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2022年2月18日金曜日

12.人々の生活の安全が保証された自由な社会では、人々はお金以外の、心の底から望み、または善だと思うような諸価値を心置きなく追求できる。芸術や精神性、スポーツ、造園、ファンタジー、科学研究、知的、快楽主義的な楽しみ、それらの思いがけない組み合 わせ等々。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

真に自由な社会で創造される諸価値

人々の生活の安全が保証された自由な社会では、人々はお金以外の、心の底から望み、または善だと思うような諸価値を心置きなく追求できる。芸術や精神性、スポーツ、造園、ファンタジー、科学研究、知的、快楽主義的な楽しみ、それらの思いがけない組み合 わせ等々。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「経済学的に僕が探究したいのは、人々が個人で、または他者とともに、追求するにふさわ しいと思った価値を心置きなく追い求めていけるよう、生活の安全を保証するというものだ。

 多くの人々がなんだかんだいってお金に走る主な理由がここにあるのはこれまで見てきたとこ ろだ。

人々が崇高で、美しく、心の底から望み、または善だと思うような、お金以外の何かを 求めていけるようにする。自由な社会では、人は何を求めていくのだろうか。その多くは現時 点ではほぼ想像できないが、それでも芸術や精神性、スポーツ、造園、ファンタジー、科学研 究、知的、あるいは快楽主義的な楽しみなどのなじみの価値や、それらの思いがけない組み合 わせがありうるだろう。  

求めている対象がまったく比較できない場合や、どうしても置き換えられない価値の場合、 どのように資源を配分するのかは難題だ。それは僕が時折質問されるもうひとつの問いを引き 出す。「平等」とは本当のところ何を意味しているのか、という問いである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第V章 呪文を解 く,pp.345-346,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月12日土曜日

かつて、従うべき真なる価値があると信じられていたが、1820年頃には、非常に異なった見方が支配的になった。目的と諸価値を創造するのは個人であり、そもそも命令、要求、義務、目標に真偽値はない。各個人は、自分自身の内的な理想に仕えることが真実の生き方であるとする思想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

諸価値は個人によって創造される

かつて、従うべき真なる価値があると信じられていたが、1820年頃には、非常に異なった見方が支配的になった。目的と諸価値を創造するのは個人であり、そもそも命令、要求、義務、目標に真偽値はない。各個人は、自分自身の内的な理想に仕えることが真実の生き方であるとする思想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)目的を創造するのは諸個人
 自分の正しいと考えることをなせ、自分の美しいと思うものを作れ、自分の窮極の目的であるものに従って暮らせ、自分の生活の中の窮極の目的以外のものは全て手段であり、目的には一切のものを従属させねばならなぬ、まさしくそ れが、あなたに要求されていることなのである。
(b) 命令、要求、義務、目標に真偽はない
 課題を果せという命令、要求、義務は、 真でもなく偽りでもない。それは命題ではない。何かを述べたものではなく、事実を説明したものでもない。真か偽かを立証できるものではない。誰かが発見して、誰かがその真偽を点検 するようなものではない。それは目標なのである。
(c)その人個人の絶対性
 この理想は、孤独な個人にだけ啓示され たもので、他の全ての人には偽り、あるいは馬鹿げたものと思われるかもしれない。その個 人の属している社会の生活や世界観と対立しているかもしれない。


「およそ1820年頃には、非常に異なった見方が支配的になっている。詩人や哲学者、特にド イツの詩人や哲学者が、今では人になし得るもっとも高貴なことは、いかなる代価を払っても 自分自身の内的な理想に仕えることだと言っている。この理想は、孤独な個人にだけ啓示され たもので、他のすべての人には偽り、あるいは馬鹿げたものと思われるかもしれない。その個 人の属している社会の生活や世界観と対立しているかもしれない。しかし彼はそのために戦わ ねばならぬ。他に道がなければそのためには死なねばならぬというのである。しかし、もしそ の理想が偽りであればどうであろうか。まさにこの点で、範疇の根本的な移動、人間精神にお ける大きな革命となるような変化が生じている。理想が真か偽りかという問題はもはや重要で はなく、むしろ全体としては理解不可能なことと考えられている。理想は至上の命令という形 式で提出されている。それはあなたの中で燃えており、ただそれだけの理由で、あなたの内な る内面の光に奉仕せよというのである。自分の正しいと考えることをなせ、自分の美しいと思 うものを作れ、自分の窮極の目的であるものにしたがって暮らせ――自分の生活の中の窮極の目 的以外のものはすべて手段であり、目的には一切のものを従属させねばならなぬ――まさしくそ れが、あなたに要求されていることなのである。その課題を果せという命令、要求、義務は、 真でもなく偽りでもない。それは命題ではない。何かを述べたものではなく、事実を説明した ものでもない。真か偽かを立証できるものではない。誰かが発見して、誰かがその真偽を点検 するようなものではない。それは目標なのである。論理学、政治学のモデルが自然科学、神学 あるいはその他事実についての知識ないしその記述という形式から、生物的な衝動と目標とい う概念、芸術的創造という概念から成る何ものかに向かって突如として移行したのである。こ の点について、もっと具体的に説明したい。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,III,収録書籍名 『理想の追求 バーリン選集4』,pp.217-218,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松 本礼二(訳))

バーリン選集4 理想の追求 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド

アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年2月11日金曜日

あらゆる人間主義が立脚してきた前提である共通の人間性も、動かし難い客観的な事実のようなものではなく、我々の選択した価値の一つに過ぎないということを、何百万人もの同胞の殺戮という歴史的事実が示した。劣った人々、人種、 文化、民族、階級としての殺戮。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

共通の人間性もまた選択された価値

あらゆる人間主義が立脚してきた前提である共通の人間性も、動かし難い客観的な事実のようなものではなく、我々の選択した価値の一つに過ぎないということを、何百万人もの同胞の殺戮という歴史的事実が示した。劣った人々、人種、 文化、民族、階級としての殺戮。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



人間の永遠の特徴から発生する問題は、各世代で基本的ないし恒久の問題と呼ば れた。
「私はいかに生きるべきか」
「私は何をなすべきか」
「私は何故、そしてどの程度 まで他人に服従すべきか」
「自由、義務、権威とはそれぞれ何か」
「私は幸福、知恵、善良さをそれぞれ求めるべきなのか、それはまた何故か」
「私は私自身の能力を発揮すべきな のか、それとも自分を他者の犠牲にすべきなのか」
「私は自ら統治する権利を持つのか、そ れともうまく統治されることを要求する権利しか持っていないのか」
「権利とは何か、法とは何か、個人、社会、あるいは全宇宙が実現を求めざるを得ない目的といったものがあるのか、そんなものはなくて、食べている食物、育ってきた環境で規定された人間の意志しかない のか」
「集団や社会や民族の意志といったものはあるのか、そこでは個人の世界は一つの断 片にすぎず、その枠組みの中で個人の意志ははじめて何らかの効果や意義を持つのか」



「人類を二つの集団――一方では本来の人間、他方では何か別のより低い人々、劣等の人種、 劣等の文化、人間以下の存在、歴史によって死刑を宣告された民族や階級――に分けることは、 人類史では新しいことである。それは共通の人間性、それ以前の宗教的なものか世俗的なもの かは問わず一切の人間主義が立脚してきた前提を否定することである。この新しい態度から、 人々は自分の同胞の何百万もの人々を完全な人間ではないと見るようになり、彼らを救おうと したり、彼らに警告を与えようとしたりする必要はないと考え、良心の痛みを感じることなく 殺戮できるようになった。そのような行為は通常、野蛮人、未開人――文明の揺籃期によくある 前合理的な精神的態度の人々の行為とされてきた。そのような説明はもはや役に立たない。高 度の知識と技能、さらには一般的教養を身に付けながら、しかも民族、階級、あるいは歴史そ のものの名において他者を容赦なく破滅させることは、明らかに可能なのである。もしこれが 幼児期であるとすれば、いわば高齢化してからの二度目の幼児期、しかもそのもっとも嫌悪す べき形態のものと言わねばならない。人間はいかにしてこのような破目に陥ったのか。   II  現代のこの恐るべき特徴の少なくとも一つの根は、考察に値するであろう。各世代の人々が 問うてきた問題の中には、人間はいかに生きるべきかという根本的な問題があった。この種の 問題は、道徳、政治、社会の問題と呼ばれるが、それは各時代の人々を悩ませ、変わりゆく環 境と思想によって異なった形態を帯び異なった回答を受けてきたが、それでもいくつかはいわ ば一家族の成員たちのように似かよったところがあった。いくつかの問題は他の問題よりも根 強く残った。人間の永遠の特徴から発生する問題は、各世代で基本的ないし恒久の問題と呼ば れた。「私はいかに生きるべきか」、「私は何をなすべきか」、「私は何故、そしてどの程度 まで他人に服従すべきか」、「自由、義務、権威とはそれぞれ何か」、「私は幸福、知恵、善 良さをそれぞれ求めるべきなのか、それはまた何故か」、「私は私自身の能力を発揮すべきな のか、それとも自分を他者の犠牲にすべきなのか」、「私は自ら統治する権利を持つのか、そ れともうまく統治されることを要求する権利しか持っていないのか」、「権利とは何か、法と は何か、個人、社会、あるいは全宇宙が実現を求めざるを得ない目的といったものがあるのか、そんなものはなくて、食べている食物、育ってきた環境で規定された人間の意志しかない のか」、「集団や社会や民族の意志といったものはあるのか、そこでは個人の世界は一つの断 片にすぎず、その枠組みの中で個人の意志ははじめて何らかの効果や意義を持つのか」。国家 (あるいは教会)に対するに個々人と少数者集団、権力や効率や秩序を求める国家の意志に対 するに幸福や身体の自由や道徳原理を求める個人の要求、これらすべては一つには価値の問題 であり、また一つには事実の問題――「すべし」と「である」の問題であった。そして人間は歴 史の記録に残っているかぎり、それらの問題に取りつかれてきたのである。  私は次のように言ってよいと考えている。これら基本問題にたいしてどのような答えが出さ れたにせよ、ともかく18世紀中葉以前にはそれは原理的に答えを出せるものと思われていた。 (たとえあなた自身答えが何かを知らなかったとしても、どのような答えが正しい答えなのか ということまで判らないような問題ならば、それは問題があなたには理解できないということ であり、つまりはそれはもともと問題ではないことを意味した。)価値の問題も事実の問題と 同じような意味で回答できるものと考えられていた。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,I,II,収録書籍名 『理想の追求 バーリン選集4』,pp.208-209,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松本礼二(訳))

バーリン選集4 理想の追求 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月22日土曜日

課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想であるとする思想がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

客観的な価値は存在するのか

課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む
 ある時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしている人々および解決案が適用される人々をともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問題が創り出されることになる。
(2)将来の課題は予知できない
 歴史的地平によって制約された人 間が、将来の人々の課題や諸問題を予知をすることはできず、まして分析や解決などはできない。
(3)目的は創造されるのであって発見されるのではない
 行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「何をなすべき か」という問いに対する答えは、発見されることはできない。(主観主義、非合理主義、ロマン主義)
 (a)解答は行動にある
  その問いがそもそも事実に関する問いではなく、解答が、命題あるいは定式、客観的な善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係を発見することにはなくて、行動のうちにある。
 (b)意志、信仰、創造の行為
  発見されるのではなくて発明しかされえない何ものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ。

(4)客観的な価値論への批判
 (a)自由への恐怖
  客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖、ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖に由来する。
 (b)道徳的原理、客観的権威、形而上学的宇宙論
  この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの、永遠の真正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれる。


「もう一方の側には、なんらかのかたちの原罪とか、人間の完成の不可能性を信じるひとた ち、それゆえ、いちばん根本的な人間の諸問題に対する最終的な解決の経験的達成の可能性に は懐疑的な傾向のひとたちがいる。そのなかには、懐疑論者、相対主義者がおり、また、ある 時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしているひとびとおよ び解決案が適用されるひとびとをともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問 題が創り出されることになるのだから、その性格をかれらの歴史的地平によって制約された人 間が今日予知することはできず、まして分析や解決などはできないと信ずるひとたちも入る。 さらにまたこれには、多くの党派の主観主義者や非合理主義者も、とりわけロマン主義的な思 想家たちが属する。かれらは、行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「なにをなすべき か」という問いに対する答えは発見されることはできない。それは、答えを発見することがわ れわれの能力を超えているからではなく、その問いがそもそも事実に関する問いではなく、発 見されるかどうかはともかく、解答が、現にあるなにものか――命題あるいは定式、客観的な 善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係――を発見する ことにはなくて、行動のうちにある。つまり、発見されるのではなくて発明しかされえないな にものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信 仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ、と考える。さらにここは、ロマン主義の20世紀に おける継承者である実存主義者たちも加わる。かれらは、行動に対する個人の自由な関与、あ るいは自由に選択する発動者によって決定される生活様式というものを信じ、そうした選択は 客観的基準を考慮に入れないと考える。というのは、客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖――ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖――に由来する とされるからである。この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの永遠の真 正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれるのだというのである。それからまた、運命論者や神秘主義 者、ならびに偶然が歴史を支配すると信ずるひとびとや他の非合理主義者なども、これに近い ところにいるばかりでなく、非決定論者とか、不変的法則にしたがう固定的な人間本性を発見 することができるかどうかに疑問を抱く困惑せる合理主義者なども、これに近いわけである。とくに、人間の将来の必要なりその充足なりは予示しうるという命題は、新しい行動の道をた えずきり拓いてゆくという前提――これはわれわれが人間というときに意味されているものの定 義そのもののなかに入っている前提である――によって必然的に意志とか、選択とか、努力と か、目的とかの概念を含んでくるところの人間本性観には適合しないと考えるひとびとは、そ うである。これは、現代のマルクス主義者がとっている立場であるが、かれらはその学説のよ り粗野な通俗版に対して、自分たち自身の前提や原理の内包するものを理解するにいたったの である。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,III,pp.475-477,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2020年8月29日土曜日

「君の感情を信頼せよ!」は正しいか? 感情は、諸体験による形成物であり、その背後には、受け継がれた諸価値、判断、評価が隠されている。それは、自身の理性と経験に従う以上に、自分の祖父母等の判断に従うことを意味する。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

感情に従うということ

【「君の感情を信頼せよ!」は正しいか? 感情は、諸体験による形成物であり、その背後には、受け継がれた諸価値、判断、評価が隠されている。それは、自身の理性と経験に従う以上に、自分の祖父母等の判断に従うことを意味する。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

「君の感情を信頼せよ!」は正しいのか
 (1)感情は、諸体験から形成されたものである
   快と不快、愛着、反感等々の諸感情は、記憶による諸体験の形成物である。記憶は、強調し省略し、単純化し、圧縮し、対立(格闘)させ、相互形成し、秩序付け、統一体への変形する。諸思想は、最も表面的なものである。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (2)感情が、判断より根源的というわけではない
   原因と徴候の取り違いによせて。快と不快とはすべての価値判断の最古の徴候である。だが価値判断の原因ではない。それゆえ、快と不快とは、道徳的および美的な判断が帰属しているのと、同一の範疇に帰属している。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (3)感情の背後には、目標、状況判断、価値判断がある
   ある対象や諸変化の状況が、意欲されている目標との関連で判断され、激情的な所有欲や拒絶へと簡約化され、総体的価値へと固定される。これが快と不快であり、同時に、目標や知性における判断への逆作用を持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (4)感情の背後の目標、状況判断、価値判断は誤っているかもしれない
  (a)感情の背後には判断と評価があり、しかもしばしば、それらは、われわれの理性とわれわれの経験に従うより以上に、自分の祖父と祖母、さらにその祖父母に従うことを意味する。
  (b)その判断は、自分自身の判断ではなく、しかもしばしば誤った判断である。

 「《感情とその判断からの由来》。―――「君の感情を信頼せよ!」―――しかし感情は最後のものでも、最初のものでもない。感情の背後には判断と評価があり、それらは感情(傾向、嫌悪)の形をとってわれわれに遺伝している。感情に基づく霊感は、判断の―――しかもしばしば誤った判断の! ―――そしていずれにもせよ君自身のものでない判断の! 幼い孫である。自分の感情を信頼する―――それは、《われわれ》の内部にある神々、すなわち、われわれの理性とわれわれの経験に従うより以上に、自分の祖父と祖母、さらにその祖父母に従うことを意味する。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『曙光 道徳的な偏見に関する思想』第一書、三五、ニーチェ全集7 曙光、p.52、[茅野良男・1994])
(索引:感情,価値,判断,価値評価)

ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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検索(ニーチェ)

2019年11月14日木曜日

3.様々な国民、民族、グループ、個々人は、様々に異なる諸価値を持つ。同時に、人間には普遍的な諸価値も存在し、我々は異なる文化を理解できる。また、人間が過去犯してきた恐るべき残虐行為等の原因も解明できる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

様々に異なる諸価値と普遍的な価値

【様々な国民、民族、グループ、個々人は、様々に異なる諸価値を持つ。同時に、人間には普遍的な諸価値も存在し、我々は異なる文化を理解できる。また、人間が過去犯してきた恐るべき残虐行為等の原因も解明できる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1)様々に異なる文化と普遍的な諸価値
 (1.1)様々に異なる文化と諸価値の存在
  人びとは文化から大きな影響を受けており、その文化には様々な大きな差異が存在する。
  (a)様々な国民、民族の間に大きな差異がある。
  (b)様々なグループの間に大きな差異がある。
  (c)個々人の間に大きな差異がある。
 (1.2)人間が普遍的に持つ諸価値
  (a)大多数の場所と状況で、大多数の人間がほとんどいつも現実に共有しているような価値が存在する。
  (b)これは、一つの経験的な事実である。
  (c)例として、善と悪、真と偽の概念を持たない人びとは存在しない。
  (d)ただし、価値や信念は、意識的、明示的に示されるか、あるいは単に、態度、ジェスチュア、行動の中に示されているのかの違いはある。
(2)異なる文化を理解するということ
 (a)想像力を使って相手の思想と感情に入り込む。
 (b)あなた自身が、相手方の環境におかれたらどのように世界を見るだろうかと想像する。
 (c)逆に、他の人々の環境では、あなた自身をどう見るだろうかと想像する。
 (d)たとえあなたが、相手方が嫌いであっても、盲目的な不寛容と熱狂主義は減少するだろう。
(3)事例。
 過去の多くの紛争、暴力行為、恐るべき残虐行為を、どのように理解するのか。
 (3.1)それは、狂気から、非合理的な憎悪から、攻撃的性向から、精神病理的な異常から引き起こされたと考えることは、事実をとらえてはいない。
 (3.2)人がある文化の中で、どのように思考し、感情を持ち、行動するのかを解明する必要がある。
  (a)例えば、途方もない虚偽が、著述家によって体系的に宣伝され、人々がそれを信じ込むようになる。
  (b)虚偽は理論化され、人々の感情に影響を与える。

 「―――普遍性の原則と文化相対主義との間には矛盾があるとは思いませんか。

 バーリン あるとは思いません。さまざまな国民や社会の間の差異は誇張されがちです。

われわれの知っている社会の中で、善と悪、真と偽の概念を持っていないものはありません。われわれの知っている限り、例えば勇気はわれわれの知っているすべての社会で尊敬されてきました。つまり普遍的な価値があるのです。

これは人類についての経験的事実で、ライプニッツが事実による真実(verites du fait)――理性による真実(verites de la raison)ではなく――と呼んだものです。

大多数の場所と状況で大多数の人間がほとんどいつも現実に共有しているような価値があります。意識的、明示的にか、あるいは態度、ジェスチュア、行動の中に示されているのかの違いはあっても。

他方で大きな差異があります。個々人、さまざまなグループや国民、あるいは文明全体がお互いにどのような点で異なっているかを理解し、想像力を使って相手の思想を感情に「入り込み」、

あなた自身が相手方の環境におかれたらどのように世界を見るだろうか、

あるいは他の人々との関係であなた自身をどう見るだろうかと想像するのに成功したならば、

少なくとも成功したと思えるだけのことをしたならば、その時にはたとえあなたが相手方が嫌いであっても(すべてを理解する tout comprendre は、決してすべてを許す tout pardonner ではありませんが)、盲目的な不寛容と熱狂主義は減少せざるを得ないでしょう。

想像力が熱狂を募らせることもありますが、あなたの状況とは非常に違う状況を想像力で洞察していくことは、結局は熱狂を弱める筈です。

非常に極端な例ですが、ナチ党員を取り上げてみましょう。彼らは気狂いで、精神病理的事例だと、人々は言いました。あまりにも出まかせ、安直で、傲慢な説明だと思います。

ナチの党員は口からの言葉や印刷された文字で説明を受け、下級人間と称してしかるべき人間(Untermenschen)が存在しており、彼らは有毒の生物で、真の――つまりゲルマン的ないしノルディック的な文化を掘り崩しているという説を信じました。

下級人間がいるという命題はまるきりの嘘で、経験的な偽りであり、ナンセンスであることを証明できます。

しかし誰かからそう言われたために、そしてそう説明している人を信頼したためにそれを信じたならば、きわめて合理的な意味でユダヤ人を絶滅することが必要だと信じる心境に到達している訳です――それは狂気から出たものではなく、またたんなる非合理な憎悪や軽蔑や攻撃的性向でもありません――そのような要因があればもちろん助長はするでしょうが。

いま挙げたような特徴は、ごくありきたりのもので、人類の歴史を通じて多くの紛争や暴力行為の原因でした。

いいえ、あのような感情は途方もない虚偽、弁士や著述家が体系的に教え込む虚偽を一般の人々に信じ込ませるという手段を通じて、組織的に作り出されたものです。

それは明白な虚偽ですが、理論として明確に表明され、それが犯罪となって表面化し、さらに恐るべき残虐行為と破壊的な大破局へと連なっていくのです。

思考力のある人を気狂いだとか病理的だとか言う時には、注意しなければならないと思います。迫害は正気でもやれるのです。

それは、ケタ外れの虚偽の信念を真実と信じ込むことからだけ発生します。そして言語に絶する結末にまでいたるのです。

熱狂的な人々が害をなすのを防ぎたいと思うならば、彼らの信念の心理的なルーツだけでなく知的なルーツまで理解しなければなりません。彼らが間違っていることを彼らに向かって説明しなければならないのです。それに失敗すれば、彼らと戦争をしなければならなくなるでしょう。しかし説得の試みはいつもやらねばなりません。」(中略)

「合理的な方法、真理への道は、それ自体として価値があるだけでなく、ソクラテスが教えてくれたように、個人と社会の運命にとって基本的に重要です。その点については、西欧哲学の中心的な伝統は正しかった。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化相対主義と人権,pp.62-64,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

(索引:価値,普遍的な価値,想像力,異なる文化の理解)

ある思想史家の回想―アイザィア・バーリンとの対話


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2018年7月28日土曜日

倫理や価値の領域に、科学的方法は適用可能か? 健康についての考察が、重要な示唆を与える。いずれも、この宇宙、自然、生命、人間、社会、文化についての諸事実に基づいた科学の方法によって探究可能である。(パトリシア・チャーチランド(1943-))

倫理や価値の領域に科学的方法は適用可能か?

【倫理や価値の領域に、科学的方法は適用可能か? 健康についての考察が、重要な示唆を与える。いずれも、この宇宙、自然、生命、人間、社会、文化についての諸事実に基づいた科学の方法によって探究可能である。(パトリシア・チャーチランド(1943-))】
(1)人間の本性と健康の関係
 (1.1)健康であるために私たちは何をするべきか?
 (1.2)これは規範的なプロジェクトなのか?
(2)人間の本性と善の関係(道徳や価値の領域)
 (2.1)善であるために私たちは何をするべきか?
 (2.2)これは規範的なプロジェクトなのか?
(3)健康のためにも、善のためにも、科学が必要である。
 (3.1)科学によって利用できるようになった事実に基づいて、健康であるために何をするべきかについて、私たちは多くのことを知っている。同じように、人間の社会性の本性についてより深く理解することによって、社会的な実践や制度のいくつかが解明され、それらについてこれまで以上に賢明に考えられるようになるだろう。
 (3.2)どのような状態が、一定の病気の予防や治療に寄与するかの知識。同じように、ある社会的状態が、善を促進し悪を予防するための知識があるだろう。
 (3.3)環境の特徴と、特定の医学的状態の関係に関する知識。同じように、社会的環境の特徴と、社会の倫理的状態の関係、社会的調和と安定に有利な条件に関する知識があるだろう。
(4)健康も善悪も、複雑で難しいテーマである。
 (4.1)「健康」とは何か、「善」とは何か? 意見の不一致が根強く存在する領域が数多くある。
 (4.2)健康というテーマがいかに複雑であるか。これは、社会的行動と善悪のテーマが複雑なのと同じである。
 (4.3)もちろん、科学によってあらゆる道徳的ジレンマが解決可能だということではない。これは、健康についても同じである。
(5)健康も善悪も、この宇宙、自然、生命、人間、社会、文化についての諸事実に基づいた科学の方法によって探究可能なテーマである。
 (5.1)健康とは何かについて、分析的に記述し尽くすことが不可能だからといって、健康という概念が非自然的性質であることを示しているわけではない。善悪についても、同じである。
 (5.2)健康とは何かについて、直感によってしか把握できず、またその直感の源泉を知り得ないからといって、その直感が、超自然的なものであり、何らかの〈形而上学的真理〉であることを示しているわけではない。善悪についても、同じである。
 (5.3)仮に直観の源泉が知り尽くせないとしても、そのこと自体は、何が意識され何が意識されないかに関する一つの事実を指し示しており、またその直感は、結局のところ脳の産物であり、人間のたどった生物進化的な諸事実と、経験と、文化的実践に基づいている。健康についても、善悪についても同じである。

 「もしムーアが、私たちの本性とよいものとの関係は単純ではなく複雑だということを指摘しただけなら、彼はもっと強固な基礎に支えられていただろう。類似した例を挙げれば、私たちの本性と健康との関係は複雑である。道徳や価値の場合と同様に、いかなる単純な定式化も十分ではない。健康は、たとえば血圧が低いとか、十分な睡眠をとっているといったことと単純に等しいとすることはできないのだから、健康についてムーアのような考えをする人は、《健康》は非自然的性質である――分析不可能で形而上学的に自律的である――と論じるかもしれない。健康であるために私たちは何をする《べきか》について科学を用いて明らかにしようとしても、このムーア的な考えによれば、無駄である。というのも、それは「べし」のプロジェクト、つまり規範的なプロジェクトであって、事実的なプロジェクトではないからである。もちろん、そのような見解は奇妙であるように思われる。たしかに、遊びや瞑想が精神の健康にどれくらい貢献するか、アルコール依存は病気と見なされるべきか、血清コレステロールのレベルを下げるスタチン剤を50歳以上の人全員に処方するべきか、プラシーボはどのように作用するか、どれくらい痩せていれば痩せすぎなのかなど、健康な生き方について意見の不一致が根強く存在する領域が数多くあるが、そうだとしても、そのような見解は奇妙である。そして、こうした意見の不一致が存在するにもかかわらず、科学によって利用できるようになった事実に基づいて、健康であるために何をするべきかについて、私たちは多くのことを知っている。
 生物科学の進展とともに、健康について、またどのような健康状態が一定の病気の予防や治療に寄与するかについて、ますます多くのことがわかるようになってきた。個人差に関する知識や、環境の特徴と特定の医学的状態の関係に関する知識が得られはじめるとともに、人間の健康というテーマがじっさいにどれほど複雑であるかが明らかになってきた。健康は、私たちが何をするべきかについて科学が私たちに多くのことを教えることのできる領域であり、そしてすでに教えてきた領域である。
 同様に、社会的行動の領域はきわめて複雑であり、社会的調和と安定に有利な条件および個人の生活の質について、日常の観察と科学から多くを学ぶことができる。ムーアの議論にはこれが不可能であることを示すものは何もない。それどころか、進化生物学の観点からすれば、道徳の根拠として分析不可能な直感へと撤退することは、控えめに言っても有望ではないように思われる。直観とは結局のところ脳の産物であり、〈真理〉に至る超自然的な通路ではない。直観は神経系によって何らかの仕方で生みだされたものである。直観はその原因が意識からどのように隠されていようと、明らかに経験と文化的実践に基づいたものである。私たちが内観によって直感の源泉を知りえないことは、それ自体は脳の機能に関するひとつの事実――何が意識され、何が意識されないかに関する事実――である。私たちが内観によって直感の源泉を知りえないからといって、そのことは、そうした直感が私たちに何らかの〈形而上学的真理〉を告げることを少しも意味していない。
 これまで論じてきたことは、けっして科学によってあらゆる道徳的ジレンマが解決可能だということではない。ましてや、科学者や哲学者が農夫や大工よりも道徳的に聡明であるということでもない。しかし、これまで論じてきたことは、人間の社会性の本性についてより深く理解することによって、社会的な実践や制度のいくつかが解明され、それらについてこれまで以上に賢明に考えられるようになるだろうし、私たちはその可能性を虚心坦懐に受け入れるべきだということをたしかに示唆している。」
(パトリシア・チャーチランド(1943-),『脳がつくる倫理』,第7章 規則としてではなく,化学同人(2013),pp.266-268,信原幸弘(訳),樫則章(訳),植原亮(訳))
(索引:倫理,価値,科学的方法,健康,人間の本性)

脳がつくる倫理: 科学と哲学から道徳の起源にせまる


(出典:wikipedia
パトリシア・チャーチランド(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
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2018年7月19日木曜日

7.仮に、物理的な状況や、苦痛や憤慨などの情動、心理的な状況の詳細を記述し尽くしたとしても、「いかなる倫理的意味においても善または悪ではない」。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

倫理学と心理的なもの

【仮に、物理的な状況や、苦痛や憤慨などの情動、心理的な状況の詳細を記述し尽くしたとしても、「いかなる倫理的意味においても善または悪ではない」。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 (3.5.1)仮に、物理的な状況や、苦痛や憤慨などの情動、心理的な状況の詳細を記述し尽くしたとしても、「いかなる倫理的意味においても善または悪ではない」。

(再掲)
(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
 (1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
 (1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
 (1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
 (2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
 (2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
 (3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
 (3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
 (3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
 (3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」

 「さて、おそらく皆様の中である方々は以上の点に同意され、そして「何ものも善または悪ではない。思考のみがそれを善または悪となす」というハムレットの言葉を想い起こされるかも知れません。

しかし、これもまた誤解を生む恐れがあります。ハムレットの言葉は、善悪はわれわれの外にある世界の性質ではないとしても、われわれの精神状態の属性である、という含みをもっていると思われます。

しかし、私の言おうとすることは、ある精神状態とは、それがわれわれに記述できるある事実であるということを意味している限りでは、いかなる倫理的意味においても善または悪ではない、ということであります。

たとえば、さきの世界のことを書いた本の中に殺人の記述があり、物理的・心理的にその詳細を描き尽しているのをわれわれが読んでも、これらの事実の単なる記述には《倫理的》命題と呼び得るものは何も含まれていないでしょう。

殺人は何か他の出来事、たとえば落石とまったく同じ次元にあることになりましょう。

たしかに、この記述を読めば、われわれには苦痛とか憤慨とかあるいは何かその他の情動がひき起こされるかも知れず、あるいはまた、他人がこの殺人のことを聞けば、それによって彼らのうちにひき起こされる苦痛や憤慨のことを読んで知ることはできるでしょうが、存在するのはただ事実、事実、事実だけであり、倫理学ではないでしょう。

そして、かりに倫理学というような科学が存在するとしたら、それは本当はどのようなものでなければならないであろうかと熟慮してみれば、以上の帰結は私にはきわめて自明と思われるのです

―――今や私はこう言わざるを得ません。およそわれわれが考えあるいは語り得ると思われるものはいずれも《ほかならぬこの》ものではない、ということ、その主題が本質的に崇高であり、他のあらゆる主題を超えることができると思われるような科学の本をわれわれは書くことができない、ということ―――これは私には自明と思われます。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『倫理学講話』、全集5、pp.386-387、杖下隆英)
(索引:価値,倫理学,事実,心理学)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年7月16日月曜日

6.事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

絶対的価値と相対的価値

【事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
下記(1.3)の補足説明である。
 (1.3.1)『「これがグランチェスターにゆく正しい道だ」と言う代わりに、私には「もし最短時間でグランチェスターに着きたいなら、これが君の行かなければならない正しい道だ」と言うこともできたでしょうし、それでも十分に同じことであります』。
 (1.3.1.1)目的(最短時間で着きたい)を与えて、その手段を展開することは、事実の表明である。
 (1.3.1.2)ある手段(この道が正しい)は、特定の目的を前提した限りで、他の手段と比較して「正しい」のであり、「相対的価値の判断」である。すなわち、「事実の叙述はいずれも絶対的価値の判断ではあり得ない」。
 (1.3.1.3)目的自体は、事実の世界の外から与えられている。

(再掲)
(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
 (1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
 (1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
 (1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
 (2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
 (2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
 (3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
 (3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
 (3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
 (3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」

 「この相違の本質は明らかにつぎの点にあると思われます―――すなわち、相対的価値の判断はいずれも単なる事実の叙述に過ぎず、したがって、価値判断としての外見を完全になくしてしまうような形にすることができる、という点であります。

「これがグランチェスターにゆく正しい道だ」と言う代わりに、私には「もし最短時間でグランチェスターに着きたいなら、これが君の行かなければならない正しい道だ」と言うこともできたでしょうし、それでも十分に同じことであります

―――「この男はよい走者だ」は、彼は何マイルかを何分間で走る、ということをいっているに過ぎず、他の場合も同様であります。

さて、私が強く主張したいのは、相対的価値の判断はすべて単なる事実の叙述に過ぎない、ということを示すことができるとしても、事実の叙述はいずれも絶対的価値の判断ではあり得ないか、あるいはそれを含むことはできない、ということであります。

この点を説明しましょう―――皆様方のどなたかが全知の人間であり、したがって、この世界の全生物または無生物のあらゆる動きを御存知であり、また、およそこの世にある全人間のあらゆる精神状態を御存知である、と仮定し、また、この人が自分の知っていることのすべてを大きな一冊の本に書いたと仮定すると、この本は世界の完全な記述を含むことになるでしょう

―――そして、私が言いたいのは、この書はわれわれが《倫理的》判断と呼ぶと思われるもの、あるいは何かこのような判断を論理的に含むと思われるものは一切含まないであろう、ということであります。

それはむろん、すべての相対的価値判断とすべての科学的に真である命題と、そして事実、主張し得る真なる命題のすべてを含んでおりましょう。

しかし、記述された事実はすべて、いわば同じ次元にあることになりましょうし、また同様にして、全命題も同次元上にあるわけであります。なんらかの絶対的な意味で、崇高な、あるいは重要な、あるいは瑣末な命題は一切存在しません。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『倫理学講話』、全集5、pp.385-386、杖下隆英)
(索引:価値,倫理学,事実,絶対的価値,相対的価値)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年7月15日日曜日

5.価値は、事実としての世界の中では表明し得ない。倫理的なものは、倫理法則や賞罰、行為の帰結とは関係がないが、好ましいものとして、または好ましくないものとして、行為そのものの中に存在する。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

価値、倫理的なもの

【価値は、事実としての世界の中では表明し得ない。倫理的なものは、倫理法則や賞罰、行為の帰結とは関係がないが、好ましいものとして、または好ましくないものとして、行為そのものの中に存在する。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
 (1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
 (1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
 (1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
 (2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
 (2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
 (3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
 (3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
 (3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
 (3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」

 「六・四 全ての命題は等価値である。
 六・四一 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。世界《の中に》は価値は存在しない。そして仮に存在するとしても、それは価値を持たないであろう。

 価値のある価値が存在するならば、
それは全ての生起や、かくあり(So-Sein)の外になければならない。何故なら全ての生起やかくありは、偶然的だからである。

 それらを偶然でなくするものは、世界《の中に》あることはできない。世界の中にあるとすれば、これも又偶然的であろうからである。

 それは世界の外になければならない。

 六・四二 それ故倫理学の命題も存在しえない。

 命題はより高貴なものを表現しえない。

 六・四二一 倫理学が表明されえないことは明らかである。
 倫理学は超越的である。
 (倫理学と美学とは一つである。)

 六・四二二 「汝……なすべし」という形式の倫理法則が提起される時に、先ず念頭に浮ぶ考えは、「そして私がそうしなければどうなるのか」ということである。

しかし倫理学が通常の意味での賞罰と関係ないことは明らかである。従って行為の《帰結》に関するこの問は些細なものでなければならない。少なくともこの帰結が出来事であってはならない。

というのもこの問題提起にはやはり正しいところがあるはずだからである。たしかにある種の倫理的な賞罰が存在するに相違ない。しかし賞罰は行為そのものの中になければならないのである。

 (そして賞が好ましいもの、罰が好ましくないものに相違ないことも、又明らかである。)

 六・四二三 倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。
 そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』六・四~六・四二三、全集1、pp.116-117、奥雅博)
(索引:価値,倫理学,事実,倫理法則,賞罰)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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