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2020年5月6日水曜日

科学における仮説的推理に類似している司法過程の解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ハート(1907-1992))

心理学的な事実と諸原理、評価基準

【科学における仮説的推理に類似している司法過程の解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 参考:正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 参考:司法過程は、科学における仮説的推理に類似しているとはいえ、その方法の客観的な記述(記述的理論)とは別に、その方法がいかにあるべきかを指図する理論(指図的理論)も存在しており、別の評価が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「発見の方法と評価の基準 司法的推論に関する記述的理論と指図的理論の両方を考察する場合に、次のものを区別することが重要である。つまり、
(1)裁判官が実際にその決定に到達する際の、通常の思考過程とか思考習慣についてなされる主張、
(2)従われるべき思考過程についての提言、
(3)司法的決定が評価されるべき基準、
である。これらのなかで、(1)は記述心理学の問題に関わっている。そしてこの分野の主張は、そられが検討されている事例の記述を超え出ている限りにおいて、心理学の経験的一般命題ないし法則なのである。(2)は司法判断の技法ないし技巧に関わっており、この分野の一般命題は司法的技術の諸原理である。(3)は決定の評価ないし正当化に関係している。
 これらの区別は重要である。なぜなら、裁判官はしばしば、法的ルールないし先例の関与するいかなる熟考ないし推理の過程も経ることなく決定に到達しているから、決定において法的ルールからの演繹が何らかの役割を果たしているとする主張は誤りである、と時折論じられてきたからである。この議論は混乱している。というのは、一般的にいって、そこで争われているのは、裁判官が実際にその決定に到達している仕方、あるいは到達すべき仕方に関わる問題ではないからである。それはむしろ、裁判官が決定――それがどのようにして到達されようとも――を正当化する際に考慮する諸基準に関わっているのである。決定が熟慮によって到達されようと、直感的なひらめきによって到達されようと、その決定の評価において論理が用いられているかどうかということこそが真の問題であろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問題,p.121,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))
(索引:仮説的推理,司法過程,思考過程,心理学的事実,原理,基準,評価)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年11月19日月曜日

互いに抵触しあう諸原理が並立し得るのに対して、例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法準則と原理

【互いに抵触しあう諸原理が並立し得るのに対して、例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(2.2)追記

 参照: 見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1)原理には、重みとか重要性といった特性がみられ、それを有意味に問題にし得る。
 (1.1)複数の原理が抵触しあうとき、相対的な重みを考慮に入れる必要がある。
 (1.2)ただし重みには、精確な測定などあり得ず、特定の原理や政策が他より重要であるという判断は、しばしば議論の余地あるものとなる。
(2)これに対して、二つの法準則が抵触することはあり得ない。
 (2.1)見掛け上抵触する場合にも、法体系にはこの種の抵触を規律する別種のルールが存在する。
  (a)高次の権威が制定した法準則の優先
  (b)後に確立された法準則の優先
  (c)あるいは、より特殊な法準則の優先
  (d)その他の類いの法準則の優先
  (e)法体系によっては、より重要な原理に支持された法準則を優先
 (2.2)例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。法準則が、ある例外的事案と抵触しあっているように見えるとき、例外的準則を含まない法準則は、不完全なのである。

 「私の主張は、ある法準則の「完全な」陳述には当該準則に対する例外的準則も含まれるということ、そしてこのような例外的準則を無視した法準則の陳述は「不完全」である、ということであった。もし私がラズの反論に予め気づいていれば、このようなかたちで私の見解を提示することはなかっただろう。すなわち私は、例外的法準則は本来の法準則を修正したかたちで提示されることも、また自己防衛に関する法準則のように別個の法準則として提示されることもありうると、明言していただろう。しかしたとえそうだとしても、同時に私は両者の相違が主として記述の問題にすぎないことをも明言したはずである。したがって法準則と原理の区別は損なわれることなく維持されることになる。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,5 法準則は本当に原理とは別のものか,木鐸社(2003),pp.90-91,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法準則,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2018年11月18日日曜日

道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

道徳や倫理的規準と、ルールと原理

【道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。

参照: 論証における原理の作用の特徴:(a)特定の決定を必然的に導くことはない、(b)論証を一定方向へ導く根拠を提供する、(c)互いに逆方向の論証へと導くような諸原理が、相互に作用しあう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
参照: 見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 「確かに道徳的な人間は、嘘をつくか約束を破るかを選択しなければならない場合、困難な状況に置かれることになるだろう。だからといって、当該問題に関し衝突するに到った両者をルールとして彼が容認していたことにはならない。単に彼は嘘言と約束違反を両者とも原則として不正なものとみなしたにすぎない、と考えられるのである。
 もちろん我々は、彼が置かれている状況を二つの倫理的規準のいずれかを選択せざるを得ない状況として記述し、たとえ彼自身は当該状況をこのように表現しなくとも我々はこれを正しい記述と考えるかもしれない。しかしむしろこの場合、既に私が使用した区別を用いれば、彼は競合する二つのルールではなく、二つの原理について解決を見出すように迫られていると考えるべきなのである。何故ならば、この法が彼の状況をより正確な仕方で記述していると考えられるからである。彼はいかなる倫理的考慮もそれ自体では圧倒的に優勢な効力をもちえないこと、そしてある行為を禁ずるいかなる根拠も状況によってはこれと競合する別の考慮に屈せざるをえないことを認めている。それ故、彼の倫理的実践を社会規準のコードを用いて説明しようとする哲学者や社会学者は、彼にとり道徳がルールの問題ではなく原理の問題であることを認めざるをえないのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,5 法準則は本当に原理とは別のものか,木鐸社(2003),p.86,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:道徳,倫理的規準,ルール,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年11月9日金曜日

法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の総体を正当化すべく要請された法理論

【法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 ある法理論を、他の法理論より優先して選択すべき、いかなる基礎が存在するかが問題である。
(1)法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論へと深く入り込まざるを得ないであろう。
(2)ある法律家の法理論においては、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理は、ほぼ全て何らかの意義と役割を持つであろう。
(3)ただし、憲法上の配慮により排除される原理は別とする。
(4)制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理だけでは、政治理論や道徳理論の構成には不十分である。
 参照: 原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 「私は他の法理論に優先してある理論を選択すべきいかなる基礎も見出されない、と主張しているのではない。逆に次節で検討される裁量論を私が拒否することからもわかるように、ある理論を他より勝れたものとして区別する説得力ある論証を示し《うる》と私は考えている。しかしこれらの論証は、たとえば社会における平等義務の本質は何か、といった規範的政治理論の諸問題の論証を含み、この種の論証は、法とは何かを決定する際に考慮さるべき問題には一定の限界がある、という実証主義的な観念では捉えることのできない論証である。制度的支えというテストは、ある法理論を最良の理論として特定化する機械的ないし歴史的基礎や倫理的に中立的な基礎を我々に与えてはくれない。それどころかこのテストは、ある一人の法律家が一連の法的原理を他のより広範な倫理的ないし政治的原理から区別することさえ可能にしないのである。通常、法律家の法理論には彼が受容するほぼすべての政治的倫理的原理の総体が含まれるだろう。確かに、憲法上の配慮により排除される原理を別とすれば、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理でありながら、法の総体を正当化すべく要請された詳細な正当化図式の内部には属さず、この図式において何の意義ももたないような原理を一つでも考えだすことは困難である。それ故実証主義者が制度的に確立した慣行を法の窮極的テストの役割を演ずるべきものとして採用しても、これはただ彼の台本の残りの部分をその犠牲として放棄することによってのみ可能なのである。
 しかしもしそうであれば、法理論にとり由々しい結果が生ずることになる。法理論は「法とは何か」という問いを立て、大半の法哲学者は法的権利義務の立証過程において適切な仕方で登場する「規準」を特定化することにより、この問いに答えようとしてきた。しかし、このような規準の網羅的なリストが作成されえないとすれば、法的権利義務を他のタイプの権利義務から区別する別の方法が発見されねばならない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,3「制度的支え」は承認のルールを構成するか,木鐸社(2003),pp.79-80,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法理論,政治理論,道徳理論,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年10月28日日曜日

原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

原理の存在を擁護する諸慣行

【原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(1)法準則と先例
 (1.1)法準則は、権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。
 (1.2)裁判官は、特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し、将来の事案に対する先例として確立する。
(2)諸原理
 (2.1)これに対して諸原理は、ハートが言うように「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示できるような、承認のルールを持っているわけではない。また、重要性の等級づけについても、単純な定式化が存在するわけではない。
 (2.2)諸原理は、相互に支えあって連結しており、これら諸原理の内在的意味により、当該原理を擁護しなければならない。
 (2.2.1)原理の制度的な支え
  (a)当該原理を具体的に表現していると思われる制定法
  (b)当該原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案
  (c)当該原理を引用している制定法の序文
  (d)当該原理を引用している委員会報告、その他の立法関係書類など
 (2.2.2)推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準の総体
  (a)制度的責任
  (b)法令解釈の一定の技術
  (c)各種判例の特定の理論と、その説得力
  (d)これらの慣行を支えている、何らかの一般的諸原理
  (e)これらすべての問題と、現在の道徳的慣行との関連性
 (2.2.3)一般市民が適正と感じ、公正と思うような、何らかの役割を演じている道徳的慣行

 「ハートによれば、多くの法準則は権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。ある法準則は立法府により制定法のかたちで創出され、他の法準則は特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し将来の事案に対する先例として確立する裁判官により創出される。しかし、法準則のこのような系譜テストはリッグス事件やヘニングセン事件にみられる原理にはあてはまらない。これらの原理が法的原理とされるのは、立法府や裁判官の特定の決定に由来するからではなく、ほんとうは一般市民がこれらの原理を長い期間のうちに適正なものと感ずるようになったからである。適正さの感覚が維持されるかぎり法的原理は依然として効力をもち続ける。不法による利益取得を許可することがもはや不公正と思われず、また危険をはらむ器械を独占的に製造する少数会社に特別の負担を課することが公正と思われなくなれば、これらの原理はたとえ破棄ないし撤廃されなくとも、その後新たな事例でそれなりの役割を演ずることはもはやないであろう。(事実、この種の原理について「破棄される」とか「撤廃される」とか語るのは無意味である。原理が沈没するのは、いわば腐蝕したからであり魚雷攻撃をうけたからではない。)確かに、ある原理が法的原理であることを我々が主張し、この主張を正当化するよう要求された場合、我々は当の原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案を引き合いに出すであろうし、また、この原理を具体的に表現していると思われる制定法を指摘するであろう(この場合、当の原理が制定法の序文や、制定法に伴う委員会報告その他の立法関係書類で引用されていれば、なお都合がよい)。我々がこのような制度的支えを見出せなければ、我々の主張の立証は失敗するだろうし、逆に多くの支えを見出すことができれば、それだけ原理の重要性を強く主張できるのである。
 しかしそれにもかかわらず、原理が法的原理となるためにいかなる制度的支えがどの程度必要かを明示したり、ましてや原理の重要性に一定の等級づけを与えるためにどの程度の制度的支えが必要かを明示するような定式を考え出すことは不可能である。我々が特定の原理を支持する論証を行うとき、これは推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準(この規準自体も法準則ではなく、むしろ原理と考えられる)の総体と取り組みつつなされるのであり、これらの規準には、制度的責任、法令解釈、各種判例の説得力、及びこれらすべての問題と現在の道徳的慣行との関連性などに関する諸規準、その他この種の多くの規準が含まれている。どれほど複雑なものであれ単一の「ルール」にこれらすべての規準を詰め込むことはできないし、仮にこれが可能としても、結果として生ずるルールはハートの承認のルールとは似ても似つかぬものになるだろう。ハートの描く承認のルールは、「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示する、きわめて確固とした主導ルールだからである。
 更に、ある別の原理を擁護する際に我々が援用する論証手段は(ハートの承認のルールがそう考えられているのとは異なり)、これらの諸手段により支持される諸原理と全く異なる次元に属しているわけではない。ハートが主張するような受容と妥当性の厳格な区別はここではあてはまらない。たとえば、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない、という原理を擁護する場合、我々はこの原理を具体的に表明している裁判所や立法府の行為を援用するが、この場合原理は受容されているとも言えるし、また妥当性を有するとも言える(妥当性を有するという言い方を原理について用いることは、いかにも奇妙と思われる。これはおそらく妥当性が黒か白かの概念であり法準則には十分あてはまるが、原理のもつ重みの次元とは相容れない概念だからであろう)。我々はこの原理を擁護する議論において、判例に関する特定の理論や法令解釈の一定の技術を援用するが、これらを更に擁護するよう要求された場合(この要求は至極当然のことであるが)、我々はあきらかに当の理論や解釈技術を使用している他の人々の慣行を援用するであろう。しかし我々はこれ以外に、この慣行が依拠すると思われる他の一般的諸原理をも援用するはずであり、このことにより受容という和音に妥当性という旋律が導入されるのである。たとえば我々は次のように主張するだろう。つまり過去の事案や法令の使用は立法活動や判例理論の趣旨を一定の仕方で分析したり、民主制理論の諸原則を提示したり、更に中央政府と地方自治体との間で制度上の権威を一定の立場から適正に分配すること、その他これに類したことにより支持される、と。またこのような支持の過程は、受容のみに基礎をおいた何らかの窮極的原理へと至る一方通行的な過程ではない。我々が提出する立法、判例、民主制、連邦主義などに関する諸原理が更に挑戦を受けることもありうるだろう。もしそうなれば、我々はこれらを単に慣行のみにより擁護するだけでなく、これら諸原理の内在的意味などにより擁護しなければならない。もっとも、この最後の手段のために我々は様々な解釈理論を援用するが、これら解釈理論が、今まさにここで我々が擁護しようとする諸原理によって既に正当化された理論であるようなことも已むをえないのである。換言すれば、このような抽象的な次元では、諸原理は相互に連結するというよりは互いに支えあっていると言うべきだろう。
 それ故、諸原理が法制度の公的慣行から支えを得るとしても、原理はこれらの慣行と単純なかたちで直接的に結合しているわけではなく、したがって承認のルールといった特定の窮極的な主導ルールにより明示された規準によってこの結合を定式化することはできない。それでは、原理がこのようなルールのもとに包摂され得る何か別の方法があるだろうか。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.39-41,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年10月26日金曜日

07.法準則が時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて修正されていく現象を、どのように理解するか。裁判官は、法に内在する諸原理によって導かれているのか、法外在的な規準を自由に選択して決定しているのか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か?

【法準則が時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて修正されていく現象を、どのように理解するか。裁判官は、法に内在する諸原理によって導かれているのか、法外在的な規準を自由に選択して決定しているのか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1.c.1)~(1.c.2)追記。

 (1.c)難解な事案において、法的権利義務は判決以前にも所与として既に存在しているはずであり、裁判官は拘束力ある法的規準を適用して、その権利義務を明らかにする。
  (1.c.1)まず、次の事実が存在する。上級裁判所は、既存の法準則を否定することもある。法準則は、時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて根本的に修正されていく。いかなる場合に裁判官には既存の法準則の変更が許されるのだろうか。
  (1.c.2)諸原理が「法」であるならば、法準則と諸原理の総体的な体系の中で、当該の法準則の変更が、他の原理に比較して一層重要なある原理を促進すると判断されたと考えることができる。これは、無数の法外在的な規準の中から、裁判官が自ら自由に選択しつつ決定し得ることとは異なる。

 「アメリカの多くの法域において、また現在ではイギリスにおいても、上級裁判所が既存の法準則を否定することは決して稀なことではない。コモン・ローの法準則――これらは過去の裁判所の判決を通じて発展したものであるが――は、しばしば端的に否定され、あるいは更なる発展を通じて根本的に修正されていくことがある。また制定法上の法準則も解釈、再解釈をうけ、場合によっては解釈が結果的にはいわゆる「立法者意思」を無視する場合でも、これは認められている。もし裁判所が既存の法準則を修正する裁量を有するのであれば、当然これらの法準則は裁判所を拘束していないことになり、実証主義モデルでいう法とは言えなくなるだろう。それ故実証主義者は、裁判官をそれ自体で拘束するある種の規準の存在、つまりいかなる場合に裁判官は既存の法準則を否定ないし修正しえて、いかなる場合にこれが不可能かを規定する規準の存在を論証しなければならない。
 それでは、いかなる場合に裁判官には既存の法準則の変更が許されるのだろうか。この問いへの返答において、原理が二つの仕方で登場してくる。第一に、裁判官は法準則の変更がある原理を促進すると判断することが必要――十分とは言えないまでも――であり、この場合、当の原理は法準則の変更を正当化することになる。リッグス事件における法準則の変更(遺言規定の新解釈)は、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない、という原理によって正当化され、ヘニングセン事件においては、自動車製造業者の責任に関し従来まで認められていた法準則が、裁判所の意見の中から私が引用した上記の諸原理を正当根拠として、修正されたのである。
 しかし、どのような原理でも法準則の変更を正当化しうるわけではない。さもなければ、あらゆる法準則が常に変更されうるという不安定な状態におかれてしまうだろう。法準則を変更しうるほど重要な原理とそうでない原理があるはずであり、更に前者の原理でも、他の原理に比べて一層重要なある種の原理が存在するはずである。しかしこれは、基本的にはいずれも採用される資格があり考慮に値する無数の法外在的な規準の中から、裁判官が自ら自由に選択しつつ決定しうることではない。もしそうだとすれば、いかなる法準則も拘束力を有するとは言えなくなるからであり、裁判官が法外在的な規準を選択する仕方によっては、最も確固とした法準則に関してでさえ、修正や根本的再解釈が正当化されてしまうことが常に予想しうるからである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),pp.35-36,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年10月25日木曜日

06.a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か?

【(a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1.b.1)~(1.b.4)追記

 (1.a)原理は、法としての拘束力を有する。法的義務について判断を下す裁判官や弁護士にとって、この原理は顧慮されるべきである。
 (1.b)したがって、ある原理が当該事案に関連のあるものであれば、これを適用しない裁判官は不正を行なっていることになる。
  (1.b.1)例えば、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が、当該事案の裁判官により無視された場合、「慣行が無視された」と指摘することが妥当であろうか。
  (1.b.2)特定の原理の顧慮は単に「道徳的」な義務にすぎないとか、司法の「職業倫理上」の拘束であり、法としての拘束力は有しないなど言えるだろうか。
  (1.b.3)原理の権威や、原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。このことをもって、原理は法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。
  (1.b.4)拘束力のある法には、承認のルールのような「テスト」するルールがあり、原理にはこのようなテストが存在しないので、法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。

 「(1)まず実証主義者は、原理というものはそもそも拘束したり義務づけることはありえない、と主張するかもしれない。しかしこれは間違いだろう。特定の原理が「事実として」法適用の任務に当たる人々を拘束しているかという問題はもちろん常に提起しうる。しかし原理の論理的性格の中には、それが裁判官を拘束することを不可能にするようなものは含まれていない。ヘニングセン事件において、自動車製造業者は消費者に対し特別の義務を負うという原理や、裁判所は取り引き上弱い立場にある者を保護するという原理を裁判官が顧慮せずに、ただ契約自由の原理のみを援用し被告に有利な判決を下した場合を想定してみよう。これを批判する者は、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が当該事案の裁判官により無視された事実を指摘するだけでは満足しないだろう。ほとんどの批判者は、上記の原理を顧慮することは当該裁判官の義務であり、原告は裁判官に対しこれを要求する権利があると答えるだろう。ある「ルール」が裁判官を拘束すると言われる場合、その意味するところは、ルールが当該事案に適用可能であれば裁判官はこれに従う義務があり、従わなければこのことにより誤りを犯したことになる、ということに他ならない。
 ヘニングセン事件のごとき事案では、裁判所は特定の原理を顧慮すべく単に「道徳的」に義務づけられるにすぎないとか、「制度的に」義務づけられるにすぎないとか、あるいは司法の「職業倫理上」拘束されるとか、その他この種の主張を行なっても問題の解決にはならない。というのも、何故この種の義務(この義務を何と呼ぼうと)と、法準則が裁判官に課する義務とを相互に異質のものと考えねばならないのか、そして何故原理や政策が法の一部分ではなく、単に「裁判所が特徴的な仕方で用いている」法外在的な規準にすぎないと断言しうるのか、といった問題が以前として未解決のまま残るからである。
 (2)次に実証主義者は、ある種の原理は、裁判官がこれを顧慮すべきだという意味で拘束力をもつことを認めた上で、原理が特定の結論へと裁判官を決定づけることはありえない、と主張する。」(中略)「これは原理が法準則ではないことを別の表現で述べているにすぎない。結論が何であろうと、特定の結論を導出すべく適用者に命令するのは法準則だけである。法準則が指示するものと反対の結論が導出されれば、これは法準則が放棄されたか修正されたからである。しかし原理はこのようには作用しない。」(中略)「
 (3)更にある実証主義者は次のように論じるだろう。すなわち原理の権威や、ましてや原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、したがって原理を法とみなすことはできない、と。確かにしばしば我々は国会の決議や権威ある裁判所の意見の中に法準則を位置づけることにより、その妥当性を証明するが、これと同様の仕方で特定の原理の権威や重みを「証明」することは一般的にいって不可能である。むしろ、原理や原理の重みの根拠を提示しようとする場合、我々が援用するのは、立法過程や司法過程において以前から暗黙裡に前提されてきた慣行や他の原理の複合体、及び社会一般の慣行や了解などである。この種の事柄においては、ことの是非を確証するようなリトマス試験紙は存在しない――これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。しかし繰り返しになるが、このような実証主義者の主張が正しいからといって、裁判官が裁量をもたない他のタイプの裁定者と異なっていることにはならない。」(中略)
 「もちろん、法実証主義にはもう一つ別の理論――すなわち各々の法体系にはハート教授のいう承認のルールのごとき、拘束力のある法を窮極的に「テスト」するルールがあるという理論――が存在し、もし実証主義者のこの理論が正しいとすれば、原理は拘束力のある法ではないことになる。しかし原理が実証主義理論と両立しないからといって、原理を法とは異なる何か特別なものと考えるべき理由にはならない。これは問題とされていることを既に真と仮定しての議論に過ぎない。我々は実証主義的な法モデルが果たして適切か否かを評価しようとしているのであり、それ故にこそ原理の性格に関心を向けているのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),pp.31-34,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年10月21日日曜日

05.諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か否か

【諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 諸原理を「法」と考えるかどうかにより、重要な違いが生ずる。これは、「法」という言葉の定義の問題と考えることは誤りである。
(1)「法」には、法準則の他に、ある原理も含まれる。
 (1.a)原理は、法としての拘束力を有する。法的義務について判断を下す裁判官や弁護士にとって、この原理は顧慮されるべきである。
 (1.b)したがって、ある原理が当該事案に関連のあるものであれば、これを適用しない裁判官は不正を行なっていることになる。
 (1.c)難解な事例において、法的権利義務は判決以前にも所与として既に存在しているはずであり、裁判官は拘束力ある法的規準を適用して、その権利義務を明らかにする。
 (1.d)もし判決が上記のようなものなら、正しい判決、誤った判決という言葉は意味を持つ。
(2)「法」には、原理は含まれない。
 (2.a)原理は、法としての拘束力を有しない。法的義務について判断を下す裁判官や弁護士にとって、「法」の領域の外に出て、諸原理を任意に自由に採用することができる。
 (2.b)したがって、裁判官がある原理を用いる場合には、ほとんどの裁判官が原則的に「慣行としている」ようなことの要約として、原理を理解している。
 (2.c)難解な事例において、法的権利義務は既存の法によっては決着がつくことはなく、裁判官は、事後的に適用される司法的裁量行為により、新たな権利義務を確定しなければならない。
 (2.d)もし判決が上記のようなものなら、正しい判決、誤った判決という言葉は無意味である。

 「法的義務という概念を分析するには、特定の法的決定に至る際に原理が演ずる重要な役割を顧慮しなければならない。この場合我々は二つの非常に異なった態度をとることができる。
 (a)我々は法的原理を法準則と同じ仕方で扱いある原理は法として拘束力を有し法的義務について判断を下す裁判官や弁護士により顧慮されるべきものとみなす。もし我々がこの態度をとれば、少なくとも合衆国に関しては「法」には法準則と同様に原理も含まれると考えるべきである。
 (b)他方我々は、原理がある種の法準則と同じような仕方で拘束力をもちいることを否定することもできる。したがって、リッグスやヘニングセンのような事案では、裁判官はむしろ彼らが適用すべく義務づけられた法準則の外に出て(つまり「法」の領域の外に出て)、法の外にある諸原理を任意に自由に採用する、と考えることができよう。
 これら二つの相反する主張の間にはそうたいした相違はなく、これは「法」という用語をいかなる意味で使うかに関する言葉の問題にすぎない、と考える人もいるであろう。しかしこれは誤りである。というのも、これら二つの説明のうちどちらを選ぶかは、法的義務の分析にとりきわめて重大な帰結を含むからである。これは法的原理に関する二つの「概念」のうちどちらを選択するかの問題であり、この選択の意味を明確にするには、我々が法準則に関する二つの概念について行なう選択と上記の選択を対比するとよい。」(中略)
 「原理をめぐる前述の相反する二つの見解は、法準則に関するこれら二つの説明とパラレルな関係にある。第一の立場は裁判官を義務づけるものとして原理を捉えており、したがって原理が当該事案に関連のあるものであれば、これを適用しない裁判官は不正を行なっていることになる。これに対し第二の立場は、彼らを拘束する諸規準以外のものに依拠せざるをえないときに、ほとんどの裁判官が原則的に「慣行としている」ようなことの要約として、原理を理解するのである。リッグスやヘニングセンのごとき難解な事案においても、法的権利義務は判決以前に所与として既に存在しており、裁判官はこの権利義務に効力を認めようとしているのか否かが問題となるとき、この問題への回答は、原理に関する上記二つのアプローチのうちどちらを選択するかに影響をうけ、あるいはむしろ、これが決定的なものとなると言ってもよかろう。もし第一の立場をとれば、裁判官は拘束力ある法的規準を適用しており、それ故既存の法的権利義務に効果を認めているのである、といった議論は依然として可能であるが、第二の立場をとれば、当該問題はいわば既存の法により決着がつくことはなく、リッグス事件の殺人犯である甥やヘニングセン事件の製造業者は、「事後的に」適用される司法的裁量行為により彼らの財産を剥奪されたことを我々は認めねばならない。こう述べても多くの読者は別に驚かないかもしれない――司法的裁量という観念は当たり前のこととして法社会の隅々まで浸透しているからである――。しかし、今述べたことは、最も厄介な難題の一つの例証となるものであり、法的義務につき何かと哲学者に懸念を抱かせることになるのもこの難題なのである。上記の事例において、財産の剥奪が既存の義務へと訴えることにより正当化されないとすれば、他の正当化が発見されねばならない。しかし今のところ、満足のいく解答は提示されていない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,4 原理と法概念,木鐸社(2003),pp.23-26,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


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ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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