2023年5月27日土曜日

思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考とは記号操作

思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


「こうして、思考を「心の働き」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。だが、記号や絵を想像することで考えている場合には、考えている主体を与えることができない。その場合には心が考えているのだ、と言われれば、私はただ、君は隠喩を使っている、[君の言い方で]心が主体であるのは、書く場合の主体は手だと言える場合とは違った意味である、ということに注意を向けてもらうだけだ。
  更にもし、思考がおこなわれる場合を云々するなら、その場所は書いている紙、喋っている口だと言う権利がある。ここでもし、頭や脳を思想の場所だと言うとすれば、それは「思考の場所」という表現を違った意味で使っているのである。頭を思考の場所と呼ぶ理由は何であるか検討してみよう。そういう表現の形を批判したり適切でないことを示すのがその意図ではない。なすべきことは、その表現の働き、その表現の文法を理解することである。例えば、その文法が、「口で考える」また、「紙上の鉛筆で考える」という表現とどういう関係にあるかをみることである。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.30、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]





記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

記号の意味とは何か

 記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。  (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


「しかし、記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用( use )であると言うべきであろう。 
 仮に記号の意味(簡単に言えば、記号で大切なもの)が、記号を見聞きするとき我々の心の中に作り上げられるイメージであるとしても、先に述べたやり方で、この心的イメージを我々の眼に見える外的事物、例えば描かれたイメージ[つまり画]や模造されたイメージ[つまり模型]で置き換えてみよう。すると、書かれている[無機的な]記号がそれだけでは死んでいると言うのであれば、それに描かれたイメージをつけ加えたところでそれらが一緒になったものが生きる道理はない。
 ―――事実、君が心的イメージを例えば描かれたイメージで置換えて見たとたん、またそれによってイメージが神秘的性格を失ったとたん、そのイメージは文にいかなるものであれ命を附与するとは思えなくなるのである。(実のところ、君が自分の目的に必要としたのはまさにこの心的イメージの神秘的性格だったのである。)
  我々のおちいりやすい誤りを次のようにも言えよう。我々の探しているのは記号の使用であるが、それを何か記号と《並んで存在》しているもののように考えて探すのだ、と。(この誤りのもとの一つはまたしても、「名詞に対応する物」を求める、ということである。)
 記号(文)はその意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。簡単に言えば、文を理解することは言語を理解することである。 
 文は言語体系の部分としてのみ命をもつ、とも言えよう。だのに人は、文に命を与えるものはその文に随伴する、神秘的な領域にある何かであると想像する誘惑に負けるのである。しかし、たとえ文に随伴するものがありとしても、すべてそれは我々にとってまた一つの記号にすぎぬであろう。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.27-28、大森荘蔵)

思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考過程を可視化する

 思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「思考過程のこの神秘的な外見の少なくとも一部を避ける方法がある。それは、これらの過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみるのである。例えば、「赤」という語を聞いて理解するときに、少なくともある種の場合には、心眼の前に赤いイメージがあることが不可欠のように思えよう。だが、赤の斑点を想像することを、赤い紙切れを見ることで置き換えてもいいではないか。[違いは]目で見る[赤紙の]像(イメージ)の方がずっと生き生きしていようだけのことである。色名が色斑と対応付けられている紙をいつもポケットに持ち歩いている男を想像してほしい。君は、そんな色サンプルの表を持ちまわるのはさぞ面倒だろう、連想機構こそその代りにいつも我々が使っているものだ、と言うかもしれない。しかしそういうのは見当違いだ、また、それは真実でない場合すら多くある。例えば、君が「プルシャン ブルー」という特定の色合いの青を塗るように命じられたとしたら、表を使って「プルシャン ブルー」の語から或る色サンプルに導かれ、それを君の色見本にする、ということをやらなければならない場合もあるだろう。
  我々の目的にとっては、想像の過程をすべて、物を目で見る過程、絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換えるのは一向に差支えない、また、内語を声を出して喋ることや書くことで置き換えるのも。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.26、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




何のことか分からない線のもつれが「Xである」と分かるとは、どのような状態なのか。既知感があること、記録(目録など)があること、対象に関する様々な関連情報が連想されること、または記録があること。既知感がなくとも規則性、対称性、安定感、装飾性などを感じさせること。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

線で描かれた絵

 何のことか分からない線のもつれが「Xである」と分かるとは、どのような状態なのか。既知感があること、記録(目録など)があること、対象に関する様々な関連情報が連想されること、または記録があること。既知感がなくとも規則性、対称性、安定感、装飾性などを感じさせること。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))



「一二五 こんな種類の判じ絵のことを考えてみよう。そこで見いだすべきなのは、何か《一つの》特定の対象なのではない。そうではなくて、最初に見たときはその全体が、何のことかわからない線のもつれとみえるのだが、しばらく探っているうちに、例えば一つの風景画として現われてくるのである。―――この解がえられる前と後とで、この画像の眺めの相違はどこにあるのか。その二つの場合においてわれわれが画像を違ったふうに見ることは明らかである。しかし、解がえられた後で、今はこの画像はわれわれにあることを語るが、以前には何も語りはしなかった、と言いうるのは、どの範囲でのことか。
 この問を次のように立てることもできる。解が見いだされたということの一般的な特徴は何か。
 その判じ絵が解かれたときには、私はそのなかのある線を強くなぞり、いわば明暗の度合いを導入することによって、その解がわかるようにする、と、こう考えたい。では君は、君が描き入れた像を何故に解とよぶのか。
(a)それは一群の空間的諸対象を明らかにあらわしているから。
(b)それはある規則的な形の物体をあらわしているから。
(c)それは左右対称の形状だから。
(d)それは私に装飾的な印象をあたえる形状だから。
(e)それは私にとって既知のものと思われる物体をあらわしているから。
(f)いろんな解の目録があり、この形状(ないしこの物体)がそこに載っているから。
(g)それは私がよく知っている種類の対象をあらわしているから。すなわち、その対象は一瞬にして私に熟知のものだという印象をあたえる。私は一瞬のうちにあらゆる可能な連想をそれに結びつける。私はその対象が何というものか知っている。私はそれをしばしば見かけたことを知っている。私はそれが何のために使われるかを知っている、等々。
(h)それは私にとって既知のものと思われる顔をあらわしているから。
(i)それは私がそれとして認知する顔をあらわしているから。(α)それは私の友人某氏の顔である。(β)それは私がしばしば肖像で見たことのある顔である、等々。
(j)それは私がかつて見たことがあるのを覚えている対象をあらわしているから。
(k)それは私が(どこで見たかはわからないが)よく知っている装飾模様だから。
(l)それは、私がよく知っており、その名も、どこで前に見たかもわかっている装飾模様だから。
(m)それは私の部屋の調度をあらわしているから。
(n)私は本能的にこの線をなぞり、それで安定した感じをもつから。
(o)私はこの対象について話してきかされたことがあるのを覚えているから。
(p)私はその対象をよく知っているように思われるから。すなわち、ある言葉がそれの名前としてただちに私の心に浮んでくる。(ただしその言葉は既存の言語のどれにも属してはいない。)私は心のなかで言う、「そうだとも。それは甲であって、いくども乙で見たものだ。人はそれで丙を丁して、戊にするのだ」と。こうしたことは例えば夢のなかでおこる。等々。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法1』一二五、全集3、pp.240-242、山本信)
(索引:)



ウィトゲンシュタイン全集(3) 哲学的文法 1 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




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