2019年5月3日金曜日

複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

究極的目的、第一原理の役割

【複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.4)(b.5)追加。

(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務や正・不正の起源と性質
  義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)義務や正・不正の感覚・感情論
  私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (b)義務や正・不正の理性論
  道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (b.1)道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (b.2)道徳問題は、議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.3)道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (i)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (ii)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (iii)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (iv)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓↑
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓↑
 行為が生み出す帰結:行為の価値


選択される。
  (b.4)究極的目的(第一原理)の役割
   (i)個々の二次的目的については、人々が合意することができても、特異な状況においては異なる複数の二次的目的どうしが、互いに対立する事例が生じる。これが、真の困難であり複雑な点である。
   (ii)二次的目的が対立し合うような状況で、もし、より上位の第一原理が存在しなければ、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張し合うことになり、これ以上は議論が進まないことになる。このような場合に、第一原理に訴える必要がある。
   (iii)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

  (b.5)人間事象の複雑性と、意思決定の困難さ。
   (i)行為の規則を、例外を必要としないような形で作ることができない。
   (ii)ある行為を為すべきか、非難されるべきか、決定することが困難な場合もある。
   (iii)特異な状況における意思決定には、ある程度の裁量の余地が残り、行為者の道徳的責任において選択される。

(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「お決まりの功利主義批判のうち残りの大部分は、人間本性のありふれた弱さや、誠実な人が人生において進むべき進路を決めるときに突き当たる一般的な困難を非難しているものである。功利主義者は、自分の具体的事例を道徳規則の例外としがちであり、誘惑にかられたときには規則を守ることよりも破ることの方がより功利性があるとみなしがちであると言われる。しかし、功利性は悪い行為をするときに口実を与えたり自らの良心をごまかす手段となったりする唯一の教義であろうか。そのようなことは、道徳には相反する考慮が存在することを事実として認めているあらゆる理論のなかに多く見られるし、良識ある人々によって信奉されてきているあらゆる理論はこのようなものである。行為の規則を例外を必要としないような形で作ることができないことや、ある行為をするべきものなのか非難されるべきものなのかをつねに問題なく決定することがほとんどできないことは、何らかの理論がもっている欠点ではなく、人間事象の複雑な性質からくる欠点である。あらゆる倫理理論は、行為者の道徳的責任のもとで、特異な状況に対応するためにある程度の裁量の余地を与えることによって、その規則の厳格さを和らげている。それゆえ、あらゆる理論において、このようにして作られた隙間から自己欺瞞やいい加減な決疑論が入り込む。あらゆる道徳体系において、義務が対立する明確な事例が生じる。これらの事例が、倫理理論にとっても個人の行為における良心の指針にとっても真の困難であり複雑な点である。これらは実際には各個人の知性や徳次第で克服されうる。しかし、権利や義務が衝突するときに委ねることができる究極的な基準をもつことで、これらの困難な事例に取り組むのに適任でなくなると言うことはできない。功利性が道徳的義務の究極的源泉であるとすれば、功利性はいくつかの義務が求めるものが両立しないときにどちらか一方に決めるために用いられるだろう。その基準を適用することは難しいことかもしれないが、何もないよりかはましである。他の体系では、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張しており、それらに介入する資格をもつ共通の裁定者が存在していない。したがって、ある規則が他の規則よりも優先されるという主張はこじつけとほとんど変わらないものに基づいているし、一般的にそうされているように功利性を考慮することの影響を暗黙的に受けることによって判断されないかぎり、個人的な欲求やえこひいきによる行為の余地がある。第一原理に訴えるための要件を満たしているのは、このように二次原理の間で対立が生じている場合のみであることを忘れてはならない。何らかの二次原理を伴っていない道徳的義務の事例はない。[二次原理が]一つでもあれば、それはどれなのかについて[一次]原理自体を認識している人の心のなかで実際に疑問がもたれることはほとんどない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.289-290,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:究極的目的,二次的目的,第一原理,功利性の原理,最大幸福原理)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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