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2022年2月21日月曜日

14.富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができる場合にのみ、弁明可能になる。そして、社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。 人類は、いずれこのような倫理を持つことが可能である。(マルセル・モース(1872-1950))

与えることが最高の価値である社会

富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができる場合にのみ、弁明可能になる。そして、社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。 人類は、いずれこのような倫理を持つことが可能である。(マルセル・モース(1872-1950))
















「モースは、自らの実践的結論がどのようなものなのかについて、決して完全な確信に達す ることがなかった。 

ロシアの経験から彼が理解したのは、近代社会において――少なくとも「予 見可能な未来においては」――売り買いをきれいさっぱり廃止してしまうことはできないという こと、しかし市場倫理の廃絶ならできる、ということだ。

労働を協同のかたちで行い、実効的 な社会保障を確立し、そうして徐々に、新しい倫理を生み出していくことができるだろう。新 しい倫理とはすなわち、富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができ る場合にのみ、弁明可能になるというものだ。

結果として生まれる社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を 歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。  

こうした主張のなかには、今日の観点からは恐ろしく素朴に見えるものもあるかもしれな い。けれどもモースの洞察の核をなす部分は、75年前よりも今日――経済学が「科学」を自称し つつ、事実上、現代社会の啓示宗教となってしまった今日――においてこそ、いっそう有効なも のになっている。ともかく、MAUSSの創始者たちにはそのように思われたのだった。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,【付録】惜しみ なく与えよ,pp.150-151,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






13.人間の動機は快楽、安逸、物資的所有への欲望のみではなく、また、かつて物々交換経済のみが存在したというのは事実ではない。ほとんどの事物が贈り物として行き来し、人々が純粋な気前の良さを誇示し、最も多く与え手放すことを価値とするような社会も存在する。(マルセル・モース(1872-1950))

経済学の仮説は自明ではない

人間の動機は快楽、安逸、物資的所有への欲望のみではなく、また、かつて物々交換経済のみが存在したというのは事実ではない。ほとんどの事物が贈り物として行き来し、人々が純粋な気前の良さを誇示し、最も多く与え手放すことを価値とするような社会も存在する。(マルセル・モース(1872-1950))






















(a)経済学の仮説は事実ではない
 「科学」を称する経済学が経済史についてこれまで語ってきた事柄のほとんどすべてが、事実に反するものだった。
 (i)人間の動機は快楽、安逸、物資的所有への欲望のみではない
  人間存在を突き 動かしているのは本質的に言って、自らの快楽、安逸、物資的所有、つまり自らにとっての 「効用」を最大化しようとする欲望であり、だから意味のある人間的相互作用はみな、市場の観点から分析することができるという仮説は、事実ではない。
 (ii)最初に物々交換があったというのは事実ではない
  公式の物語に従うなら、最初に物々交換が あった。人びとは、互いが欲しい物を直接交換するほかなかった。それでは不便なので、誰も が使える交換の媒体として貨幣が発明された。さらなる交換技術の発明、信用売買、銀行業、 証券取引は、その論理的延長にすぎない。  

(b)贈与経済の存在
 (i)純粋な気前の良さを誇示
  その社会では、ほとんどの事物が贈り物として行き来し、 私たちが「経済」行動と呼ぶようなものはほとんどすべて、純粋な気前の良さを誇示し、何かを誰かに与えたのは誰なのかを厳密に計算に入れるようなことはしないという原則に基づいて いた。
 (ii)最も多く与え手放すこと
  こうした「贈与経済」は、時として高度に競争的なものとなりうる。誰が最も蓄積することができたか を競うのではなく、勝利者は、最も多くを与え、手放した者だった。そのため、惜しみない与 えっぷりの劇的な競い合いが生じることもあった。



「もしもロシア――たぶんヨーロッパで貨幣化の度合いが最も低い国――においてさえ、単純に 法律によって市場を廃止してしまえるものではないのであれば、革命家たちは明らかに、この 「市場」なるものは一体何なのか、それはどこからやって来たのか、そしてそれに対する実行 可能なオルタナティヴはじっさいどのようなものでありうるのか、もっと真剣に考え始める必 要がある。

モースはそのように考えた。そのためには今こそ、歴史学と民俗学の研究成果を活 用しなければならない。  モースがそこから引き出した結論は驚くべきものだ。

まずは、「科学」を称する経済学が経 済史についてこれまで語ってきた事柄のほとんどすべてが、事実に反するものだったとされ る。

昔も今も、自由市場に熱狂する人びとが揃いも揃って想定しているのは、人間存在を突き 動かしているのは本質的に言って、自らの快楽、安逸、物資的所有(つまり自らにとっての 「効用」)を最大化しようとする欲望であり、だから意味のある人間的相互作用はみな、市場 の観点から分析することができる、ということだ。

公式の物語に従うなら、最初に物々交換が あった。人びとは、互いが欲しい物を直接交換するほかなかった。それでは不便なので、誰も が使える交換の媒体として貨幣が発明された。さらなる交換技術の発明(信用売買、銀行業、 証券取引)は、その論理的延長にすぎない。  

モースがただちに指摘しているように、こうした物語の問題は、物々交換に基づく社会がこ れまでに実在したということを信じられるだけの理由はどこにもない、ということだった。

そ れどころか、人類学者たちは当時、物々交換とはまったく別の諸原理に基づいて経済活動を営 む諸社会を発見しつつあった。

それらの社会では、ほとんどの事物が贈り物として行き来し、 私たちが「経済」行動と呼ぶようなものはほとんどすべて、純粋な気前の良さを誇示し、何か を誰かに与えたのは誰なのかを厳密に計算に入れるようなことはしないという原則に基づいて いた。

こうした「贈与経済」は、時として高度に競争的なものとなりうる。けれどもその場 合、私たちの経済とは正確に反対のやり方でそうなるのだ。誰が最も蓄積することができたか を競うのではなく、勝利者は、最も多くを与え、手放した者だった。そのため、惜しみない与 えっぷりの劇的な競い合いが生じることもあった。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,【付録】惜しみ なく与えよ,pp.146-148,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






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