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2018年11月19日月曜日

行為遂行的発言は、参与者によって聞かれ、誤解なく正しく理解されなければならない。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

誤解から生ずる不適切性

【行為遂行的発言は、参与者によって聞かれ、誤解なく正しく理解されなければならない。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(3)追加記載

(1)行為が、強制や錯誤、意図せずになされた偶然のものではないこと。
  行為遂行的発言は、行為であるが故に、いかなる行為も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。強制による行為、錯誤による行為、意図することのない行為、偶然の行為等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
(2)発言は、虚構や詩の中での語りや、独り言ではないこと。
  行為遂行的発言は、発言であるが故に、いかなる発言も免れることのできない種類の不十分さを持つ場合がある。役者によって語られる場合、詩の中で語られる場合、独り言として語られる場合等。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
(3)発言は、参与者によって聞かれ、誤解なく正しく理解されなければならない。
 行為遂行的発言は、発言であるからには、次の条件が満たされなければならない。
 (a)発言者の言ったことが、参与者によって聞かれなければならない。
 (b)参与者は、発言者の発言の内容を、正しく理解しなければならない。
(4)(1)~(3)が全て適切であるという前提条件の下、行為遂行的発言に固有の不適切性が存在する。
 (A1)慣習存在せず・誤発動・不発、(A2)誤適用・誤発動・不発、(B1)欠陥手続き・誤執行・不発、(B2)障害あり・誤執行・不発、(Γ1)不誠実・濫用、(Γ2)行為不適合・濫用。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

 「ここで私が、「誤解」(misunderstanding)から生ずるような種類の「不適切性」(infelicity)――それは実際にこのことばで呼ばれるかもしれない――に言及しなかったのは、一面において今述べたような特殊の場合の考察を当面排除しておきたかったからである。たとえば、約束をしたと言うためには、通常、
 (A)私の言ったことが誰かによって、おそらく約束相手によって、《聞かれ》なければならないし、また同時に、
 (B)その人物によって私の言ったことが約束として理解されていなければならない
という二つのことが明らかに必要である。
 この二つの条件がいずれか一つでも満たされない場合には、私が本当に約束をしたのか否かという点について疑義が生じ、その結果、あるいは私の行為は未遂、または無効とみなされることになる。法律については、この種の不適切さを避けるために、令状や召喚状の執行に際して特別に注意が払われている。この特殊ではあるが、重大な意義をもつ問題の考察は、後で再び別の問題との関連で行なわれることになるであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第2講 不適切性の理論Ⅰ,pp.37-38,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的発言の不適切性の理論,誤解)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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