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2022年1月31日月曜日

生産手段の所有者は、持たざる者への搾取を正当化するために、イデオロギーとしての観念、価値、法律、慣習、制度を作り出す。持たざる者は、生活様式も観念と理想も、支配者の目的に適合させられ、自らの人間性の欲するところに従って自由に生き、その成果を享受することを妨げられている。(カール・マルクス(1818-1883))

真に自由な行為とその成果の享受を妨げられている社会

生産手段の所有者は、持たざる者への搾取を正当化するために、イデオロギーとしての観念、価値、法律、慣習、制度を作り出す。持たざる者は、生活様式も観念と理想も、支配者の目的に適合させられ、自らの人間性の欲するところに従って自由に生き、その成果を享受することを妨げられている。(カール・マルクス(1818-1883))














(1)生産手段の所有者による搾取
 その掌中にある生産手段を蓄積しており、したがってまたその生産の 果実を資本の形態で蓄積している人々は、大部分の生産者、つまり労働者から彼らの創りだし たものを強制的に奪い取ってしまい、社会を搾取者と被搾取者に分裂させることになる。

(2)制度と技術は階級闘争に規定されている
 階級闘争がその社会のあら ゆる制度を規定するのである。この闘争の過程で、技術技能はさらに発展し、階級に分裂した 社会の文化は一層複雑になり、生産物はますます増大する。

(3)労働の疎外
 (a)共通の目的が失われる
  人間は本来社会的存在であり、生活と生産の 両面において結び合い共同していなければならないのに、かつての共通の目的を目指して協力 し合う状態にとって代わって今や闘争状態が基本になってしまった。
 (b)望まみもしない労働の強制
  生産手段の独占によって、特定の集団は、他の集団に自己の意志を押しつけ、他の集団に望 みもしないし好みもしない仕事を強いることができることとなる。

(4)真に自由な行為とその成果の享受を妨げられている社会
 生活様式も観念と理想も、支配者の目的に適合させられ、自身の現実の苦境に照応しないものとなる。この苦境こそは、人間性の欲するところに従って生きること、換言すれば、連帯の社会を構成する一員として自らの行為の理由を理解し自らの調和のある自由 で合理的な活動の成果を享受しうること、そういうことを人為的に妨げられている人間の状態 である。

(5)イデオロギーとしての観念、価値、法律、慣習、制度
 (a)雇用主の 側では、意識的であれ無意識的であれ、自己の寄生的存在を、自然的であり望ましいものとし て正当化したいと思わずにはおれない。
 (b)正当化の過程において、諸々の観念、価値、法律、慣習、制度が生みだされてくる。
 (c)集団的自己欺瞞
  このようなイデオロギー、民族的な宗教的な経済的な等々のイデオロギーは、集団によ る自己欺瞞の形態である。
 (d)教育、一般見解
  この集団的自己欺瞞は、正常な教育の一部として、また社会の一般見解として吸収される。その結果、これを客観的なもの公正なもの必然的なものと見なして、受け入れられることになる。
 (e)人間でない何らかの究極的権威
  疎外の徴候は、究極的権威を、人間自らのなかに求めるのではなく、何らかの非人格的な力に求めるか、想像上の人格ないし勢力に求めることにある。
 (f)イデオロギーとしての経済学
  マルクスの意見では、最も 抑圧性の強い魔性を発揮するのは、ブルジョア経済学である。それは、商品や貨幣の運動を、 とりもなおさず生産、消費、分配の過程を、自然の過程と同じ非人格的な過程として、客観的 諸力の不変の運動形式として描く。


「マルクスによれば、その掌中にある生産手段を蓄積しており、したがってまたその生産の 果実を資本の形態で蓄積している人々は、大部分の生産者、つまり労働者から彼らの創りだし たものを強制的に奪い取ってしまい、社会を搾取者と被搾取者に分裂させることになる。これ らの階級の利害は対立することになる。それぞれの階級の利益は、その階級が敵階級を打ち続 く階級闘争のなかで負かすことができるか否かに懸っている。この階級闘争がその社会のあら ゆる制度を規定するのである。この闘争の過程で、技術技能はさらに発展し、階級に分裂した 社会の文化は一層複雑になり、生産物はますます増大する。そしてその社会の物質的進歩に よってはぐくまれた要求は、一段と多様の度を加え、一段と人工的となる。すなわち、一層 「不自然な」ものとなる。この不自然さは、戦い合う両階級が「疎外」された結果である。そ の「疎外」は、この理論の説くところによれば、人間は本来社会的存在であり、生活と生産の 両面において結び合い共同していなければならないのに、かつての共通の目的を目指して協力 し合う状態にとって代わって今や闘争状態が基本になってしまったために、生じたものであ る。  生産手段の独占によって、特定の集団は、他の集団に自己の意志を押しつけ、他の集団に望 みもしないし好みもしない仕事を強いることができることとなる。これによって、社会のまと まりは破壊され、両階級の生活はともに歪んだものとなるのである。無産のプロレタリアであ る大多数のものは、今や他人の利益のために他人の考えに従って、労働することになる。彼ら の労働の成果も彼らの労働手段も彼らから切り離されている。彼らの生活様式も彼らの観念と 理想も、彼らの支配者の目的に適合させられ、彼ら自身の現実の苦境に照応しないものとなる ――この苦境こそは、人間性の欲するところに従って生きること、換言すれば、対立分裂の社会 でなく統一連帯の社会を構成する一員として自らの行為の理由を理解し自らの調和のある自由 で合理的な活動の成果を享受しうること、そういうことを人為的に妨げられている人間の状態 である。かくして、労働者の生活は、虚偽をその土台としていることになる。逆に、雇用主の 側では、意識的であれ無意識的であれ、自己の寄生的存在を、自然的であり望ましいものとし て正当化したいと思わずにはおれないことになる。  この正当化の過程において、諸々の観念、価値、法律、慣習、制度が生みだされてくる。そ れらの集合体を、マルクスは時として「イデオロギー」と呼ぶ。このイデオロギーの全目的 は、雇用主たちの特権的で不自然でそれゆえ不正な身分と特権とを支え弁明し擁護することに ある。このようなイデオロギー、民族的な宗教的な経済的な等々のイデオロギーは、集団によ る自己欺瞞の形態である。支配階級の犠牲者つまりプロレタリアートと農民は、この集団的自 己欺瞞を正常な教育の一部としてまた人為的社会の一般見解として吸収する。その結果、これ を客観的なもの公正なもの必然的なものと見なして、受け入れることになる。これは自然的秩 序の一部を成すものだと説明せんがために、諸々の擬似科学が創り出される。ルソーが説いた ように、これら擬似科学がまた、人類の誤謬と紛争と不満とを一層深める作用をするのであ る。  疎外の徴候は、究極的権威を、人間自らのなかに求めるのではなく、何らかの非人格的な力 に求めるか、想像上の人格ないし勢力に求めることにある。たとえば、前者のばあい、資本主 義の合理性を演繹可能なものとして示している需要と供給の法則のようなものである。後者の ばあいは、神とか教会というようなもの、あるいは国王とか聖職者のような神秘性のある人物 であったり、他の抑圧的な神話の姿を変えたものであったりする。「自然な」生活様式――そこにおいてのみ真理を認識し調和ある生活を行うことが全社会的に可能である――から切り離され た人間は、究極的権威を人間界以外に求めたうえで、彼らの不自然な状態はこの究極的権威の せいだとして自己自身に納得させようとする。もし人間が自己を永遠に解放しようとするなら ば、このような神話の正体を見抜くことを学ばなければならない。マルクスの意見では、最も 抑圧性の強い魔性を発揮するのは、ブルジョア経済学である。それは、商品や貨幣の運動を、 とりもなおさず生産、消費、分配の過程を、自然の過程と同じ非人格的な過程として、客観的 諸力の不変の運動形式として、描くのである。したがって、そこでは人間はただ頭をさげて 唯々諾々と服従するしかなく、反抗を試みるなどというのは正気の沙汰でしかな、ということ になる。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第6章 唯物史観の諸相,pp.156-158,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人々の思想や信条に影響を及ぼす最大の要因は、人々が置かれている経済的環境であり、支配階級の被搾取階級に対する諸関係である。無意識的にか、制度的にか、道徳基準や宗教による組織的幻想が、外的世界の一部分と化して、諸個人の動機、感情、信条、知性に影響を及ぼす。(カール・マルクス(1818-1883))

思想、信条への経済的関係の影響

人々の思想や信条に影響を及ぼす最大の要因は、人々が置かれている経済的環境であり、支配階級の被搾取階級に対する諸関係である。無意識的にか、制度的にか、道徳基準や宗教による組織的幻想が、外的世界の一部分と化して、諸個人の動機、感情、信条、知性に影響を及ぼす。(カール・マルクス(1818-1883))














(1)所属階級の利害による動機
 人間の生活において行動力の根源をなしているものは、経済面の争いを巡る階級的配置のなかでの彼ら相互間の関係である。
 (a)支配階級に属してい るか否か。
 (b)自らの利害が支配階級の成功あるいは失敗によって左右されるか否か。
 (c)現存秩序の 維持が重要な意義を有するような位置にある否か。

(2)諸個人の動機、感情、信条、性格、知性、その他の自然的傾向、人間性
 人間の特殊な一身上の動機や感情、すなわち彼が利己主義者であるか利他主義 者であるかということ、寛大であるか貪欲であるかということ、賢明であるか間抜けであるかということ、野心的であるか控え目であるかということは、大して検討する価値のない問題と なる。

(3)組織的幻想が行動に及ぼす影響
 組織的幻想が、外的世界の一部分と化して、客観的社会状況の一 部分となり、諸個人の行動様式に変化を及ぼす。 
 (a)そもそも人間 は、その行動の理由や正当化について考えることなく、行動することがある。
 (b)この社会の過半 の人々の場合、彼ら自身ではさまざまの主観的動機に基いてさまざまに行動しているように 思っている。
 (c)理性、道徳、宗教
  自分自身に彼らの行為は理性、道徳、ある いは宗教的信念によって導かれたものだと思い込ませようとして、彼らの行動について入念な 説明付けを図る。
 (d)道徳基準、宗教組織
  道徳基準とか宗教組織とかの 一大制度へと成長転化して、社会的圧力自体が消え去った後でも長く残存しつづけることがしば しばみられる。
 (e)気候・土壌・身体組織のような変わり難い要因が、社会制度との相互作用のなかで機能するのと同じような方式 で、作用するのである。


 「生産諸関係・対・普遍の人間性、客観と主観 
  ある人々を別の人々から区別し、一群の制度や信条を別の一群の制度や信条と対立させる単 一の発動要因は、それが置かれている経済的環境であり、所有者たる支配階級の被搾取階級に たいする諸関係、両者の間に存続する特殊な性質の緊張から生ずる諸関係である、――マルクス は、そういう信念を持つに至った。人間の生活において行動力の根源をなしているもの(しか も本人によって認識されていないだけに一層強力に作用しているとマルクスが考えたもの) は、経済面の争いを巡る階級的配置のなかでの彼ら相互間の関係である。それを知ることに よって誰であれ人間の行動の基本方向を予測することができるような要因を成しているのは、 人間の実際に立っている立場である。それを、より詳しくいえば、彼らが支配階級に属してい るか否か、彼らの利害が支配階級の成功あるいは失敗によって左右されるか否か、現存秩序の 維持が重要な意義を有するような位置にある否か、ということである。このことがひとたび理 解されるとき、人間の特殊な一身上の動機や感情、すなわち彼が利己主義者であるが利他主義 者であるかということ、寛大であるか貪欲であるかということ、賢明であるか間抜けであるか ということ、野心的であるか控え目であるかということは、大して検討する価値のない問題と なる。彼らの自然的傾向がたとえいかなるものであろうとも、もって生まれた性質は彼らを取 り囲む環境によって枠付けされて一定の方向への動きを示すようになるのである。  実際のところ、「自然的傾向」とか、あるいは不変の「人間性」を強調することは、誤解を 招くもとなのである。人間性の諸傾向は、彼らが抱く主観的感情に即して分類することもでき ないわけではないが、それは、科学的予測の観点から言えば、重要性に乏しい。また人間の諸 性向は、社会的に規定された彼らの実際的目的に即して分類することもできるのである。人間 は、その行動の理由や正当化について考えることなく、行動することがある。この社会の過半 の人々の場合、彼ら自身ではさまざまの主観的動機に基いてさまざまに行動しているように 思っているかも知れないが、客観的には同じような方式で行動しているということがよくあ る。このような事情が明らかにならなかったのは、自分自身に彼らの行為は理性、道徳、ある いは宗教的信念によって導かれたものだと思い込ませようとして、彼らの行動について入念な 説明付けを図ってきたためである。これらの説明付けの試みが、行動にたいして何ら影響をお よぼすことができないというわけではない。なぜなら、それらは道徳基準とか宗教組織とかの 一大制度へと成長転化して、社会的圧力――それをなんとか言いつくろうためにこそ右のような 説明付けの試みが生まれたのである――自体が消え去った後でも長く残存しつづけることがしば しばみられるからである。こういう次第で、これらの一大組織的幻想が、客観的社会状況の一 部分、諸個人の行動様式に変化をおよぼすような外的世界の一部分と化して、気候・土壌・身 体組織のような変わり難い要因が社会制度との相互作用のなかで機能するのと同じような方式 で、運動するのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第6章 唯物史観の諸相,pp.151-152,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





分業は富の蓄積、余暇、文化の可能性を拓いたが、同時に、他者を強制して自らのために働かせることも可能とし、階級社会が生まれた。歴史は意図的な行為と、予期せぬ諸結果との相互作用で織りなされていくが、何が歴史の推進力だろうか。それは、ヘーゲルの言う諸制度と絶対精神ではなく、人間的目的を追求する人間自身である。(カール・マルクス(1818-1883))

人間的目的を追求する人間

分業は富の蓄積、余暇、文化の可能性を拓いたが、同時に、他者を強制して自らのために働かせることも可能とし、階級社会が生まれた。歴史は意図的な行為と、予期せぬ諸結果との相互作用で織りなされていくが、何が歴史の推進力だろうか。それは、ヘーゲルの言う諸制度と絶対精神ではなく、人間的目的を追求する人間自身である。(カール・マルクス(1818-1883))



















(1)分業の正当なる結果、余暇と文化 
 意識的であれ無意識的であれ人間の創造物の一つに、分業がある。それは原始社会において 始まり、その後、生産性に顕著な増大をもたらし、人間の直接的必要を超えた剰余の富を作りだ している。この富の蓄積が次には余暇の可能性と文化の可能性とを作りだす。  

(2)分業の転倒した結果、階級の分裂  
 同時に、この蓄積された生活物資を、他人に福利を得させない手段として使用する可能性、他人を脅し強制して富の蓄積のために働かせる手段として使用する可能 性、他人を押しつけ搾取し人間を支配者階級と被支配者階級に分割する手段として使用する可 能性、に道を拓くことにもなる。


(3)意図的な行為と、予期せぬ諸結果との相互作用
 (a)歴史とは、自主管 理の確立を目指して奮闘する行為者と、彼らの行為の諸結果との間に生まれる相互作用 である。
 (b)行為の諸結果
  (i)意図通り、想定外
   意図されたものであるばあいもあれば、意図されざるものである ばあいもある。
  (ii)予測可能、予測不能
   人間およびその環境に及ぼす影響についても、予測される ものもあれば、そうでないものもありうる。
  (iii)物質、無意識、感情、思想
   物質的領域に生じることもあ れば、思想および感情の領域に発現することもあり、人間の生活の無意識的次元において起こ ることもある。
  (iv)個人、大衆、社会、制度
   個々人にのみ作用するばあいがあるかと思えば、他面、社会 制度ないし社会運動の形態をとって出現するばあいもある。

(4)歴史の進行方 向を規定する中核的運動要因は何だろうか
 (a)諸制度と絶対精神(ヘーゲル)
  中核的運動要因 は、種々の意識次元で自らが創造した抽象的あるいは具体的諸制度のうち に、自己自身を理解する鍵を探し求めている絶対精神のなかにある。
 (b)目的を追求する人間存在(マルクス)
  (i)事 実においては人間の労働の産物であるものに、人間から独立した外在的な物ないし力であるか の如き外観を与えようとするのは、誤りである。
  (ii)理解可能な人間的目的を追求する人間存在こそが、中核的 要因である。この人間的目的とは、快楽とか知識とか安全とか来世の救済とかの個別 的目標ではなく、全人間能力を、理性の原理と合致した方向に調和的に実現することである。
  (iii)人間的目的の追求は、部分的には自己を 実現できながらも、他面不可避的に部分的には不満を残さざるをえないところから、次の時代 の人々に関わる諸範疇や諸価値やらを変えることになる。
  (iv)文化は、歴史的範疇であって、永遠不変のものではないのである。人間の歴史において唯一永続的な要因は、人間自体、闘いとの関連で理解される人間自体であった。自然を支配し自己の生産力を組織だてようとする闘い、し かも対内的にも対外的にも調和を保ちつつ合理的形態においてそれを実行しようとする闘いで ある。
  (v)闘いとは、人間が自覚的に選び とったものではなく、既に人間存在の一部を成しているものである。この点は、マルクスの 形而上学的側面の表われである。


 「分業の正当なる結果――余暇と文化  
 意識的であれ無意識的であれ人間の創造物の一つに、分業がある。それは原始社会において 始まり、その後生産性に顕著な増大をもたらし、人間の直接的必要を超えた剰余の富を作りだ している。この富の蓄積が次には余暇の可能性と文化の可能性とを作りだす。  
分業の転倒した結果――階級の分裂 
  だがそれと同時に、この蓄積――蓄積された生活物資――を、他人に福利を得させない手段とし て使用する可能性、他人を脅し強制して富の蓄積のために働かせる手段として使用する可能 性、他人を押しつけ搾取し人間を支配者階級と被支配者階級に分割する手段として使用する可 能性、に道を拓くことにもなる。この階級分裂は、創意工夫と技術進歩とそれによって生みだ された財貨の蓄積との意図せざる諸結果のなかでも最も深刻なものである。歴史とは、自主管 理の確立を目指して奮闘する行為者の生活と、彼らの行為の諸結果との間に生まれる相互作用 である。これらの諸結果は、意図されたものであるばあいもあれば、意図されざるものである ばあいもある。これらの諸結果はが人間およびその環境に及ぼす影響についても、予測される ものもあれば、そうでないものもありうる。これらの諸結果は、物質的領域に生じることもあ れば、思想および感情の領域に発現することもあり、人間の生活の無意識的次元において起こ ることもある。これらの諸結果は、個々人にのみ作用するばあいがあるかと思えば、他面社会 制度ないし社会運動の形態をとって出現するばあいもある。この複雑な編成物は、その進行方 向を規定する中核的運動要因が把握されたときにのみ、理解可能となり制御可能となるのであ る。  初めて事物を優れて明晰に根源的に省察した人、ヘーゲルにあっては、この中核的運動要因 は、絶対精神のなかに、種々の意識次元で自らが創造した抽象的あるいは具体的諸制度のうち に自己自身を理解する鍵を探し求めている絶対精神のなかに、見出されていた。マルクスは、 「この宇宙論的図式を受け容れたのであるが、他方で、ヘーゲルとその弟子たちを、運動する究極の力について神話的説明を施したとの理由で非難した。神話は、人間の最も人間らしい面 の表われであり成果であるものを、人間以外のものによって作りだされたものと見なして外在 化する過程で、意図せざる結果として生まれてくるのである。このばあいについて言えば、事 実においては人間の労働の産物であるものに、人間から独立した外在的な物ないし力であるか の如き外観を与えようとするのである。ヘーゲルは、客観的な絶対精神の前進運動について 語った。それに対して、マルクスは、理解可能な人間的目的を追求する人間存在こそが中核的 要因であると考えた。この人間的目的とは、快楽とか知識とか安全とか来世の救済とかの個別 的目標ではなく、全人間能力を理性の原理と合致した方向に調和的に実現することである。こ の追求は、ある集団なりある世代なりある文明なりの行動を規定するとともに、その行動を理 解しようとする他の人々にその行動を説明する鍵ともなるものであるが、――部分的には自己を 実現できながらも、他面不可避的に部分的には不満を残さざるをえないところから、次の時代 の人々に関わる諸範疇や諸価値やらを変えることになる。あらゆる活動や創造の中心をなすこ の絶えざる自己変革は、固定した時間を超越した原理とか、変化に無縁の普遍的目標とか、永 遠不滅の人間的範疇とかなどという観念そのものを無意味なものにしてしまう。  マルクスが取り扱おうとする時代の特色は、マルクス自身の見解によると、階級闘争の現象 によって規定されているのである。個々人のあるいは諸社会の行動や見地もまたこの要因に よって決定されることは、疑問の余地がない。右のことは、文化についてもまたあてはまる基 本的な歴史的真理である。文化は、自らの力の実現を図るため、しばしば無益なあるいは自滅 的方策に訴えることを辞さない人々によって実行される富の蓄積およびこの蓄積の支配を目指 す闘争によって、影響を受けるのである。文化は、まさしく歴史的範疇であって、永遠不変の ものではないのである。それは、過去において現状とは異なっていたし、現状のまま永遠に続 くというものでもない。実際のところ、近づきつつあるその破滅の徴候は、見るべき眼をもっ た人々には、疑問の余地なく明白であった。人間の歴史において唯一永続的な要因は、人間自 体、闘いとの関連で理解される人間自体であった。ここでいう闘いとは、人間が自覚的に選び とったものではなく、既に人間存在の一部を成しているものである。(この点は、マルクスの 形而上学的側面の表われである。)自然を支配し自己の生産力を組織だてようとする闘い、し かも対内的にも対外的にも調和を保ちつつ合理的形態においてそれを実行しようとする闘いで ある。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第6章 唯物史観の諸相,pp.144-146,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月30日日曜日

歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして、現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ。人々はその物質的困苦 のゆえに、非物質的理想世界を発明し、その中に慰めを求 め、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換する。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))

物質的条件の総和が歴史の推進力

歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして、現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ。人々はその物質的困苦 のゆえに、非物質的理想世界を発明し、その中に慰めを求 め、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換する。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))













(a)物質的条件の総和が歴史な推進力
 歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして、現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ。
(b) 非物質的理想世界を発明し崇拝する
 人々はその物質的困苦 のゆえに、自分たちが発明した非物質的理想世界の中に慰めを求 め、正義、調和、秩序、善性、統一、永遠を超越的世界の超越的属性に変え、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換する。


「フォイエルバッハの次の一歩は、歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総 和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ、と言明することにあった。しかしながら、人々はその物質的困苦 のゆえに、無意識のうちにではあるが、自分たちが発明した非物質的理想世界の中に慰めを求 めようとする。そしてこのなかで、地上の生活における不幸の代償として、来世の永遠の祝福 を享受しようとするのである。彼らがこの世で持たないすべてのもの――正義、調和、秩序、善 性、統一、永遠――を超越的世界の超越的属性に変え、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換するのである。この幻想を暴露するためには、心理的に幻想を生みだすもとに なる物質的適応不全の観点からこの幻想を分析することが必要となる。」

 

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第4章 青年ヘーゲル派,pp.84-85,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。従って、精神が人々に作用すると述べることは、空虚な同義反復ではないか。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))

「時代の精神」への疑問

時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。従って、精神が人々に作用すると述べることは、空虚な同義反復ではないか。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))












(a)変化を惹き起こすものは、諸個人の決意と行動なのではないのか。
(b)無数の個人の生活と行為 の相互交渉を通じて、全体的帰結がいかにして出現してくるのか。

(c)人々に作用する時代の精神(ヘーゲル)
 同一時期のある文化に属する人々の思想や行動は、その時期の全現象の中に具現する同一 精神がそれらの人々のなかに作用することによって決定されている。

 (d)時代の精神は要約的名辞にすぎない(フォイエルバッハ)
「時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。」それゆえ、現象の総体によって決定されていると主張することと同じことにな る。これは一個の空虚な同義反復にすぎぬ。

「同一時期のある文化に属する人々の思想や行動は、その時期の全現象の中に具現する同一 精神がそれらの人々のなかに作用することによって決定されている、とヘーゲルは主張した。 フォイエルバッハはこれを激しく拒否して次のような問を発した。「時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。」それゆえ、現象の総体によって決定されていると主張することと同じことにな る。これは一個の空虚な同義反復にすぎぬ、と。  彼はさらに次のように指摘する。この現象の総体を範型という概念に代置してみたところ で、一歩の前進もみられない。なぜなら範型は事象を生みだす原因になりえないからである。 範型は事象の形式であり、事象の属性であって、事象それ自体は他の事象によってしか生み出 されえないのである。ギリシャ的天才、ローマ的美徳、ルネサンスの精神、フランス革命の精神といったものは、一個の抽象概念にすぎぬ。それは、所与のものの特質全体や歴史的事象の 全体を要約的に記述する標号符牒であり、便宜的に発明された普遍名辞であって、いかなる意 味においてもこの世界の客観的実在物ではないから、人間的事象にあれこれの変化をもたらし うるものではない。古い考え方――変化を惹き起こすものは諸個人の決意と行動であるという昔 ながらの考え方の方が、基本的に不条理の度合いが低い。なぜなら、個人は少なくとも存在し 行為しているが、普遍的概念や共通名辞は存在せず行為しないからである、と。ヘーゲルはま さしくこういう古い考え方の不十分さを強調した。なぜならそれは、無数の個人の生活と行為 の相互交渉を通じて全体的帰結がいかにして出現してくるかということを、説明することがで きないからである。そこで、ヘーゲルは、これら諸個人の意志に一定の方向を与えるある共通 の力、すなわち、歴史を社会全体の進歩の体系的説明たらしめるある普遍的法則を探究するこ とになったのであり、その面で彼はその天才ぶりを発揮したのである。だが彼は最後まで合理 性を貫徹できず、最後には茫漠たる神秘主義に陥った。なぜなら、ヘーゲルの理念という概念 は、説明されるべきものの同義反復的再構成にすぎないというのは言いすぎであるとしても、 キリスト教的人格神の姿を変えたものにほかならず、それゆえ、理性的討論の圏外にまで引き 上げられてしまっているからである、と。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第4章 青年ヘーゲル派,pp.83-84,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





ヘーゲルの真の重要性は、大集合准人格としての人為的諸制度の歴史的、批判的研究を創設したことである。諸個人の行動を、特定の時代や地域、民族に特定の諸特徴に結びつけることは、通俗的な影響であり、国家、民族、時代、歴史の非合理的な神話化は誤った適用である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

大集合准人格

ヘーゲルの真の重要性は、大集合准人格としての人為的諸制度の歴史的、批判的研究を創設したことである。諸個人の行動を、特定の時代や地域、民族に特定の諸特徴に結びつけることは、通俗的な影響であり、国家、民族、時代、歴史の非合理的な神話化は誤った適用である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a) 大集合准人格としての人為的諸制度の歴史的、批判的研究
 ヘーゲルの真の重要性は、社会的歴史的な研究分野の創設に及ぼした影響力にある。創設された新しい部門とは、構成員たる 諸個人の次元からだけでは描きえない、大集合准人格 great collective quasi- personalities と見なされるべき、独自の生命と性格を有する人為的諸制度の歴史、および その制度にたいする批判である。

(b)ヘーゲル的歴史観の通俗的な影響 
 諸個人あるいは彼らの行動を、特定の時代や地域、民族に特定の諸特徴を結びつけて記述する習慣がある。また、広く見られる社会的態度についてさえ、そのような理解の仕方をする場合がある。

(c)国家、民族、時代、歴史の非合理的な神話化
 この思想上の革命は、例えば国家、人種、歴史、時代といっ たものを超人格的な影響力の行使者として扱う、非合理的で危険な神話を培うに至った。

(d)諸個人の意図の軽視
 諸事件をあれやこれやの国王ないしは政治家の性格や意図の結果として、あるいは個人的な成功や失敗の結果として説明するすべての著述家 は、幼稚で非科学的であると見られるに至った。


「ヘーゲル的歴史観の影響  このような教説――かつては一世代全体の思想の変化の前兆であると同時にその変化の原因を 成したし、今や広く親しまれるものとなったこの教説が及ぼす影響は、測り知れないほどに大 きい。われわれには、特定の時代や地域に特定の諸特徴を結びつけたり、諸個人あるいは彼ら の行動を諸民族ないし諸時代を代表するものと見立てる習慣がある。さらにまた、一定の時代 や民族についてだけでなく、広く見られる社会的態度についてさえ、それら自身の、積極的起 動的な性質をもつ人間の人格に比すべきものを賦与して、それによって叙述する習慣がある。 例えば、諸行為をルネッサンス精神の現れだとか、フランス革命の精神の現れ、ドイツロマン 主義の精神の表現、ヴィクトリア朝時代の精神の表現だとか言うのである。こういった習慣 は、この新しい歴史主義的な物の見方から生じてきたものである。  ヘーゲルの独特な論理学の学説や自然科学の方法についての見解やは、不毛なものあり、概 して言えばその結果は有害であった。彼の真の重要性は、社会的歴史的な研究分野に及ぼした 影響力、新しい部門の創設に及ぼした影響力にある。創設された新しい部門とは、構成員たる 諸個人の次元からだけでは描きえない、大集合准人格 great collective quasi- personalities と見なされるべき、独自の生命と性格を有する人為的諸制度の歴史、および その制度にたいする批判である。この思想上の革命は、例えば国家、人種、歴史、時代といっ たものを超人格的な影響力の行使者として扱う、非合理的で危険な神話を培うに至った。しか し、この革命が人文諸科学に与えた影響は、非常に稔り豊かなものであった。ドイツには新し い歴史学派が生まれ、彼らの活動によって、諸事件をあれやこれやの国王ないしは政治家の性 格や意図の結果として、あるいは個人的な成功や失敗の結果として説明するすべての著述家 は、幼稚で非科学的であると見られるに至ったが、こういう風潮は右の思想革命の影響に負う ところ大なるものがあったのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第3章 絶対精神の哲学,II,pp.57-58,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





化学変化、生命現象、二人の人の対話、政治的過程、科学の発展、芸術の開花、あらゆる人間の文化の展開は、対立と矛盾を契機として、新たな組織的なもの全般的なものへと、不連続的に変貌を遂げる。これは内的論理に従い、より高次元の統一へと無限に続く過程である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)

ヘーゲルの発展概念

化学変化、生命現象、二人の人の対話、政治的過程、科学の発展、芸術の開花、あらゆる人間の文化の展開は、対立と矛盾を契機として、新たな組織的なもの全般的なものへと、不連続的に変貌を遂げる。これは内的論理に従い、より高次元の統一へと無限に続く過程である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831))














(a)対立と矛盾を契機とした不連続的変化
 化学変化、生命現象、二人の人の対話、政治的過程、科学の発展、芸術の開花、あらゆる人間の文化の展開は、対立と矛盾を契機として、新たな組織的なもの全般的なものへと、不連続的に変貌を遂げ、これは無限に続く過程である。
(b)止揚(Aufhebung)の原理
 常により高次元の統一へと向かう包摂・吸収と分解・解決、止揚(Aufhebung)の 原理は、さまざまな思想においても自然においても見られるものである。
(c)内的論理の自己展開
 内的論理を有していてそれに沿ってますます大きな規模での自己実現を目指して進むもの である。絶対精神ないし普遍理念は完全な自己 認識へと一歩近づき、人類は一段階前進する。
(d)現実の自己認識としての思想
 思想とは、自己自身を意識するに至った現実に他ならないのであり、この現実が自己を意識 する過程とは、自然が最も明瞭な形態をとって現れる過程に他ならない。

「ヘーゲルの弁証法的発展概念  しかしながら、発展概念に関して、ヘーゲルにはライプニッツと鋭く食い違う点があった。 ライプニッツのい発展概念は、ある本質が可能性から現実性へと自己を展開する円滑な進歩と いうものであった。これに対してヘーゲルは、闘争と戦争と革命の、別言すれば世界の惨憺た る荒廃と破壊の現実性および必然性を主張したのである。彼は、フィヒテに従って、あらゆる 過程は対立する諸勢力間の必然的な緊張の過程であり、各勢力は互いに他に対して競い合いつ つ、この相互の闘争によって自己の発展を促進するのだ、と言明した。この闘争は時には蔭に 隠れて行われ、時には公然と表面化するのであるが、しかし意識的活動の全領域のうちに、敵 対する肉体的、道徳的、知性的諸態度および諸運動の間の衝突として検索されうるのである。 そして闘争するそれぞれの勢力はいずれも、われこそは完全な解決をもたらすものなりと主張 するのであるが、いずれも一面的に偏っているために常に新たな危機を醸成するのである。こ の闘争は次第に強さと鋭さを増してゆき、公然たる衝突に転じ、闘争の当事者すべてを破砕し てしまう決定的激突において絶頂に達する。この時点において、これまでの連続的発展は断絶 し、新たな段階への突然の飛躍が生まれる。そしてこの新たな段階において、一群の諸勢力間 の新たな緊張が再開されることになる。  これらの飛躍のうちで十分に大きくまた際だった規模で発生するものが、政治的革命と呼ば れる。しかし、より小さな規模での飛躍は、例えば、芸術や科学において、生物学者が研究す る身体組織のなかにおいても、化学者が研究する原始的運動のなかにも、最後に一例を付加す れば二人の対立者の間で交わされる通常の議論のなかにもという具合に、あらゆる活動領域に おいて生ずるのである。そしてこの場合、それぞれの部分的な誤謬をもつものの間の闘争に よって新しい真理が発見されるのであるが、その新しい真理そのものが相対的なものにすぎ ず、別の敵対する真理によって攻撃を受けることになり、もう一度新しい段階で相互破壊が行 われる。そこにおいて対立する契機は新たな組織的なもの全般的なものへと変貌を遂げること になる――これはまさしく無限に続く過程なのである。ヘーゲルが、弁証法的過程と呼んだの が、この過程である。この闘争と緊張の概念こそが、歴史のなかの運動を説明するものとして 求められたあの動態的原理を正に成立せしめるものなのである。  思想とは、自己自身を意識するに至った現実に他ならないのであり、この現実が自己を意識 する過程とは自然が最も明瞭な形態をとって現れる過程に他ならない。常により高次元の統一へと向かう包摂・吸収と分解・解決――これをヘーゲルは止揚(Aufhebung)と名づけた――の 原理は、さまざまな思想においても自然においても見られるものである。またこの原理に即し て考えると、その辿る過程は、唯物論が前提している機械的運動のような無目的のものではな く、内的論理を有していてそれに沿ってますます大きな規模での自己実現を目指して進むもの であることは、明らかである。主要な過渡期はいずれも、大規模な革命的な飛躍、例えばキリ スト教の発生、蛮族によるローマの破滅、フランス大革命とナポレオン的新世界というような ものによって画されるのである。それぞれのばあいに、絶対精神ないし普遍理念は完全な自己 認識へと一歩近づき、人類は一段階前進するわけである。だが、その前進の方向は、それを準 備した闘争に関与するいずれの側によっても予想されえなかったものであり、それだけに、自 らの努力によって世界を形成することができるのだ、そういう特別の才能を有しているのだと 確信していた側に、ますます深刻な、理由の不明な絶望感を残すことになるのだ。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第3章 絶対精神の哲学,II,pp.59-61,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





個人の生涯の行為と経験の総体が、個人の人格的特徴、思想、嗜好、意図、論理、性質の表現であるのと同じく、宇宙全体、人類、民族の特定の時代も、理念、精神の表現である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831))

理念、精神の表現としての時代

個人の生涯の行為と経験の総体が、個人の人格的特徴、思想、嗜好、意図、論理、性質の表現であるのと同じく、宇宙全体、人類、民族の特定の時代も、理念、精神の表現である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831))

















(a)個人の人格、思想、性質の表現としての行為と経験
 個人の人格的特徴、その思想および嗜好における意図・論理・性質が、その人の生涯を通じて展開される活動と経験との総体に表現されている。かくて、ある人についてよく知れば知るほど、その人の道徳的精神的活動を、その外界への現れを通してより良く理解できる。
(b)宇宙全体、人類、民族の特定の時代も理念、精神の表現である
 ヘーゲルは、理念Ideaあるいは精神 Spiritという呼称で、その進化の諸段階を検討して類別を設け、そしてそれを特定の民 族と文化との発展、さらには知覚力をもった宇宙全体の発展の原動力をなす動態的要因であると断言したのである。  
(c) 文化は時代的個性全体の表現
 これまでのすべての思想家の誤りは、ある特定の時代のさまざまの活動領域をそれぞれ相対的に独立したものと考えるところにある。一時代の文化的諸現象やその諸現象を構成している特定の種類の諸事項 は、その時代全体の、またその時代的個性全体の表現である。



「それぞれの時代は、何らかの新しいものをその前の時代から引き継ぎ付け加えるのであっ て、それゆえに先行するどの時代とも異なる面を含むことになる。こうして発展に関する原理 は、ガリレオやニュートンが依拠している画一的な反復に関する原理とは相異なったものにな る。もし歴史が法則を有するとするならば、それはこれまで科学的法則の唯一可能な範型とし て通用してきたものとは、明らかに種類を異にするに違いない。しかも現に在るものはすべて 時間的に持続しているものであり、何らかの歴史をもっているものである――まさにこのような 理由のゆえに、歴史の法則は、現存するあらゆるものの存在の法則と同一であるに相違いな い。  では、この歴史的運動を律する原理をどこに求めるべきであろうか。この動態的原理を、か の経験論者たちが嘲笑の的とした悪名高きもの、つまり人間が探究しえない神秘的超自然的な 力に求めるというのでは、人間の怠慢と理性の敗北を告白するに等しいことになる。われわれ にとって最も目に見え易く心に浮かび易いもの、他のいかなる経験にもましてわれわれが熟知 しているものが、人間の通常の生活を支配しているというのでなければ、不自然ということに なる。そこで、われわれは、自分自身の生活を、宇宙を映しだす小宇宙、宇宙の雛形であると 考えさえすればよい。われわれは人間の行動と思想を説明するものとして、その人の生活につ いて、気質について、意図や動機や目的についてよく語るが、その際、それらを、その人の行 動や思想から全く切り離された独立の事項としてではなく、その人の行動や思想を表現する通 常の形態として語るのである。かくて、ある人についてよく知れば知るほど、その人の道徳的 精神的活動をその外界への現れを通してより良く理解できると言って大過ないだろう。ヘーゲ ルは、個人の人格的特徴という概念、その思想および嗜好における意図・論理・性質を巡る概 念、その人の生涯を通じて展開される活動と経験との総体についての概念を、文化と民族との 全体に関わる事柄に振り向けたのである。彼は、それに場合に応じて理念Ideaあるいは精神 Spiritという呼称を与え、その進化の諸段階を検討して類別を設け、そしてそれを特定の民 族と文化との発展、さらには知覚力をもった宇宙全体の発展の原動力をなす動態的要因である と断言したのである。  ヘーゲルは、さらに歩を進める。これまでのすべての思想家の誤りは、ある特定の時代のさ まざまの活動領域をそれぞれ相対的に独立したものと考えるところにある、例えばある時代の 戦争をその時代の芸術から切り離して考え、ある時代の哲学をその時代の日常生活から分離し て考えるところにある、と説いた。当然のことであるが、われわれは個々人について考える時 には、この種の分離して考えるという方法はとらない。よく知っている人々の場合、われわれ は半ば無意識のうちに、その人々の全行動を、一連の目的意識的行為が異なった現れ方をした ものとして、相関連させて把握しようとする。彼らの生涯の事績のあれこれの局面から抽出さ れた無数の判断材料を統合して、彼らについてのわれわれの心像が形成されるのである。ヘー ゲルによれば、このような方法が、文化について、あるいは特定の歴史時代について考える場 合にも同様に適用されるのである。過去の歴史家はあれこれの都市や戦争の歴史、あれこれでの 国王や武将の行動の歴史を描く時、それらの事柄が当時の他の諸現象から孤立隔在して単独で 動いていたかの如く著述する傾向があった。しかし、ある個人の行為が個人全体の行為の反映 であるのと同様に、一時代の文化的諸現象やその諸現象を構成している特定の種類の諸事項 は、その時代全体の、またその時代的個性全体の表現であり、遭遇するものすべてを理解しか つ支配すること――すなわち完全な自己統制、ヘーゲル的意味での自由――を求める探究的存在と しての人間の特定の局面の表現なのである。われわれは、ある現象について、それが現代世界 よりは古代世界に典型的であるとか、安定した平和の時代よりは混沌の時代を代表するとか言 うことがあるが、その際われわれは、全体像を表現するものとしてのある時代の一元的性格の 存在を、暗黙のうちに承認しているのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス──その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第3章 絶対精神の哲学,II,pp.54-56,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





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