2022年1月19日水曜日

24.積極的自由は、高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という考えで歪曲され、やがて高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命と同一視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

二つの自我という歪曲

積極的自由は、高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という考えで歪曲され、やがて高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命と同一視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)独立した人格には不可侵の領域が必要
 他人と全面的に調和することは、自分が独立した人格であるということと相容れない。すべての点で他人に依存しようというのでない限り、他人が勝手に干渉しない、また干渉 しないと当てにできる若干の領域が必要である。
(b)高次と低次、真正と経験的、理想的と心理学的な二つ自我という歪曲
 歴史的にいえば、積極的自由の観念は、「誰が主人であるか」という問いに答える ものであって、「私はどれだけの領域で主人であるか」に答えるための消極的自由の観念 から離れている。両者の距離は、自我の観念が、一方では高次の、あるいは真正の、 あるいは理想的自我と、他方では低次の経験的な心理学的な自我ないし 本性とに、形而上学的に分裂し、前者が後者を統御するとしたり、最良の自我が劣った日常的 な自我の主人であるとしたり、コールリッジの大文字で書く《私の真存在 I AM》が、時間と空間のなかにとじこめられた超越的でない自我に君臨するとしたようなときに、この距離はま すます開いていった。
(c)制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党、一般意志、共通の福祉、天与の使命
 高次の自我は、制度、教会、国民、人種、国家、階級、文化、政党と同一視されるようになり、あるいは一般意志、共通の福祉、社会の変革勢力、最も進歩的な階級の前衛、天与の使命というような漠然としたもの と自然に同一視されてしまった。







「他人との摩擦や抵抗を超越しよう、水に流そうという右のような涙ぐましい努力にもかか わらず、もし、自己欺瞞を望まないなら、いずれは次の事実を認めざるをえないだろう。即 ち、他人と全面的に調和することは、自分が独立した人格であるということと相容れないこ と、すべての点で他人に依存しようというのでない限り、他人が勝手に干渉しない、また干渉 しないと当てにできる若干の領域が必要であることである。こうして、「自分が主人である領 域、主人であるべき領域はどれぐらい広いか」という問題が起こってくる。私の考えはこうで ある。歴史的にいえば、《積極的》自由の観念は、「誰が主人であるか」という問いに答える ものであって、「私はどれだけの領域で主人であるか」に答えるための《消極的》自由の観念 から離れている、両者の距離は、自我の観念が、一方では《高次の》、あるいは《真正の》、 あるいは《理想的》自我と、他方では《低次の》、《経験的な》、《心理学的な》自我ないし 本性とに、形而上学的に分裂し、前者が後者を統御するとしたり、最良の自我が劣った日常的 な自我の主人であるとしたり、コールリッジの大文字で書く《私の真存在 I AM》が、時間と 空間のなかにとじこめられた超越的でない自我に君臨するとしたようなときに、この距離はま すます開いていった。こうした二つの自我という広く普及した古くからの形而上学的イメージ の底には、真の内面的緊張の経験があろうし、またそのイメージの影響は言葉、思想、行動に 絶大なものがあった。それはともあれ、当然のごとく、《高次の》自我は、制度、教会、国 民、人種、国家、階級、文化、政党と同一視されるようになり、あるいは一般意志、共通の福 祉、社会の変革勢力、最も進歩的な階級の前衛、《天与の使命》というような漠然としたもの と自然に同一視されてしまった。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.65-66,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




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