2024年4月8日月曜日

17. ミルトン・フリードマンの研究(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 ミルトン・フリードマンの研究(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「本書の主要なテーマはふたつある。ひとつは、これまで思想の戦い――ほとんどの国民にとってどのような社会、どのような政策が最善なのかをめぐる――が続いてきたということで、

ふたつめは、その戦いにおいて、上位1パーセントにとって好ましいもの、すなわち最上層の関心や願望の対象――最上層の税率の引き下げ、赤字の削減、政府規模の縮小――は誰にとっても好ましいものであると、すべての人に信じ込ませようとする試みがなされてきたということだ。

 現在流行の通貨経済学・マクロ経済学の起源が、強い影響力を持つシカゴ学派の経済学者ミルトン・フリードマンの研究にあることは偶然ではない。

フリードマンはいわゆる自由市場経済学の強力な支持者で、外部性の重要度を控えめに見て、情報の不完全性などの“エージェンシー”問題

(訳注:プリンシパル(委託者)の委託を受けたエージェント(代理人)が、委託者の利益のために行動しないことによる取引の失敗のこと。エージェントとプリンシパルのあいだに利害対立と情報の非対称性があることによって起こる)を無視する。

消費の決定要因にかんするフリードマンの先駆的な研究はノーベル賞を受賞するにふさわしいものだったが、自由市場にかんする所見は、経済分析ではなくイデオロギー的確信にもとづいていた。

不完全な情報や不完全なリスク市場がもたらす帰結について、フリードマンと長時間議論したのを覚えている。

 わたし自身の研究と、ほかの数多くの同僚の研究では、これらの条件下で市場は通常うまく機能しないという結果が示されていた。フリードマンはそういう結果をまったく把握できなかったか、把握しようとしなかった。反論もできなかった。

たんに、そういう研究がまちがいでなければならないことはわかっていると、返答するだけだった。

フリードマンをはじめとする自由市場経済学者の返答は、あとふたつあった。理論的帰結が正しくても、それらは“珍しい事象”、つまりルールを証明する例外にすぎないというものと、問題が広範囲にわたるものであったとしても、その問題を修復するのに政府をあてにすることはできないというものだ。

 フリードマンの通貨理論・通貨政策には、政府の規模を小さくし、その決定権を制限することに注力する姿勢が反映されている。

フリードマンが広めた学説は、通貨管理経済政策(マネタリズム)と呼ばれるもので、政府は一定の割合(生産の増加率、これは労働力の増加率と生産性の増加率を足したものにひとしい)で通貨供給量を増やすだけでよいとする。

現実の経済を安定させる――つまり、完全雇用を確保するという目的で通貨政策を使うことはできないという点は、あまり重要視されなかった。フリードマンは、経済がひとりでに完全雇用状態かそれに近い状態にとどまるだろうと思い込んでいた。政府が台無しにしないかぎり、どれほど逸脱してもすぐに修正されるだろう、と。」(中略)

「フリードマンは銀行経営規制についても持論があった。ほかの大半の規制と同じように、経済効率の妨げになっていると考えていたのだ。」(中略)

 「金融市場は独力でうまく機能するから政府は干渉すべきではないという見解は、過去四半世紀のあいだに最も有力なテーマとなり、すでに見てきたように、グリーンスパンFRB議長と歴代財務長官によって強力に推し進められた。

そして、これもすでに触れたように、その見解は金融部門など最上層の人々の利益には大いにかなうものだったが、経済全体をゆがめてしまった。

さらに、金融システムの崩壊はFRBを驚かせたようだが、それはしかるべき結果だった。バブルは西欧資本主義が始まって以来、ずっとついてまわったきた。1637年のチューリップ球根熱から、2003年~2007年の住宅バブルまで。

経済的安定の維持において通貨当局が果たすべき責任のひとつは、そういうバブルの形成をはばむことなのだ。

 マネタリズムの基礎には、貨幣の流通速度――1ドル紙幣が1年間に受けわたしされる回数――は一定であるという仮定があった。一部の国や一部の場所に限ればそのとおりだったが、20世紀末の急速に変化する世界経済においては、それは事実ではなかった。

この理論は、中央銀行の理事たちのあいだで大流行してからほんの数年で、根本から疑われることになった。理事たちはただちにマネタリズムを捨て去ると、市場への干渉は最小限にするべきだという教義と矛盾しない新しい信条を探した。

そして、インフレ・ターゲット論を見つけた。このスキームでは、中央銀行は目標インフレ率を選定して(2パーセントが好まれる)、実際のインフレがその数字を上回ると必ず金利を上げなくてはならない。金利が上がると成長が鈍り、それによってインフレが鎮まることになる。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第9章 上位1%による上位1%のためのマクロ経済政策と中央銀行,pp.370-374,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】







 
(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)


17. 神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


 「《宗教的な》人間とは、単独者として、唯一者として、孤立者として神の前に歩んでゆく者だというようなことが語られている。

なぜなら彼は、この世界の義務と負い目になおも服しているような《倫理的》(sittlich)な人間の段階をも通りこえてしまっているからである、と。

倫理的な人間はまだ、行為者としての自分の行為にたいする責任という重荷を明らかに背負っているが、それは彼が存在と当為のあいだの緊張によって全く規定されているからで、だから彼はこの両者のあいだの埋められぬ深淵のなかへグロテスクにも絶望的な犠牲心から、自分の心の切れはしを次々に投げいれる、……

《宗教的な人間》はしかし、そうした緊張を脱して、世界と神とのあいだの緊張のなかへふみこんでいる、というわけである。」(中略)  

「だがこれは、神が世界を仮象たるために、そして人間を酩酊者たるために創造したと思い誤っているものである。

たしかに神の顔前に歩みよる者は、犠牲や負い目を通りこえてはいる、――しかしそれは、彼が世界から遠ざかったからではなくて、彼が世界に真に近づいたからである。

われわれが世界に義務と負い目を感ずるのは、世界が疎遠なものである限りにおいてであって、親密なものである世界にはわれわれは、ただ愛によってのぞむのだ。

神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。そのとき世界と神とのあいだにはもはや緊張は存在せず、ただ《唯一》の現実だけが存在するのだ。

といっても、このとき人間は責任から解除されているわけではない。ただ彼は、限定された、おのれの効果を気がかりに追跡するような責任がもたらす苦痛を、無限なる責任というものの振動力と取り替え、またそれを、感取し得ぬ世界現象全体にたいする愛にみちた責任の力と取り替え、神の顔前において世界のなかへ深く引きいれられるということと取り替えてしまったのである。

たしかに彼は、倫理的判断なるものを永遠に廃棄してしまったのだ。

このとき彼にとって《悪しき人間》とは、より深くそのひとにたいする責任が彼に託されているところの人間、よりいっそう愛を受けることを必要としているところの人間にほかならない。

だが、彼は彼の自発性の深みにおいて、正しき行為への決断を死にいたるまでなし続けねばならないであろう。正しき行為にたいする、ゆとりのあるたえず新たな決断を。

ここでは行為は無意味なのではない。それは求められ、使命としてあたえられ、役立てられ、創造のわざにその一部分としてつらなっている。だが、こうした行為はもはや世界にたいする義務として課されているのではなく、世界との触れあいから、あたかも無為であるかのように生じてくるのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.143-146、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話








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