゼーションとは、新テクノロジーによって拓かれた平和的貿易という自然のプ ロセスではない。「自由貿易」とか「自由市場」といった用語でもって語られてきたものの内 実は、地球規模の行政官僚システムの世界初の実質的な完成であり、それも自覚的にもくろま れたくわだてであった。このシステムの諸基礎が構築されたのは1940年代であるが、真に実効 的となったのは冷戦の衰退とともにはじめてである。この過程のなかで、それらはしばしば概 念上においてすらまったく区別できない、公的要素と私的要素の徹底した絡み合いからなるよ うになった。同時期に形成された、それ以外のほとんどのより小規模の官僚制システムも同様 であった。次のように考えてみよう。頂点には、NAFTAのような条約機構やEUとともに、 IMF、世界銀行、WTO、そしてG8諸国のような貿易にかかわる官僚組織がある。グローバルサ ウスのいわゆる民主的な政府もしたがっている経済政策――社会政策すらも――を展開させている のは、これらの組織である。トップのすぐ下には、ゴールドマン・サックス、リーマンブラ ザース、アメリカ保険グループのようなグローバルに展開する大規模金融会社、それに加え て、スタンダード&プアーズのような諸組織がある。その下には、超国家的巨大企業がやって くる(「国際貿易」と呼ばれるものの多くが、実際には、おなじ企業のさまざまな部門のあい だの、物資のやりとりを意味している)。最後に、NGOがあって、世界のさまざまな場所で、 かつては政府によっていた社会的サーヴィスの多くを担うようになった。その結果、ネパール にある市街の都市計画とかナイジェリアのある小さな町の保健政策が、チューリッヒやシカゴ の事務所で練られることになるわけである。  当時、わたしたちは、事態について、まったくこうした観点から把握してはいなかった。つ まり、「自由貿易」や「自由市場」とは実際には投資家にとっての利潤取得の保障を主要に狙 うグローバルな行政機構の形成のことである、とか、「グローバリゼーション」の本当の意味 は官僚制化である、という観点である。ときに、その地点にまで接近はした。しかし、それを 明確に理解し、表現することはめったになかったのである。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.41-42,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)








投資家の利潤取得を保障するために、規則と規制の網で、公的権力と私的権力とを徐々に融合して単 一の統一体を形成してゆく。その際、規制緩和とラベリングされるが、それは官僚制の縮小でも、個人の創意工夫の解放でもなく、自らに都合の良い規制に公的権力を改変できる「緩和」である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

全面的官僚制化、略奪的官僚制化

投資家の利潤取得を保障するために、規則と規制の網で、公的権力と私的権力とを徐々に融合して単 一の統一体を形成してゆく。その際、規制緩和とラベリングされるが、それは官僚制の縮小でも、個人の創意工夫の解放でもなく、自らに都合の良い規制に公的権力を改変できる「緩和」である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)全面的官僚制化(total bureaucratization)もしくは略奪的官僚制化 (predatory bureaucratization)
 利潤の形態で富を取得するために、規則と規制の網で、公的権力と私的権力とを徐々に融合して単 一の統一体に形成してゆく過程である。
(b)規則と規制の網、法律家
 その結果、処理すべき書類、仕上げるべき報告書、解釈に法律家を必要とする規則や規制、そして、あれこれは認められないことの理由の説明がその仕事のすべてであるかのような、オフィスの何にでも口を出す人々の実数 が5倍以上上昇した。

(c)規制緩和という言葉のほんとうの意味
 規制緩和という用語は、ほとんど何でも意味することができる。新しい規制手段に「規制緩和」とラベリング することで、あたかもそれが官僚制を縮小させ、個人の創意工夫を解放するものであるかのよ うに、世論にみせかけることができるのだ。
(d)規制緩和の例、航空業や遠距離通信業
 1970年代や 80年代における航空業や遠距離通信業の場合、二、三の大企業に保護を与える規制のシステム から、中規模企業のあいだの厳しく監督された競争を促進させるような規制のシステムへと転 換させることを意味していた。
(e)規制緩和の例、銀行業
 銀行業の場合、「規制緩和」はふつう、その正反対を意味して いる。すなわち、中規模企業のあいだの管理された競争という状況から、少数の金融コングロマ リットが完全に市場を支配することができるような状況への移行である。




「「規制緩和」が人の口にのぼるとき、それはいったいなにを指しているのだろうか? 一 般的用法では、この言葉は「オレ好みに規制の構造を変える」ということを意味しているよう にみえる。実際のはなし、この言葉はほとんどなんでも意味することができる。1970年代や 80年代における航空業や遠距離通信業の場合、二、三の大企業に保護を与える規制のシステム から、中規模企業のあいだの厳しく監督された競争を促進させるような規制のシステムへと転 換させることを意味していた。銀行業の場合、「規制緩和」はふつう、その正反対を意味して いる。すなわち、中規模企業のあいだの管理された競争という状況から少数の金融コングロマ リットが完全に市場を支配することができるような状況への移行である。規制緩和という用語 を好都合なものにしているのはこれである。あたらしい規制手段に「規制緩和」とラベリング することで、あたかもそれが官僚制を縮小させ、個人の創意工夫を解放するものであるかのよ うに、世論にみせかけることができるのだ。たとえその結果、処理すべき書類、仕上げるべき 報告書、解釈に法律家を必要とする規則や規制、そして、あれこれは認められないことの理由 の説明がその仕事のすべてであるかのような、オフィスのなんにでも口を出すひとびとの実数 が5倍以上上昇したとしても、である。  この過程には、いまだ名前が与えられていない。公的権力と私的権力とが徐々に融合して単 一の統一体――その究極の目的を利潤の形態で富を取得することにおく規則と規制でいっぱいの ――を形成する過程である。この名前を与えられていないということそれ自体が重大である。上 記のような諸事態が生じるのも、その大部分が、わたしたちがそれをどう語るか、その方法を いまだもたないがゆえである。ところが、その帰結については、生活のあらゆる側面におい て、わたしたちは眼にすることができる。わたしたちの日常を、ペーパーワークでいっぱいに してくれているのだ。申請用紙はますます長大かつ複雑なものと化している。申請書、切符、 スポーツクラブや読書クラブの会員証のような日常的書類も、数頁にわたる細目の規定でパン パンになっている。  それでは名称を与えてみよう。わたしは、このような様相を呈している現代を、「全面的官 僚制化(total bureaucratization)」の時代と呼んでみたい(「略奪的官僚制化 (predatory bureaucratization)」と呼んでみたい誘惑にもかられたが、ここでわたし が強調したいのはこの野獣のもつ、すべてを包摂してしまうような性格である)。その最初の 徴候は、まさに官僚制についての公共の議論が消えはじめた1970年代の終わりにあらわれはじ め、1980年代に取り返しがたく浸透をはじめた。だが本当の離陸は、1990年代である。」 

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.23-25,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






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