2018年10月25日木曜日

06.a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か?

【(a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1.b.1)~(1.b.4)追記

 (1.a)原理は、法としての拘束力を有する。法的義務について判断を下す裁判官や弁護士にとって、この原理は顧慮されるべきである。
 (1.b)したがって、ある原理が当該事案に関連のあるものであれば、これを適用しない裁判官は不正を行なっていることになる。
  (1.b.1)例えば、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が、当該事案の裁判官により無視された場合、「慣行が無視された」と指摘することが妥当であろうか。
  (1.b.2)特定の原理の顧慮は単に「道徳的」な義務にすぎないとか、司法の「職業倫理上」の拘束であり、法としての拘束力は有しないなど言えるだろうか。
  (1.b.3)原理の権威や、原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。このことをもって、原理は法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。
  (1.b.4)拘束力のある法には、承認のルールのような「テスト」するルールがあり、原理にはこのようなテストが存在しないので、法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。

 「(1)まず実証主義者は、原理というものはそもそも拘束したり義務づけることはありえない、と主張するかもしれない。しかしこれは間違いだろう。特定の原理が「事実として」法適用の任務に当たる人々を拘束しているかという問題はもちろん常に提起しうる。しかし原理の論理的性格の中には、それが裁判官を拘束することを不可能にするようなものは含まれていない。ヘニングセン事件において、自動車製造業者は消費者に対し特別の義務を負うという原理や、裁判所は取り引き上弱い立場にある者を保護するという原理を裁判官が顧慮せずに、ただ契約自由の原理のみを援用し被告に有利な判決を下した場合を想定してみよう。これを批判する者は、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が当該事案の裁判官により無視された事実を指摘するだけでは満足しないだろう。ほとんどの批判者は、上記の原理を顧慮することは当該裁判官の義務であり、原告は裁判官に対しこれを要求する権利があると答えるだろう。ある「ルール」が裁判官を拘束すると言われる場合、その意味するところは、ルールが当該事案に適用可能であれば裁判官はこれに従う義務があり、従わなければこのことにより誤りを犯したことになる、ということに他ならない。
 ヘニングセン事件のごとき事案では、裁判所は特定の原理を顧慮すべく単に「道徳的」に義務づけられるにすぎないとか、「制度的に」義務づけられるにすぎないとか、あるいは司法の「職業倫理上」拘束されるとか、その他この種の主張を行なっても問題の解決にはならない。というのも、何故この種の義務(この義務を何と呼ぼうと)と、法準則が裁判官に課する義務とを相互に異質のものと考えねばならないのか、そして何故原理や政策が法の一部分ではなく、単に「裁判所が特徴的な仕方で用いている」法外在的な規準にすぎないと断言しうるのか、といった問題が以前として未解決のまま残るからである。
 (2)次に実証主義者は、ある種の原理は、裁判官がこれを顧慮すべきだという意味で拘束力をもつことを認めた上で、原理が特定の結論へと裁判官を決定づけることはありえない、と主張する。」(中略)「これは原理が法準則ではないことを別の表現で述べているにすぎない。結論が何であろうと、特定の結論を導出すべく適用者に命令するのは法準則だけである。法準則が指示するものと反対の結論が導出されれば、これは法準則が放棄されたか修正されたからである。しかし原理はこのようには作用しない。」(中略)「
 (3)更にある実証主義者は次のように論じるだろう。すなわち原理の権威や、ましてや原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、したがって原理を法とみなすことはできない、と。確かにしばしば我々は国会の決議や権威ある裁判所の意見の中に法準則を位置づけることにより、その妥当性を証明するが、これと同様の仕方で特定の原理の権威や重みを「証明」することは一般的にいって不可能である。むしろ、原理や原理の重みの根拠を提示しようとする場合、我々が援用するのは、立法過程や司法過程において以前から暗黙裡に前提されてきた慣行や他の原理の複合体、及び社会一般の慣行や了解などである。この種の事柄においては、ことの是非を確証するようなリトマス試験紙は存在しない――これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。しかし繰り返しになるが、このような実証主義者の主張が正しいからといって、裁判官が裁量をもたない他のタイプの裁定者と異なっていることにはならない。」(中略)
 「もちろん、法実証主義にはもう一つ別の理論――すなわち各々の法体系にはハート教授のいう承認のルールのごとき、拘束力のある法を窮極的に「テスト」するルールがあるという理論――が存在し、もし実証主義者のこの理論が正しいとすれば、原理は拘束力のある法ではないことになる。しかし原理が実証主義理論と両立しないからといって、原理を法とは異なる何か特別なものと考えるべき理由にはならない。これは問題とされていることを既に真と仮定しての議論に過ぎない。我々は実証主義的な法モデルが果たして適切か否かを評価しようとしているのであり、それ故にこそ原理の性格に関心を向けているのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),pp.31-34,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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