倫理や価値の領域に科学的方法は適用可能か?
【倫理や価値の領域に、科学的方法は適用可能か? 健康についての考察が、重要な示唆を与える。いずれも、この宇宙、自然、生命、人間、社会、文化についての諸事実に基づいた科学の方法によって探究可能である。(パトリシア・チャーチランド(1943-))】(1)人間の本性と健康の関係
(1.1)健康であるために私たちは何をするべきか?
(1.2)これは規範的なプロジェクトなのか?
(2)人間の本性と善の関係(道徳や価値の領域)
(2.1)善であるために私たちは何をするべきか?
(2.2)これは規範的なプロジェクトなのか?
(3)健康のためにも、善のためにも、科学が必要である。
(3.1)科学によって利用できるようになった事実に基づいて、健康であるために何をするべきかについて、私たちは多くのことを知っている。同じように、人間の社会性の本性についてより深く理解することによって、社会的な実践や制度のいくつかが解明され、それらについてこれまで以上に賢明に考えられるようになるだろう。
(3.2)どのような状態が、一定の病気の予防や治療に寄与するかの知識。同じように、ある社会的状態が、善を促進し悪を予防するための知識があるだろう。
(3.3)環境の特徴と、特定の医学的状態の関係に関する知識。同じように、社会的環境の特徴と、社会の倫理的状態の関係、社会的調和と安定に有利な条件に関する知識があるだろう。
(4)健康も善悪も、複雑で難しいテーマである。
(4.1)「健康」とは何か、「善」とは何か? 意見の不一致が根強く存在する領域が数多くある。
(4.2)健康というテーマがいかに複雑であるか。これは、社会的行動と善悪のテーマが複雑なのと同じである。
(4.3)もちろん、科学によってあらゆる道徳的ジレンマが解決可能だということではない。これは、健康についても同じである。
(5)健康も善悪も、この宇宙、自然、生命、人間、社会、文化についての諸事実に基づいた科学の方法によって探究可能なテーマである。
(5.1)健康とは何かについて、分析的に記述し尽くすことが不可能だからといって、健康という概念が非自然的性質であることを示しているわけではない。善悪についても、同じである。
(5.2)健康とは何かについて、直感によってしか把握できず、またその直感の源泉を知り得ないからといって、その直感が、超自然的なものであり、何らかの〈形而上学的真理〉であることを示しているわけではない。善悪についても、同じである。
(5.3)仮に直観の源泉が知り尽くせないとしても、そのこと自体は、何が意識され何が意識されないかに関する一つの事実を指し示しており、またその直感は、結局のところ脳の産物であり、人間のたどった生物進化的な諸事実と、経験と、文化的実践に基づいている。健康についても、善悪についても同じである。
「もしムーアが、私たちの本性とよいものとの関係は単純ではなく複雑だということを指摘しただけなら、彼はもっと強固な基礎に支えられていただろう。類似した例を挙げれば、私たちの本性と健康との関係は複雑である。道徳や価値の場合と同様に、いかなる単純な定式化も十分ではない。健康は、たとえば血圧が低いとか、十分な睡眠をとっているといったことと単純に等しいとすることはできないのだから、健康についてムーアのような考えをする人は、《健康》は非自然的性質である――分析不可能で形而上学的に自律的である――と論じるかもしれない。健康であるために私たちは何をする《べきか》について科学を用いて明らかにしようとしても、このムーア的な考えによれば、無駄である。というのも、それは「べし」のプロジェクト、つまり規範的なプロジェクトであって、事実的なプロジェクトではないからである。もちろん、そのような見解は奇妙であるように思われる。たしかに、遊びや瞑想が精神の健康にどれくらい貢献するか、アルコール依存は病気と見なされるべきか、血清コレステロールのレベルを下げるスタチン剤を50歳以上の人全員に処方するべきか、プラシーボはどのように作用するか、どれくらい痩せていれば痩せすぎなのかなど、健康な生き方について意見の不一致が根強く存在する領域が数多くあるが、そうだとしても、そのような見解は奇妙である。そして、こうした意見の不一致が存在するにもかかわらず、科学によって利用できるようになった事実に基づいて、健康であるために何をするべきかについて、私たちは多くのことを知っている。
生物科学の進展とともに、健康について、またどのような健康状態が一定の病気の予防や治療に寄与するかについて、ますます多くのことがわかるようになってきた。個人差に関する知識や、環境の特徴と特定の医学的状態の関係に関する知識が得られはじめるとともに、人間の健康というテーマがじっさいにどれほど複雑であるかが明らかになってきた。健康は、私たちが何をするべきかについて科学が私たちに多くのことを教えることのできる領域であり、そしてすでに教えてきた領域である。
同様に、社会的行動の領域はきわめて複雑であり、社会的調和と安定に有利な条件および個人の生活の質について、日常の観察と科学から多くを学ぶことができる。ムーアの議論にはこれが不可能であることを示すものは何もない。それどころか、進化生物学の観点からすれば、道徳の根拠として分析不可能な直感へと撤退することは、控えめに言っても有望ではないように思われる。直観とは結局のところ脳の産物であり、〈真理〉に至る超自然的な通路ではない。直観は神経系によって何らかの仕方で生みだされたものである。直観はその原因が意識からどのように隠されていようと、明らかに経験と文化的実践に基づいたものである。私たちが内観によって直感の源泉を知りえないことは、それ自体は脳の機能に関するひとつの事実――何が意識され、何が意識されないかに関する事実――である。私たちが内観によって直感の源泉を知りえないからといって、そのことは、そうした直感が私たちに何らかの〈形而上学的真理〉を告げることを少しも意味していない。
これまで論じてきたことは、けっして科学によってあらゆる道徳的ジレンマが解決可能だということではない。ましてや、科学者や哲学者が農夫や大工よりも道徳的に聡明であるということでもない。しかし、これまで論じてきたことは、人間の社会性の本性についてより深く理解することによって、社会的な実践や制度のいくつかが解明され、それらについてこれまで以上に賢明に考えられるようになるだろうし、私たちはその可能性を虚心坦懐に受け入れるべきだということをたしかに示唆している。」
(パトリシア・チャーチランド(1943-),『脳がつくる倫理』,第7章 規則としてではなく,化学同人(2013),pp.266-268,信原幸弘(訳),樫則章(訳),植原亮(訳))
(索引:倫理,価値,科学的方法,健康,人間の本性)
(出典:wikipedia)
パトリシア・チャーチランド(1943-)
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