慣例主義
柔らかい慣例主義は、国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うということを慣例と考えることによって、純一性としての法の観念に近づく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
(6.1.7) 国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うという慣例
(a) 国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うこと
柔らかい慣例主義者は、裁判官がどのような法観念であれ国家の強制を最善の仕方で 正当化するような法観念に従わなければならない、という慣例を見出すこともあるだろう。
(b)何が最善の正当化なのか
他の柔らかい慣例主義者は、より具体的な観念のう ちでどれが強制の最善なる正当化を提供するかについて異なった見解を採ることがあり、それゆえ、問題とされている抽象的な慣例の黙示的外延についても異なった見解を採ることになる だろう。
「しかし、憲法が基本法であるという合意さえ存在しないと想定してみよう。柔らかい慣例主義者は、もっと抽象的な合意を更に捜し求めることができるだろう。例として、私が第3章 で提示した示唆が正しいものと仮定しよう。つまり、法の窮極的な存在理由は個人や集団に対 する国家の強制を許可し正当化することにある、という暗黙ではあるが広汎な見解の一致が存 在する、という示唆が正しいとしよう。この極度に抽象的な合意の中に、柔らかい慣例主義者 は次のような慣例を、すなわち、裁判官はどのような法観念であれ国家の強制を最善の仕方で 正当化するような法観念に従わなければならない、という慣例を見出すこともあるだろう。そして更に彼は、前記の規準に照らして最善とされた何らかの観念を宣言する過程を踏んだうえ で、この抽象的な慣例が、その黙示的な外延の中に次の命題を含んでいることを主張しうるだ ろう。つまり、先例で提示された事実と現在の事案における事実との間に道徳的原理に関して 何らの相違も存在しないときには、先例は従われねばならない、という命題である。そして更 に彼は、ほんの少しばかり息をきらしながら、他人がどう考えようと、法はマクローリン夫人 に損害賠償を保証している、と言明するに至る。同じように柔らかい慣例主義を採用する他の 法律家や裁判官が、この見解に同意しないこともあるだろう。彼らは、より具体的な観念のう ちでどれが強制の最善なる正当化を提供するかについて異なった見解を採ることがあり、それ ゆえ、問題とされている抽象的な慣例の黙示的外延についても異なった見解を採ることになる だろう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の2種類の 形態,未来社(1995),pp.207-208,小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン (1931-2013) |