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2019年8月8日木曜日

正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義の原理

【正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】


(3)事例。
 (3.1)個人の自由と正当防衛
  (a)個人の自由
   問題になっているのが、その人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰も持っていない。したがって、たとえその人の「ためになる」と思われることでも、介入することは不正義ではないか。
  (b)正当防衛
   個人の自由があるといっても、他の人に害悪が及ぶ場合には、それを防止するために介入することは、正義である。なぜなら、自分自身に害悪が及ぶ場合に、いかなる人も自分自身を守ることは、正当なことだからである。
  (c)個人の自由の限界は、どこにあるのか。ある人の自由な行為の結果が社会に及ぶ場合、影響のうちどの範囲のものが、他の人に及ぼされる害悪と言えるのか。さらに、害悪があるとしても、その害悪を防止するために自由を制限する限界はどこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)責任の原理、決定論と意志の自由
  (a)責任の原理
   本人がどうしようもできないことに関して、その人を罰することは不正義である。
  (b)決定論
   教育や環境によって性格が作り出されたとしたら、犯罪者にはどこまで責任があるのだろうか。
  (c)意志の自由
   人には意志の自由がある。したがって、徹底的に憎むべきような意志を持った人は、仮に教育や環境の影響があるにしても、自らの意志に責任を負わなければならない。
  (d)これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.3)同意あれば危害無しか、社会契約か
  (a)同意あれば危害無しの原則
   他の人の利益になるからといって、ある一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに犠牲にするということは、不正義である。
  (b)社会契約の擬制
   人間というものは、社会の構成員全員が、自分たちの利益や社会全体の利益のために、法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられるという契約をしているものだと考える。
  (c)本人の意志、同意によって決め得る正義の範囲の限界は、どこにあるのか。本人の意志に関わらず、正当なものとされる正義の限界は、どこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「私たちは、功利性は不確実な基準であって、すべての人が異なった仕方でそれを解釈しているし、それ自体が根拠をもっていて世論の揺らぎとは無関係な正義による不変で不滅で明白な指令以外に確実なものはないと絶えず告げられる。ここから、正義に関する問題については論争の余地がなく、正義を規則とみなせば、どのような事例に適用しても数学の証明のようにほとんど疑問の余地がなくなると思うかもしれない。このことは事実から遠く離れており、何が正しいのかについては、何が社会にとって有用なのかについてと同じように、多くの見解の相違や多くの議論がある。異なった国民や個人は異なった正義の観念をもっているだけでなく、同一の個人の心のなかでさえ、正義は何らかの単一の規則、原理、格率ではなく、多くのものからなっており、それらの指令はつねに一致するとはかぎらないし、それらの中から選び取るときには、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれるのである。
 たとえば、他の人への見せしめのために人を処罰することは不正義であり、処罰はそれを受ける人の善を目的としているときにのみ正義にかなっていると言う人がいる。まったく反対のことを言って、その人の利益のためといって分別ある年齢に達している人を罰するのは、問題になっているのがその人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰ももっていないのだから、横暴で不正義であるが、他の人に害悪が及ぶのを防止するためには、これは自己防衛という正当な権利の行使であるから、正当に罰を与えることができると主張する人もいる。また、オウエン氏は、犯罪者が自らの性格を作り出したのではなく、教育や取り囲んでいた環境が人を犯罪者にしたのであり、それらについてその人は責任がないのだから、処罰はとにかく不正義であると主張している。これらの見解はすべて非常にもっともらしいし、この問題が単に正義に関するものの一つとして論じられ、正義の根底にありその権威の源泉となっている原理にまで掘り下げられることがないならば、どのようにしてこれらの論者を論破することができるかは私にはわからない。というのは、実際にこれらの三つの主張はいずれも明らかに真の正義の規則に立脚しているからである。第一のものは、一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに他の人の利益のためにその人を犠牲にするという広く認められている不正義に訴えている。第二のものは、自己防衛という広く認められている正義と、人が自分の善は何であるかということについて他の人に従うように強要されるという一般に認められた不正義に訴えている。オウエン主義者は、本人がどうしようもできないことに関して人を罰することは不正義であるという一般に認められた原理を持ち出している。自らが選んだもの以外の正義の格率も考慮しなければならないようにならないかぎりは、いずれの論者も得意げにしている。しかし、それらの複数の格率がつき合わされると、それぞれの論者は、他の論者とまったく同じ程度の自己弁護論を並べ立てるだけのように思われる。彼らのうち誰も、同じような拘束力をもっている他の正義の観念を踏みにじることなく、自らの正義の観念を押し通すことはできない。これらが難点であり、これまでずっとそのように思われてきた。そして、それらを克服するというより避けるために多くの工夫が考案されてきた。三つのうち最後のものからの逃げ込み場として、人々は意志の自由と呼ぶものを考え出し、徹底的に憎むべきような意志をもった人を罰することは、そのような状態になったのはそれまでの環境の影響によるものではないと思われないかぎり、正当化することはできないと考えている。その他の難問から逃れるために都合のよい工夫は契約という擬制であり、それによって、いつのことか分かっていないある時代に社会の全構成員が法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられることに同意し、その結果として、彼らを自分たちの利益あるいは社会の利益のために罰するという、このようなことをしなければ手にすることができなかったような権利を彼らの立法者に与えたとされる。この巧妙な考えは難点を全面的に取り除くものと考えられ、危害を被ると思われる人の同意を得てなされることは不正義ではないということを意味する「同意あれば危害なし(Volenti non fit injuria)」という、もう一つの一般に認められている正義の格率に基づいて処罰を与えることを正当化するものと考えられた。この同意が単なる擬制ではないとしても、この格率はそれが取って代ろうとした他の格率よりも優越した権威をもっていないということを指摘する必要はほとんどない。むしろ、この格率は正義の原理というものがいい加減でいびつな仕方でできあがってくることを示している教訓的な実例である。この特殊な格率は法廷での急場しのぎの一助として使われるようになったものであり、法廷は、詳細に検討しようとするとより大きな害悪がしばしば生じてくるだろうという理由から、時にはきわめて不確実な推論で納得せざるをえない。しかし、法廷でさえこの格率をつねに遵守できてはいない。というのは、詐欺を理由として、あるいは時にはほんの些細な誤解や誤認を理由として、法廷は自発的な契約を無効にすることを認めているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.331-334,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:正義の原理,個人の自由,正当防衛,責任の原理,決定論,意志の自由,同意あれば危害無し,社会契約)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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