2020年5月19日火曜日

言葉の使用は,意味の揺らぎを観察しながら,それを固定することである.その言葉を合成している非常に多くの互いに類似しているゲームの中から,自分の目的のために,ある一定の規則を構成し,その言葉に適用する.(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

言葉の使用

【言葉の使用は,意味の揺らぎを観察しながら,それを固定することである.その言葉を合成している非常に多くの互いに類似しているゲームの中から,自分の目的のために,ある一定の規則を構成し,その言葉に適用する.(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 「三六 ひとつの語が実際にどう使われているかを観察すると、ゆらぎが見られる。
 われわれはこのゆらいでいるものに対し、それを観察しながら、より固定したものを設定する。ちょうど、像としてそれ自身は絶えず変化している風景について、静止した写像を描くように。
 われわれは言語を、明確な規則にしたがったゲームという《観点から》考察する。われわれは言語をそのようなゲームとくらべ、それと照合する。
 自分なりの目的のために、ある語の使用を一定の規則のもとにおこうとすることは、ゆらぎのあるその語の使い方に対し、それの一つの特徴的な様相を規則にまとめて、一つの別の使い方を並べて立てることなのである。
 そこで例えば、(倫理的な意味における)「よい」という語の使い方は、非常に多くの、たがいに同類関係のあるゲームから合成されている、と言ってよかろう。それらはそれぞれこの語の使用の、いわば切り子面のようなものである。そしてここで《一つの》概念をなりたたせているものは、まさにそれら切り子面のあいだの連関、それらの同類関係にほかならない。
 しかしその際、物理学において副次的な影響を無視することによって自然現象の記述が単純化されるような、そうしたことが行なわれているわけではない。論理学は理想化された現実を描出するとか、厳密にはただ理想的言語にとってのみ妥当する、などと言ってはいけない。なぜといって、この理想なるものの概念をわれわれはどこから手に入れるというのか。せいぜいのところ、いわゆる日常言語との対比において「理想的言語を《構成する》」とは言ってよかろう。しかし、理想的言語についてのみ妥当するような何かを、われわれは《言う》のではない。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法1』三六、全集3、pp.96-97、山本信)
(索引:言葉の使用)

ウィトゲンシュタイン全集 3 哲学的文法 1


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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幼児は,関係への努力という根源的欲求を持っている.それは万象を身体との関係事象,生きて働きかけてくる向かい合う汝として引き入れようとする衝動であり,ときに,自らの充溢によって触れ合う相手を夢想する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

関係への努力という根源的欲求

【幼児は,関係への努力という根源的欲求を持っている.それは万象を身体との関係事象,生きて働きかけてくる向かい合う汝として引き入れようとする衝動であり,ときに,自らの充溢によって触れ合う相手を夢想する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

 「関係への努力という根源的欲求は、もっと幼い、もっともおぼろげな生成段階においてもすでにあらわれる。まだ個別のものが知覚され得る以前に、幼児の視力に乏しいまなざしは、模糊たる空間のなかへ注がれ、ある定かならぬものに向けられる。そして乳を欲しがっていないようなときには、やわらかな両手を、見たところはあてもなく空中にさし出し、ある定かならぬものをさがし求め、つかみ取ろうとする。これを動物的と言いたければ、そう言うがよい、しかし、それでは何も理解したことにならない。なぜなら、まさに幼児のこのまなざしは、長い練習のあげくに、ひとたびじっと赤い絨毯のアラベスクのうえにとどまると、赤という色の魂がそのまなざしの前にすがたをひらくまでは、もうそこからそらされないだろうからだ。また、幼児のこの手の動きは、毛のふさふさとした玩具の熊に触れることによって、自己の感覚形式を明確に獲得し、ひとつの完全な体をそなえたものをいとおしく、忘れがたく感知するようになるだろうからだ。これらはいずれも対象物の経験というようなことではなくて、ひとつの――むろんただ《夢想》のうちにおいてだが――生きてはたらきかけてくる相手との触れあいなのである。(ここで《夢想》というのはしかし、決して《万物霊有化》(Allbeseelung)ではなく、万象を自己の《汝》としようとする衝動、万象との関係をもとめる衝動であり、この衝動は、実際に生きてはたらきかけてくる相手が面前にはなく、ただその模写や象徴物しかない場合には、みずからの充溢によって、その生きたはたらきかけの欠如を補ってしまうのだ。)いまはまだ、ちいさな、不明瞭な声が、意味をなさぬままに、根気よく無のなかへと響いている。だが、まさにその声がいつの日か、ふいに対話へと変わっていることであろう。いったい何との? 恐らくはぐらぐらと沸きたっている湯わかしとの。だが、やはりその声は対話となっているのだ。反射行為といわれている数かずの運動は、実は人格という世界が構築されるときの、しっかりとした漆喰鏝なのである。幼児は決して、最初にある対象を知覚し、それから自己をその対象と関係させたりするのではない。最初にあるのは、関係への努力だ、向かいあう存在がそのなかへ引きいれられる、あのふっくらとした手だ。そして第二に起こるのが、向かいあう存在との関係、《汝を言うこと》(Dusagen)の言葉なき前形態なのだ。《汝》が《もの》となることなどは、しかし、もっと後になってからの所産で、――《我》の成立にしてもそうであるように――根源的関係体験の分裂、つまり、結合しあっていた相手との分離から生ずるのである。はじめには関係があるのだ。存在のカテゴリーとして、準備として、把握の形式として、魂の鋳型として。はじめには関係のアプリオリが、《生得の汝》(das eingeborene Du)があるのだ。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.37-39、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:関係への努力)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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自分の諸衝動を悪,病気,歪めるもの,恥ずべきもの,恐怖すべきものと考えるのは誤りである.飛んで行きたいところへ躊躇なく飛び立つこと,そこは常に自由と陽光に包まれている.これが人間の高貴性の徴である.(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

人間の高貴性の徴

【自分の諸衝動を悪,病気,歪めるもの,恥ずべきもの,恐怖すべきものと考えるのは誤りである.飛んで行きたいところへ躊躇なく飛び立つこと,そこは常に自由と陽光に包まれている.これが人間の高貴性の徴である.(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】


 「《自然を誹謗する者に抗して》。―――すべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、―――人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ! 自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は「悪いもの」だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない! 《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ。高貴性というものの徴となるのは、つねに、自分に些かの恐怖をも抱かないこと、自分から恥ずべき何ものをも期待しないこと、われわれが―――生まれながらに自由の鳥であるわれわれが飛んでゆきたいところへはどこへなりと躊躇なく飛び立つこと、であろう! われわれがどこへむかって飛んでゆこうとも、われわれをつつむものはつねに自由と陽光である、ということであろう。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『悦ばしき知識』第四書、二九四、ニーチェ全集8 悦ばしき知識、pp.309-310、[信太正三・1994])
(索引:衝動、自然的傾向、人間の高貴性の徴)

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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君は単純に,自由に,より善きものを選び取り,これを固守せよ.善きものとは有利なもの? 人類にとって? 理性的存在としての自己にとって? 動物的存在としての? それを明確に表明して,思い上がることなく享受せよ.(マルクス・アウレーリウス(121-180))

君は単純に、自由に、より善きものを選び取れ

【君は単純に,自由に,より善きものを選び取り,これを固守せよ.善きものとは有利なもの? 人類にとって? 理性的存在としての自己にとって? 動物的存在としての? それを明確に表明して,思い上がることなく享受せよ.(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「もし君が人生においてつぎのものよりも善いことを見出すならば、―――すなわち正義、真理、節制、雄々しさ、要するに君の心が君にまっすぐな理性にかなったことをさせてくれるごとに自分自身にたいしておぼえる満足や、自ら選ぶことなしに割りあてられた事柄について運命に満足していることなど―――さよう、もし以上のことよりも何か善いものが発見できるならば、全心をもってそれに向かい、君の見つけた最善のものを享受するがよい。
 しかしもし君の内に座を占めているダイモーンよりも善いものはないように思われるならば、―――そのダイモーンは個人的な衝動をすべて自分の配下におき、もろもろの思念を検討し、ソークラテースのいったように、感覚的な誘惑をのがれて、神々の支配の下に身をおき、人類のためにつくすものであるが―――もし他のあらゆるものはダイモーンよりも小さく価値のないものに思われるならば、それ以外の何ものにも余地を与えるな。」(中略)
 「だから私はいうのだ、君は単純に、自由に、より善きものをえらび取り、これをしっかり守れ。『しかしより善いものとは有利なもののことだ。』もしそれが理性的存在としての自己に有利ならば、それを守るがよい。しかしもしそれが動物的存在としての自己に有利ならば、それをはっきりと表明して、思いあがることなく自分の判断を固守せよ。但しこの検討をあやまりなくおこなう注意が肝要である。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第三巻、六、pp.40-42、[神谷美恵子・2007])
(索引:理性、ダイモーン)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

マルクス・アウレーリウス(121-180)
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