2022年1月19日水曜日

27.法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由と積極的自由

法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)不干渉を弁護する社会的ダーウィニズム
 社会的ダーウィニズムのように不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のに使われてきたことはいうまでもない。

(b)社会立法や福祉国家の基礎付けは消極的自由の概念でも可能
 社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟である積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。

(c)積極的自由による基礎付け
 歴史的 に消極的自由による福祉国家の基礎付けによることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。

(d)双方の自由概念はそれぞれ重要
 統制と干渉が度を過ごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な市場経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。






「消極的自由の信条は、重大かつ持続的な害悪を生ぜしめることとも両立するし、また(観 念が行動に影響を与える限りでは)現にそうした害悪を生ぜしめるのに一役かってきたこと は、勿論忘れない方がよい。しかし、私が言いたいのは、消極的自由の信条は、最も陰険な形 をした《積極的》自由のチャンピョンたちが自分の信条を弁護するのによく使うような見せか けの議論や詐術によって、弁護されたり偽装されたりすることがはるかに少なかったというこ とである。(《社会的ダーウィニズム》のように)不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のにつかわれてきたことはいうまでもない。狼にとっての自由は、羊にとってしばしば死を意 味した。経済的個人主義や止まるところのない資本主義的競争についての血なまぐさい物語 は、今日ことさら強調する必要もないと思いたいところだ。にもかかわらず、私を批判する人 たちが私に着せた、おどろくべき濡れ衣を眺めてみると、私の議論のある部分をとくに気をま わして力説しておくべきであったようだ。無制限の《レッセ・フェール》の害悪、それを許す ばかりか更にそれを奨める社会・法体系の害悪は、《消極的》自由や基本的人権(これは抑圧 者に対する壁としてつねに《消極的な》観念である)、表現や結社の自由を含めた基本的人権 の、野蛮な侵害になってしまうのだということを、更に一層明らかにさえしておくべきであっ た。この基本的人権がなくても、正義、同胞愛、それにある種の幸福さえ、存在し得るかもし れないが、デモクラシーは在りえないのである。更にまた、私は、(言う必要もないほど明ら かであると思っていたのだが)つぎのようなことをおそらく強調しておくべきだったであろ う。即ち、個人や集団が、意義ある程度の《消極的》自由を行使できるための必要最小限の条 件、理論的には自由をもっている人にも、それなくしては自由がほとんど何の価値もなくなっ てしまうようなミニマムの条件、こうした条件を、この社会・法体系は提供しそこなっている ということを。というのは、権利を持っていたところで、それを実行に移すだけの力がなけれ ば何になるか。この問題に関心をもつ近代のまじめな著作家たちのほとんどすべてが、無制限 の経済的個人主義の体制下において、個人の自由がどんな運命を辿ったかについては十分に述 べている、と私は思っていた。とりわけ都市において、いたましい多くの人びとの境遇、子供 たちは鉱山や工場で損なわれ、両親たちは貧困、病い、無知のうちに過ごす、こうした境遇で は、貧乏なものも弱気ものも、好きなように金を使い欲するような教育を選べる法的権利があ るということなどは(コブデンやハーバート・スペンサー及び彼らの弟子たちが、全く大真面 目に説いてきかせたことだが)、おぞましい茶番となってしまったのである。こうしたことは すべて、まことに遺憾ながら事実であって、法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する のである。国家やその他の実行機関が、積極的自由、および少なくとも最小限の消極的な自由 を個々人に保障するために介入することは、圧倒的に支持されている。トクヴィルやミル、そ れに(近代のいかなる著述家よりも強く消極的自由を支持した)パンジャマン・コンスタンの ような自由主義者さえ、このことを知らないではなかった。社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟であ る積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。歴史的 に前者によることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。二つの概念の消長は、大抵、あ るグループや社会を一定の時点でもっともおびやかしている特定の危険に原因を求めうる。統 制と干渉が度をすごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な《市 場》経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.68-70,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




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