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2020年4月9日木曜日

37.実験は、複雑になり測定の間接性が増し、また精度と客観性の度合いも増しているが、量子論が知られる前後で、実験の本質は何も変わらない。実験の設定、結果の解釈は、もちろん理論に依存するが、これも昔から同じである。(カール・ポパー(1902-1994))

量子論で、実験の概念が変わったか

【実験は、複雑になり測定の間接性が増し、また精度と客観性の度合いも増しているが、量子論が知られる前後で、実験の本質は何も変わらない。実験の設定、結果の解釈は、もちろん理論に依存するが、これも昔から同じである。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「ハイゼンベルクも同様だ。「……科学の伝統的な要請によれば、……この世界を主観と客観(観測者と観測されるもの)に分けることができる。……この仮定は、原子物理学では許されない。つまり、観測者と対象の相互作用は、観測されている系に制御不可能な大きな変化を引き起こす。これは、原子レベルの過程に特有の不連続な変化のためである。」したがって、ハイゼンベルクは、「この世界の主観的な面と客観的な面を区別することが困難だというこの基本的な議論は、認識論にとってきわめて重要であるから、いま、これを振り返ってみるのは有益である」と主張する。
 こうしたこととは反対に、わたくしは、物理学者は実際上、1925年以前と根本的に同じやり方で測定し、実験しているのだと指摘したい。重大な違いがあるとすれば、「客観性」の度合いも増したが、それと同じくらいに測定の間接性の度合いも増したということくらいである。3、40年まえであれば、シンチレーションの計測などを「記録」するのに、物理学者は顕微鏡を通して見ていたが、いまでは写真乾板や自動計測器があり、「記録」はそれらがやっている。そして、写真フィルムや計数管の読みは(あらゆる実験、観察が理論に照らして解釈されなければならないように)解釈を必要とするものの、われわれが理論的に解釈したからといって、それらが物理的に「干渉され」たり、「影響を受け」たりすることなどあるわけがない。たしかに、実験的テストの多くは、いまでは大部分が統計的な性格のものだが、だからといって実験の「客観性」が劣るわけではない。それらの統計的な性格(それらは計数管やコンピュータによって自動的に処理されることが多い)は、観測者や主観や意識などの物理学への侵入などと言われているものとはなんの関係もない。対照的に、実験の処方や設定は、これまでいつでも、われわれの知識が変化することと大いに関係があったし、また、いまでもそうである。つまりそれは、《理論に依存する》のである。
 《理論》は、実験を設定し、その結果を解釈するさいの案内役となるが、もちろん、われわれが考案したものである。それは、われわれの「意識」が考案した産物である。けれどもこのことは、科学におけるその理論の位置づけとはなんの関係もない。理論の位置づけは、その単純性、対称性、説明力、そして批判的討論や決定的な実験的テストに理論がいかに耐えているかということに依存する。またそれが真理であるか(実在との一致)、あるいは真理にどれだけ近いかに依存する。」
(カール・ポパー(1902-1994),『量子論と物理学の分裂』,序論,序章「観測者」なき量子力学,1 量子論と「観測者」の役割,pp.54-55,岩波書店(2003),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:)

量子論と物理学の分裂


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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36.私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。(カール・ポパー(1902-1994))

実在の一つのとらえ方

【私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。(カール・ポパー(1902-1994))】
 (6.2)観察と実験の役割
  観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えることができる。
  私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。
 「このように理論とは、われわれ自身の発明であり、アイデアなのである。この点は、観念論的認識論者にはよくわかっていた。だが、そのなかには、実在と衝突するほど大胆な理論もある。それらは、テスト可能な科学理論である。じっさいに衝突すると、そこには実在があるのだとわかる。それは、われわれの考えがまちがっていると教えてくれるなにかである。これこそ、実在論者が正しい理由なのである。
 (なお、この種の情報、つまり実在による理論の却下とは、わたくしの見るところでは、実在から得ることができる唯一の情報である。これ以外はみな、われわれのつくりものである。こう考えれば、理論はすべて人間の見方によって色づけされているのに、なぜ研究が進むにつれてだんだん歪みが少なくなっていくのかがわかる。)」
(カール・ポパー(1902-1994),『量子論と物理学の分裂』,序論,序 1982年 量子論の実在論的で常識的な解釈について,pp.6-7,岩波書店(2003),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:実在,真でないこと,観察と実験)

量子論と物理学の分裂


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2020年4月4日土曜日

30.理論は、普遍的に成立する真理を探究し、真理は想像を超える未知の出来事を予測できる豊かさを持ち、経験の理解を助ける。予測は有用なだけでなく、偽なる理論を排除するために必要なものと考えられている。(カール・ポパー(1902-1994))

道具主義的な計算規則と理論との違い

【理論は、普遍的に成立する真理を探究し、真理は想像を超える未知の出来事を予測できる豊かさを持ち、経験の理解を助ける。予測は有用なだけでなく、偽なる理論を排除するために必要なものと考えられている。(カール・ポパー(1902-1994))】

 (a)論理的構造が異なる
  限定された目的のための計算規則なのか(道具主義)、普遍的に成り立つことを推測として主張しているか(理論)の違いがある。2つ以上の理論体系の間には、演繹体系内における論理関係があるが、2つ以上の計算規則の間には、この関係があるとは限らない。理論に基づいて、限定された目的の計算規則を導出することはあり得るが、逆はあり得ない。
 (b)有用なのか、真理なのか
  有用なので選ばれているのか(道具主義)、真理なので選ばれているのか(理論)の違いがある。
 (c)応用可能性の限界なのか、反証なのか
  応用可能性の限界があっても使われるのか(道具主義)、反証されると破棄されるのか(理論)の違いがある。
 (d)適用可能領域の変更なのか、反証なのか
  適用可能領域の変更があっても破棄されないのか(道具主義)、適用の失敗が反証事例と考えられるのか(理論)の違いがある。
 (e)特殊化する傾向があるか、一般化する傾向があるか
  ますます特殊化する傾向があるか(道具主義)、ますます一般化する傾向があるか(理論)の違いがある。実用的な観点からは、道具は手もとの特殊な目的にとってもっとも便利なものであることが望まれる。
 (f)論理的に異なる理論への態度が異なる
  実際的な応用が予測できるかぎりでは、いまのところ、両者の区別がつかないといったケースの場合、2つの理論がその適用領域で同じ結果をもたらすなら、それらは等しいと考えるのか(道具主義)、2つの理論が論理的に異なっていれば、異なった結果が生じるような適用領域を見つけ出そうとするか(理論)の違いがある。
 (g)未知の出来事の予測の有無
  既知の出来事をうまく予測しようとするだけなのか(道具主義)、決して誰も考えもしなかったような出来事が予測されることがあり得ると考えるのか(理論)の違いがある。理論では、もしこれが「真理」であるならば、このようなことが生じるはずだという予測がある。
 (h)道具以上の何らかの情報内容
  すなわち、理論には、道具としての能力を超えて、何らかの情報内容がある。
 (i)「真なる」理論は、経験の理解へ導く
  計算規則は経験を再現しようとするが、理論は経験を「解釈する」助けになる。
 (j)予測は「偽なる」理論を排除する
  予測は実用的な価値のみならず(道具主義)、「偽なる」なる理論を除去する。



 「さて、これからぬを述べてみよう。

 (1) 理論の論理構造は、計算規則の論理構造とは異なる。また、二つ以上の理論体系間の論理関係は、二つ以上の計算規則の体系間の論理関係とは異なる。そして、一方の理論と、他方の計算規則のあいだの関係は対称的ではない。

 この点を十分に論じなくても、理論は演繹体系であって、どこでもいつでも成り立つことを推測として主張している、と言っておくことはできる。

計算規則は表のかたちで表わせるが、限定されたじっさいの目的を念頭において組み立てられている。だから、低速の船舶にとって役に立つ航海上の規則は、高速の航空機にとっては役に立たないかもしれない。

(たとえば、航海の)計算規則は、(たとえば、ニュートンの)理論にもとづいているかもしれないが、逆にどんな理論も計算規則にはもとづいてはいないのである。

 しかしながら、この議論ではまだ決定的ではない。理論はそれ自体は栄誉ある計算規則のようなものであり、それは上位の規則として使われて、より特殊な計算規則を引き出すのだと、依然として言われるかもしれない。

 (2) 計算規則は、ただその有用性のためにだけ選ばれている。理論は偽であるかもしれないが、それでも計算という目的にとっては役に立つかもしれない。

たとえば、ニュートンの理論とか、ニュートンの理論と電磁波にかんするマクスウェルの(ヘルツの)理論との連言は、反証されていると考えることができる。それでも、航海に使われている計算規則(航海のレーダーも含めて)はこれら二つの理論を基礎にしつづけるべきではない、と考える理由などどこにもない。

 (3) 理論をテストするときは、それらを反証しようと試みなければならないが、道具を試すときには、その応用可能性の限界を知るだけでよい。

理論が反証されれば、いつでもよりよい理論が探し求められる。しかし道具は、その応用可能性に限界があるからといって、拒否されたりはしない。そうした限界が見つかることは予想されていることである。

機体の「破壊テスト」がおこなわれた場合、破壊に成功したからといって、その型の機体がテストのあとで放棄されたりはしない。もし放棄されるとすれば、それは、その応用可能性の限界がほかの方の機体よりも狭かったからであって、たんにそうした限界があるからではない(普遍理論であったら、こうした理由からだけでも放棄されるのだが)。

 (4) 理論の応用はテストと見なせるが、期待した結果をうみ出すのに失敗すれば、やがて理論の却下へといたるかもしれない。だがこのことは、ほとんどの場合、計算規則やそのほかの道具にはあてはまらない。

なんらかの失敗(たとえば、航空上の伝統的な航空規則の失敗)は、そうした規則がある一定の領域に適用可能だろうという理論的推測の却下につながるかもしれないが、それらの規則はほかの諸領域で使われつづけるだろう。(一輪の手押し車は、トラクターと並んで生き残るだろう。)

 (5) 一方で理論はますます一般化し、他方で(コンピュータも含めて)道具はますます特殊化するとうはっきりとした傾向がある。

この後者の傾向は、道具主義によってあきらかにすることができる。実用的な観点からは、道具は手もとの特殊な目的にとってもっとも便利なものであることが望まれる。だから、理論家の関心と目的は、コンピュータ・エンジニアの関心と目的とは異なるだろう。

 (6) 興味深いのは、目のまえに二つの理論があって、実際的な応用が予測できるかぎりでは、いまのところ、両者の区別がつかないといったケースだろう。

道具と計算規則は、ある与えられた適用領域のために設計されているからである。だから、「適用の容易さ」といったほかのことは等しいとして、二つの理論がその適用領域で同じ結果をもたらすなら、道具主義者は、それらは等しく役に立つと言わざるをえないことになる。

だが、理論家は別なふうに考える。もし、二つの理論が論理的に異なっていれば、理論家は異なった結果が生じるような適用領域を《見つけ出そう》とするだろう――たとえ、だれひとりとして以前にその領域に興味を示さなかったとしても。

理論家がそうしようとするのは、それによって二つのうちの一方を反証する決定的実験が得られるかもしれないからである。そのようにして、経験の新しい領域――以前にはだれも考えもしなかった領域――が理論によって開かれるかもしれない。 

もっとも、理論のこの(知的な)探検機構は、理論とは(探検船や顕微鏡のように)探究の道具だと言いつくろわれるかもしれない。

《だがそうであるなら、探究すべき実在があることを認めなければなるまい。そしてもしそうなら、それは真か偽として記述できる》――これは、まさにバークリー流の道具主義が否定したかったことである。」(中略)

 (7) このことによって、二つのタイプの予測(あるいは「予測」という語の二つの意味)のあいだの重要な区別が導かれるが、道具主義者にこの違いを認めることができないのはあきらかである。

ひとつのタイプは、たとえばつぎの日食――それが見える時刻や位置など――の予測とか、あるいはメンデルの栽培実験におけるさまざまな色のえんどう豆の数などの予測である。一般的に言うと、既知の種類に属する出来事の予測である。

もうひとつのタイプは、新しい理論が形成されるまでは、決してまともに考えられもしなかったような種類の出来事の予測である。それは、生じうることがいわば理論から教えられるような出来事である。」(中略)

「この種の予測は、ある新しい理論からたびたび生じるが、それは理論の発明者にとっても思いがけないことなのである。発明者は、たんに既存の理論にあったいくつかの困難を取り除こうとしただけだからである。

新しい理論は、新たな予期しなかった事実の世界を開いてくれる――あるいはおそらく、古い世界の新しい側面を開いてくれる。だが、道具主義の枠組みで、むりなくこの状況に対処することは難しいだろう。


 (8) 決定的な問題は、言うまでもなく、理論には、道具としての能力を超えて、なんらかの情報内容があるかどうかということである。先の論点に照らしてみると、これはほとんど否定できない。

というのも、もし理論から未知の種類の出来事についてなにか学べるならば、理論には(じっさいそうであるように)そうした出来事を《記述》できる能力がなければならないからである。」(中略)


 (9) 理論は、計算規則とは反対に、経験を《解釈する》助けになる。」(中略)

「われわれは、たえず理論によって経験を解釈している。ひどい味と臭いは腐った卵のせいだと解釈するし、横すべり――これは完全に理論的な用語である――は、自動車の異常で危険な動きを、地面とタイヤのあいだの摩擦が足りないからだとして《説明し》、解釈する。」(中略)

 (10) バークリー以来、道具主義者は予測を、科学におけるもっとも実用的な課題のひとつと考えてきた。予測の実用的な価値ははっきりしており、道具主義がそれを正当化する必要はない。

しかしながら理論家なら、科学にとっての予測の重要性を、予測が外から科学に課された課題と見なすことなく、自分自身のことばで説明することができる。理論家にとって予測が重要なのは、もっぱら、理論に対する予測の関係のためである。

つまり、理論家は《真なる》理論を探すことに関心を払っているからであるし、《予測はテストとして役に立ち、《偽なる》理論を除去するための機会を与えてくれるからである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,12 道具主義批判、道具主義と帰納の問題,(上),pp.161-166,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))

(索引:道具主義,計算規則,理論)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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29.形而上学的信念、宗教的信念、道徳的信念、科学的知識が「私の経験」から構築されると考える理論は誤っている。「私の」知識、信念は、それらが属する世界3との相互作用、能動的な学習と探究の成果の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3の所産としての自我

【形而上学的信念、宗教的信念、道徳的信念、科学的知識が「私の経験」から構築されると考える理論は誤っている。「私の」知識、信念は、それらが属する世界3との相互作用、能動的な学習と探究の成果の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))】

(6)自我、人格とは、世界3の所産である。
 (a)世界3の能動的な学習と、探究の成果の所産である。
  (i)例えば、科学的知識は「私の」知識ではない。
  (ii)宗教的信念、道徳的信念、形而上学的信念も、ある伝統を吸収した結果である。
  (iii)伝統のいくつかを自ら批判することは、「自分の知識」であると信じているものを形成するのに重要な役割を演じるであろう。
  (iv)そうした批判はほとんどいつでも、伝統の内部や、様々な伝統のあいだに不整合を発見することから引き起こされてくる。
  (v)自らの観察経験が伝統的理論を本当に反証する機会などめったにない。
  (vi)もちろん、「私自身の経験」による「個人的知識」は存在する。しかし、その経験を表現する言語の由来まで考えれば、完全に「私自身の経験」の結果だと言えるものなどほとんどない。
 (b)物質的環境との相互作用の所産である。
 (c)他者との相互作用の所産である。

 「こうしたことに対して、科学的知識は、まちがいなく《わたくしの》知識ではないと主張したい。

なぜなら、わたくしは、自分がいかになにも知らないかを知っているからである――「科学には知られている」が、自分の知らないことが(知りたいとは思うが)、じつになん千もあることを知っているからである。わたくしにとって(そしてほかのだれにとっても、と予想するが)、この事実は、それだけで科学的知識の主観主義的理論を拒否するのに十分である。

 しかし、たまたまわたくしが所有しているそうした科学的知識や常識的知識の断片でさえ、主観主義的な知識論においてあらかじめ考えられている図式にはあてはまらない。

そのような断片のなかには、完全に《わたくし自身の》経験の結果だと言えるものなどほとんどない。むしろ、それらの大部分は、一部には意識的に、一部には無意識のうちに、(たとえば、ある本を読むなどして)なんらかの伝統を自分で吸収した結果である。

そしてそれらの知識は、(たとえば宗教的信念とか、道徳的信念といった)形而上学的信念と同様、自分自身の観察結果と密接に結びついているわけではない。そうした形而上学的信念にしても、ある伝統を吸収した結果である。

どちらの場合でも、そうした伝統のいくつかをみずから批判することは、自分の知識であると信じているものを形成するのに重要な役割を演じるであろう。

しかし、そうした批判はほとんどいつでも、伝統の内部や、さまざまな伝統のあいだに不整合を発見することから引き起こされてくる。

(伝統と自分自身の観察経験のあいだに不整合を発見したから批判が呼び覚まされるなどということはほとんどない。というのは、みずからの観察経験が伝統的理論を本当に反証する機会などめったにないからである。)

 このように、科学的知識は《わたくしの》知識と同じものではない。そして、《わたくしの》知識であるもの――《わたくしの》常識的知識とか科学的知識――は、大部分、伝統や(望むらくは)なんらかの批判的思考を吸収した結果である。

 もちろん、「わたくしのもの」と呼べるかもしれない第三の種類の知識がある。インク瓶をどこに探せばよいか、自室のドアがどこにあるかをわたくしは知っている。鉄道の駅までの道も知っている。遅刻したときには靴紐が切れそうになることも知っている。

この種の(「個人的知識」とでも呼べるかもしれない)知識は、《わたくし自身の経験》からの結果なので、ほとんど伝統によるものではない。したがって、それは主観主義的理論によって思い描かれていた種類の知識にもっとも近い。

しかし、この「個人的知識」でさえ、その主観主義的理論には適合しない。なぜなら、それは――インク瓶、靴紐、鉄道の駅などといった、伝統を吸収することで学ばなければならない――伝統的なものごとについての常識的知識にぎっしり取り囲まれているからである。

もちろん、自分の観察、つまり目や耳は、この吸収の過程で大いに役に立つ。だが、主観主義的理論は、《自分の》知識から、さらには自分の観察経験から出発することを要求しているのだから、伝統の吸収過程は、主観主義的理論が思い描くものとは根本的に異なる過程となる。」

(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,9 なぜ主観主義的な知識論は失敗するのか,(上),pp.132-133,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:世界3の所産としての自我)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2018年9月23日日曜日

21.私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(カール・ポパー(1902-1994))

私以外のものが存在すること

【私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(カール・ポパー(1902-1994))】

参照: 私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 「他人の心の問題をめぐる議論は、近年、主として認識論の用語のもとで果てしなくつづいている。

それらの議論をすべて読んだわけではないので、他人の心の存在を擁護したわたくしの単純な議論をほかの人がすでに使っていたということもありえないわけではない(たぶんないと思うが)。

だが、その議論には十分満足している――というのもおそらく、この種の研究では、いつにせよどんな議論も決定的ではありえないと思われるからである。

 わたくしの議論とはこうである。

わたくしは、バッハやモーツァルトの音楽を自分で作曲したのではないし、またレンブラントの絵やボッティチェリの絵を自分で描いたわけでもないことを知っている。そんなことができるわけがない。わたくしには、そのようなことをする才能のかけらさえない。」(中略)

「しかし独我論の仮説ではこれらの創造物はみな、わたくし自身の夢の創造物となってしまう。それらは、みずからの想像力がうみ出した産物ということになろう。なぜなら、他人の心などないというのだから。

自分の心のほかにはなにもないというわけである。だがこれが真実でないのはわかりきっている。

 この議論は、もちろん決定的ではない。わたくしは、ことによると夢のなかで自分自身を過小評価(そして同時に過大評価)しているのかもしれない。
換言すれば、創造と言う範疇を適用してはいけないのかもしれない。

そうしたことはよくわかる。それにもかかわらず、以上の議論でまったく十分だと思っている。」
(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,7 形而上学的実在論,(上),pp.120-121,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:私以外のものが存在すること)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年9月17日月曜日

20.3種類の学習:(1)試みと誤りによる学習、推測と反駁による学習、(2)模倣による学習、伝統の吸収、(3)習慣形成による学習、反復そのものによる学習。(カール・ポパー(1902-1994))

3種類の学習

【3種類の学習:(1)試みと誤りによる学習、推測と反駁による学習、(2)模倣による学習、伝統の吸収、(3)習慣形成による学習、反復そのものによる学習。(カール・ポパー(1902-1994))】

3種類の学習
(1)試みと誤りによる学習、推測と反駁による学習
 (a)新しい情報の獲得、すなわち新しい事実や新しい問題の発見、問題に対する新しい解決の発見をもたらす学習である。
 (b)解こうとしている問題、テストしようとしている推測に基づく、体系的観察による学習と、偶然的な観察からの学習を含む。
 (c)理論的なものだけでなく、新しい技能とか、物事を行なう新しいやり方など、実践的なものも含む。
(2)模倣による学習、伝統の吸収
 (a)原始的で重要な学習のひとつの形態で、高度に複雑な本能に基礎をおいている。
 (b)示唆や感情が学習で演じている役割は、他の仕方での学習よりもはるかにはっきりしている。
 (c)模倣による学習は、いつでも典型的な試みと誤りの過程でもある。
(3)習慣形成による学習、反復そのものによる学習
 (1)と(2)によって学ばれた解決に、慣れ親しむことによる学習である。

 「学習と反復についていえば、混乱の重大な源は、ことごとく「学習」と呼ばれている三つのまったく異なった活動を区別しそこなっているところにある。

(三つ以上の区別をつけても、なんら益がないと言いたいわけではない。)

わたくしはそれら三つを、つぎのように呼んでいる。(1)試みと誤り(あるいは推測と反駁)による学習。(2)習慣形成による学習(あるいは反復そのものによる学習)。そして(3)模倣(あるいは伝統の吸収)による学習。

これら三つの種類すべては、動物のみならず人間においても見出すことができ、技能や、何らかの新しい事実の学習といった理論的知識の獲得において、それら固有のさまざまな特徴的役割を演じている。

 (1)これら三つの学習様式のうち、最初のもの、《試みと誤り》、あるいは推論と反駁による学習が、知識の成長にとって重要である。これだけが、《新しい》情報の獲得という意味において学習である。

つまり、実践的であれ理論的であれ、《新しい》事実や《新しい》問題の発見、また古いのであれ新しいのであれ、われわれの問題に対する《新しい》解決の発見という意味において、「学習」なのである。この種の学習には、新しい技能とか、ものごとをおこなう新しいやり方の発見が含まれている。」(中略)

 「試みと誤りによる学習は、さまざまな仕方ではあるが、体系的観察からの学習ならびに偶然の観察からの学習を包括している。《体系的観察》は、いつでも、解こうとしている問題から、あるいはテストしようとしている推測からスタートする。このことが観察を体系的なものとする。」(中略)

 (2)第二の種類の学習――《反復そのもの》(あるいは「機械的」反復)《による習慣形成》――は、第一の種類の学習から明確に区別されるべきである。

この場合には、問題についてなんら新しい解決は探し求められてはいないのであり、試みと誤りによって発見された(あるいは模倣によって学ばれた、下記の(3)を見よ)以前の解決になれ親しむことが試みられている。」(中略)


 (3)ここで、手みじかにでも、第三の種類の学習――模倣による学習――に言及しておいてもよいだろう。それは、より原始的で重要な学習のひとつの形態である。

ここでは、学習が高度に複雑な本能に基礎をおいていること、および、示唆や感情が学習で演じている役割は、ほかの仕方での学習よりもはるかにはっきりしている(もっとも、それらは、言うまでもなく、ほかの仕方においてもいつでも見られるが)。

われわれの議論にとって重要なのは、個々の学習者の観点からすると、模倣による学習はいつでも典型的な試みと誤りの過程だということである。」(後略)

(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,3 いわゆる帰納の手続きについて,V,(上),pp.55-61,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:試みと誤りによる学習,推測と反駁による学習,模倣による学習,伝統の吸収,習慣形成による学習,反復による学習)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年9月13日木曜日

19.帰納の非妥当性の原理と、経験主義の原理とが衝突し、そこに帰納の論理的問題があると、かつて考えられたが、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。批判的合理主義の原理が、解答を与える。(カール・ポパー(1902-1994))

批判的合理主義の原理

【帰納の非妥当性の原理と、経験主義の原理とが衝突し、そこに帰納の論理的問題があると、かつて考えられたが、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。批判的合理主義の原理が、解答を与える。(カール・ポパー(1902-1994))】


(1)理論は、実践的な科学と理論科学にとって至高の重要性を持つ。
(2)帰納の非妥当性の原理
 (2.1)どんな帰納推理も、妥当ではあり得ない。すなわち、単称の観察可能な事例、および、それらの反復的生起から、規則性とか普遍的な自然法則へ至る妥当な推論はあり得ない。
 (2.2)したがって、理論を信じる実証的理由は、決して得られない。
 (2.3)したがって、理論は当て推量、推測である。
(3)経験主義の原理
 (3.1)科学理論の採否は、観察と実験の結果に依拠すべきである。
(4)帰納の論理的問題
 (4.1)かつて、(2)と(3)が衝突するように考えられた。
 (4.2)この問題から、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。
(5)批判的合理主義の原理
 (4.1)科学理論の採否は、批判的推論に依拠すべきである。
 (4.2)観察と実験は、ある理論が真でないことを示す妥当な批判的理由を、与えることができる。
 (4.3)理論は、合理的批判の結果に照らして他の既知の理論よりもよりよい、あるいはより悪い理論として、暫定的に、拒否されたり、受け容れられたりする。

 「ヒュームがあきらかにしようとしたことを思い出してみよう(私見では、論理に関するかぎり、うまくいっていたわけではないと思うが)。
 (i) ヒュームは、自然のうちにはだれもが実際面で信頼している無数の(明白な)規則性と、理論上きわめて重要で、科学者たちによっても受け容れられている多数の普遍的な自然法則が存在することを指摘した。

 (ii) ヒュームはまた、どんな帰納推理――単称の観察可能な事例(および、それらの反復的生起)から規則性とか法則のようなものへのどんな水路――も《妥当ではありえない》こと、つまり、そのような推理はなんであれ、近似的、部分的にさえ、妥当ではありえないことを示そうとした。」(中略)

 (iii) ヒュームが指摘したのは、《経験》によって提供されたもの以外には、普遍法則への信念を正当化する妥当な理由は存在しえないということであった。

 一方における(i)と、他方における(ii)と(iii)との衝突が、ヒュームの問題、つまり、《帰納の論理的問題》を構成する。

 論点(ii)と(iii)をもう少し鋭く、みじかく言い表わすと、つぎのように述べることができよう。

 (ii) 単称の観察言明から普遍的な自然法則へいたる妥当な推論、したがって、科学理論へいたる妥当な推論はありえない。

 これは、《帰納の非妥当性の原理》である。

 (iii) 科学理論の採否は、観察と実験の結果に、したがって単称の観察言明に依拠すべきである。
 これは、《経験主義の原理》である。」(中略)

 わたくしもまた、(ii)と(iii)を受け容れるが、しかしそこからいかなる反合理主義的な結論も引き出すつもりはない。それどころか、(ii)と(iii)の両立可能性ばかりでなく、(ii)と(iii)が以下の(iv)と整合的であると主張するつもりである。

 (iv) 科学理論の採否は((iii)によって要求されるような観察と実験の結果に結びついた)批判的推論に依拠すべきである。
 これは、《批判的合理主義の原理》である。」(中略)

 以上述べてきたことによって、帰納についてのヒュームの論理的問題に対する完璧な解答が提供できる。

この解答にとってのカギとなるのは、われわれの理論は、もっとも重要なものでさえ、またじっさいに真である理論でさえ、いつでも当て推量、推測にとどまるという点を認めることである。

じじつ、それらが真であるとしても、その事実を、経験からも、そのほかのなんらかの源泉からも知ることはできないのである。
 わたくしの解答の主要な点は以下のようになる。

 (i) 理論は実践的な科学と理論科学にとって至高の重要性をもつという見解を受け容れること。

 (ii) 帰納に対するヒュームの反論を受け容れること。すなわち、この反論によって、理論を信じる実証的理由が得られるかもしれないというどんな希望も打ち砕かれているということである。(しかし、ヒュームの議論は、理論は反駁の試みによってテストされると主張する場合には、いかなる困難もひき起こさないことに注意すべきである。)

 (iii) 経験主義の原理を受け容れること。すなわち、科学の理論は、実験的テストや観察的テストの結果に照らして(一時的に、暫定的に過ぎないが)拒否されたり、受け容れられたりするということである。

 (iv) 批判的合理主義を受け容れること。すなわち、科学理論は、合理的批判の結果に照らして他の既知の理論よりもよりよい、あるいはより悪い理論として(一時的に、暫定的に過ぎないが)拒否されたり、受け容れられたりするということである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,2 批判的アプローチ、帰納問題の解決,VI,(上),pp.43-46,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:批判的合理主義の原理)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2018年9月9日日曜日

18.ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいていることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))

実証的理由と批判的理由

【ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいていることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))】

(1)真理の探究には、何ものにも勝る重要性があり、われわれの目的であり続ける。
(2)しかし、真理が実際に見出されたということを示す実証的理由は、決して与えることはできない。
(3)合理的な批判により、真であることに反対する妥当な批判的理由を示すことで、ある特定の理論が真でないことは、示すことができる。
(4)したがって、合理的な批判により、ある新しい理論が先行の理論よりも、真理により近づいていると信じる暫定的な理由を示すことができる。

 「わたくしの立場はこうである。真理――あるいは、われわれの問題を解くことのできる真なる理論――の探究には、なにものにも勝る重要性がある。 

すなわち、《合理的な批判というものはすべて、理論が真であるという主張に対する批判であり、また解こうとしていた問題を解くことができるという主張に対する批判である》。

わたくしは、このように主張しているのである。

したがって、ある理論が真であるかどうかという問題を、その理論がほかの理論よりもよいかどうかの問題に《置き換え》てはいない。むしろ、理論が真であることを支持する妥当な《理由》(実証的理由)をうみ出せるかどうかという問題を、理論が真であることに反対する、あるいは競争相手の理論が真であることに反対する妥当な《理由》(批判的理由)をうみ出せるかどうかの問題によって置き換えているに過ぎない。

さらに、ある理論をほかの理論よりも、よりよい、より優れているなどと記すことは、その理論が《真理により接近している》ように見えると示すことであるというのがわたくしの主張なのである。

 真理――絶対的真理――は、われわれの目的でありつづける。それはまた、批判の暗黙の規準でありつづける。

ほとんどすべての批判は、批判の対象となっている理論を反駁する試みである。すなわち、それが《真ではない》ということを示す試みなのである。

(例外として重要なのは、ある理論には意味がない――それは解こうとしていた問題を解いてはいない――ということを示そうとする批判である。)

したがって、いつでも、《真なる理論》(真にして意味ある理論)が追求されることになる。

もっとも、追求されていた真なる理論がじっさいに見出されたということを示す理由(実証的理由)は、決して与えることはできないが。

同時に、ある重要なことを学んだと、つまり、真理に向って前進したと考えられるよい理由――つまりよい《批判的理由》――は得られるかもしれない。

というのは、第一に、批判的討論の現状からすれば、ある特定の理論が真ではないということを学んだと言えるだろうし、第二に、ある新しい理論が先行の理論よりも、真理により近づいていると信じる(もちろん、信じるということでしかないが)暫定的な理由がいくつか見出されたとは言えるかもしれないからである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,2 批判的アプローチ、帰納問題の解決,(上),pp.34-35,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:実証的理由, 批判的理由, 真理)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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