異論を抑圧することの害悪
【抑圧された異論が正しかったとき、真理が失われる。なぜ抑圧しようとするのか。(a)自分の意見への愛着、(b)確信を正しさと誤解すること、(c)意見が、時代や国、所属する階級、党派、宗派に依存していることを忘れること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】異論を唱えるたった一人に対してであっても、彼を沈黙させるのは不当であり、特別の害悪がある。それは、人類全体や次世代にも及び得る被害をもたらす。その異論が正しい場合も、間違っている場合も。なぜか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
(1)抑圧しようとする異論が、正しいこともある。
なぜ、このようなことが起こるのかの理由は、以下の通りである。
(a)自分の意見への愛着
人間は間違いをおかすもので、どんな意見でも間違っている可能性があると理解していても、自分が確実だと感じている意見が間違いかもしれないとは、思わない。
(b)確信を正しさと誤解すること
自分の意見が正しく、異論が間違いだと確信しても、確信自体が自分の意見が正しいことを保証してくれるわけではない。
(c)意見は、時代や国、所属する階級、党派、宗派に依存する
仮に、自分ひとりの判断ではなく、「世間」では、このように考えられているということを、根拠にしても、そもそも「世間」とは、抑圧しようとしている人が、普段接している人たち、つまり所属する党派や宗派、教会、階級を意味しているにすぎない。そして、数多い世間のなかで、どの世間を信頼するのかはまったくの偶然によって決まったのである。
「第一の想定について考えていこう。政府が抑圧しようとしている意見は、正しい意見なのかもしれない。もちろん、その意見を抑圧しようとしている人は、それが正しい意見ではありえないと主張する。しかし、そう主張する人も無謬ではない。人類全体のためにその問題の是非を判断する立場にはないし、他の人びとに判断の材料を与えないようにする権限はもっていない。ある意見が間違っていると確信しているからという理由でその意見の発言を禁止すると、自分にとって確実なことは絶対に確実なのだと想定することになる。議論を禁止するときにはかならず、自分の無謬性を想定することになるのである。言論の抑圧は悪だとするとき、このような平凡な主張を根拠とすることができるだろうし、平凡だからといってこの主張に問題があるわけではない。
人類の良識という観点ではじつに不幸なことだが、人間が間違いをおかしやすい事実は一般論としてはつねに認識されているが、具体的な問題扱う際にははるかに軽視されている。誰でも自分が間違う可能性があることは十分に知っているのだが、自分が間違える場合に備えておく必要があるとは、ほとんど誰も考えないし、どのような意見も間違いである可能性があるとは認めても、自分が確実だと感じている意見がそうした間違いの一例かもしれないとは、ほとんど誰も考えないのである。専制君主など、無条件に服従されることに慣れている人はふつう、ほとんどすべての問題で、自分の意見は完全に正しいと感じるものだ。庶民はもっと有利な立場にあり、自分の意見が反駁されることもあるし、間違いを指摘されることにもまったく不慣れというわけではないので、自分の意見は完全に正しいと感じるのは、周囲の人たちか、つねづね尊敬している人たちがみな同意見のときだけである。自分ひとりの判断には自信がない分、「世間」の判断が間違っているはずがないと考えて、それに頼りきろうとするのが通常である。だがこの場合の「世間」とは、自分がふだん接している人たち、つまり所属する党派や宗派、教会、階級を意味しているにすぎない。自分の国全体か同じ時代に生きる人全体にまで世間の範囲を広く考えているのであれば、自由で心の広い人だといえるほどである。こうした世間の判断に対する無条件の信頼は、他の時代、他の国、他の宗派、他の教会、他の階級、他の党派の人がまったく逆の意見をもっていたし、いまですらもっている事実を知っても、まったく揺らぐことがない。違う世間に対して自分たちの意見の正しさを示す責任は、すべて自分が属する世間にあずけている。そして、数多い世間のなかでどの世間を信頼するのかはまったくの偶然によって決まったのであり、ロンドンに生まれ育ってイングランド国教会の信者になったのと同じ理由で、北京に生まれ育っていれば仏教か儒教を信じていただろうという点を思い悩むことはない。だが、議論する必要がないほど自明のことだが、時代も個人と変わらないほど間違いをおかしやすい。どの時代にも、後の時代からみれば間違っている意見、さらには馬鹿げているとしかいえない意見をいくつももっていた。そして、過去に一般に信じられていた意見の多くがいま、間違いだとされているように、いまの時代に一般に信じられている意見の多くが将来、間違いだとされるのは確実である。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.42-45,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:異論を抑圧することの害悪)
(出典:wikipedia)
「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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