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2019年11月17日日曜日

自分の知性を活用して、ささやかでも同胞の生活の改善に貢献するという仕事は、この世界と人間に関する多種多様な興味と探究心を喚起し、その人の人生を価値あるものにしてくれる。これが教育の究極目的である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

教育の究極目的

【自分の知性を活用して、ささやかでも同胞の生活の改善に貢献するという仕事は、この世界と人間に関する多種多様な興味と探究心を喚起し、その人の人生を価値あるものにしてくれる。これが教育の究極目的である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(5)教育の究極の目的は何か
 (5.1)同胞の生活の改善、人類への貢献
  (a)人間性と人間社会が変化する過程で、日々新たな問題が発生し、解決が求められる。このような諸問題を解決できるための、能力を高めること。
  (b)何らかの点で、人類を現在よりもより賢明に、より善良にする方法を探究すること。
  (c)人間生活のすべての側面を、現在よりももっと合理的な基盤に置く方法を探究すること。
 (5.2)各個人が為すべきこと
  (a)ささやかな貢献をする
   誰でも、自分の知性を活用して、ささやかでも同胞の生活をある程度改善することができる。
  (b)最善の思想を理解する
   また、我々の時代の独創的な精神の持ち主達によって産み出された最善の思想に精通する努力をすること。
  (c)最善の思想を育てる土壌、世論の質を向上させる
   なぜなら、独創的で最善の思想も、多くの人たちの理解と歓迎、激励、援助という土壌がなければ、大きく育たないからである。
  (d)もちろん、人によっては自ら人類に対して独創的な貢献をする者もいることだろう。
 (5.3)真の報酬とは何か
  (a)同胞の生活の改善、人類への貢献という目的は、本来なら、報酬が与えられるなどということを、考えなければ考えないほど、純粋で善いものであることは言うまでもない。
  (b)しかし、期待を決して裏切ることのない、いわば、利害を超越した報酬がある。同胞の生活の改善、人類への貢献という仕事は、この世界と人間に関する多種多様な興味と探究心を喚起し、その人の人生を価値あるものにしてくれる。すなわち、報酬はこの仕事そのものに内在しているのである。

 「諸君は、今こそ、細々とした商売上のあるいは職業上の知識よりもより重大なかつはるかに人間を高尚にする諸問題についてある程度の見識を獲得し、人間のより高尚な関心事すべてに諸君の精神を活用する術を習得すべき時期であります。諸君がこのような能力を身につけて、実生活の仕事のなかに入って行かれるならば、仕事の合間に見出される僅かな余暇でさえも、空費されることなく、高貴な目的のために利用されることでありましょう。退屈さが興味を圧倒するという最初の難関を突破し、そして更にある時点を通り過ぎて、今迄の苦労が楽しみに変わるようになると、最も多忙な後半生においても、思考の自発的な活動によって、知らず知らずに精神的能力は益々向上し、また教訓を通じて日常生活から学ぶ方法を会得するようになります。もし諸君が、青年時代の勉学において究極の目的――この究極の目的に向かって行われればこそ青年時代の勉学は価値があるのでありますが――この究極の目的を見失わなければ、少なくともそうなることでありましょう。では、この究極の目的とは何であるかと申しますと、そしてそのような目的がわれわれの胸中にあることで、われわれは、絶えず高度な能力を働かせるようになり、また、年を経るとともに貯めてきた学識や能力を、何らかの点で人類を現在よりもより賢明に、より善良にする方法、あるいは人間生活のすべての側面を現在よりももっと合理的な基盤に置く方法があれば、それを支援するために惜しみなく費やすいわば精神的資本と考えるようになります。われわれのなかで、人並みな機会が与えられれば、その機会を利用し、そして今までに覚えた知性の活用の仕方を応用して、同胞の生活をある程度改善しうる能力を備えていない人は誰一人いません。このささやかな貢献を結集してより大きなものにするために、われわれの時代の独創的な精神の持ち主達によって産み出された最善の思想に精通する努力を常に致しましょう。この努力を通じて、われわれは、どんな社会運動がわれわれの助力を最も切実に必要としているかが分かるようになり、そしてまた、こうすることがわれわれの最大の務めであるように、良き種子が岩石の上に落ちて、もしも土の上に落ちたならば芽を出し、繁茂しえたのに、土に達することなく朽ちて行くというようなことのないようにすることができます。諸君は、将来、人類の福祉に知的な側面で寄与する人々を歓迎し、激励し、援助する立場の人々の一員となります。そしてまた、諸君は、もしその機会があるならば、人類に知的恩恵を施す人々のなかに加わるべき人々であります。意気消沈している時は、そのような機会がないように思われるかもしれませんが、そんなことで勇気を失ってはなりません。機会を捉える方法を知っている人は、機会というものは自分で創り出すこともできるということに気がついています。われわれの実績は、われわれの所有する時間の多寡に左右されるのではなく、むしろその利用法次第であります。諸君や諸君と同じ環境にある人こそ、次の世代を担う国の希望であり、人材であります。次の世代が遂行すべき使命を担っている大事業のほとんどすべては、諸君達の誰かが成し遂げなければなりません。確かに、そのなかのいくつかは、私が今こうして話し掛けている諸君に比べれば、社会から受ける恩恵がはるかに少なく、教育を受ける機会もほとんど与えてもらえなかった人々によって成し遂げられることもあるでしょう。私は、地上における報いにせよ、天上における幸福にせよ、報酬を眼前に示して、諸君をそそのかすつもりは毛頭ありません。どちらであろうと、報酬が与えられるなどということを考えなければ考えないほど、われわれにとっては良い事なのであります。しかしただ一つ、諸君の期待を決して裏切ることのない、いわば、利害を超越した報酬があります。なぜそうなるかと申しますと、それは、ことのある結果ではなく、それを受けるに値するという事実そのものに内在しているものであるからです。では、それは一体何であるかと申しますと、「諸君が人生に対して益々深く、益々多種多様な興味を感ずるようになる」ということであります。それは、人生を十倍も価値あるものにし、しかも死に至るまで持ち続けることのできる価値であります。単に個人的な関心事は、年を経るに従って、次第にその価値が減少して行きますが、この価値は、減少することがないばかりか、増大してやまないものなのであります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,8 結論,pp.85-88,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:教育,教育の究極目的,同胞の生活の改善,人類への貢献,利害を超越した報酬)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月16日土曜日

道徳教育においては、(a)自らの判断を押しつけず、(b)学生の判断力の養成を目的に、(c)各教説に含まれる最良の真理に焦点を合わせ、(d)人類に影響を与え続けてきた主要な教説を材料として提供すること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

道徳教育

【道徳教育においては、(a)自らの判断を押しつけず、(b)学生の判断力の養成を目的に、(c)各教説に含まれる最良の真理に焦点を合わせ、(d)人類に影響を与え続けてきた主要な教説を材料として提供すること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (5.6)道徳教育
  (5.6.1)道徳に関する教説の特徴
   (a)各教説は、何らかの真理を含む
    全体としては誤っているかもしれない体系ですら、何らかの真理を含んでいる。
   (b)各教説固有の無視し得ない真理
    各教説に含まれる真理は、他の体系でそれが無視されたり、過小評価される場合には、その体系の著しい欠点となるような重要な真理であることがある。
   (c)懐疑主義と折衷主義は誤っている
    道徳に関する教説には、正解がないという懐疑的な折衷主義は、誤っている。
  (5.6.2)道徳の教育方法
   (a)自らの判断を押しつけないこと
    教師は、ある一定の倫理体系の立場に立ち、他の体系すべてを排撃し、その体系のみを強く擁護することはしないこと。
   (b)学生の判断力を養成すること
    教師は、学生の判断を助長し陶冶することが、重要な任務であると考えること。
   (c)各教説の最良の真理に焦点を合わせる
    各教説に含まれる真理を理解するには、その教説に反対する人々の意見ではなく、各々の体系を支持する人々の意見に、耳を傾けるべきである。
   (d)重要な教説を、材料として提供すること
    人類に実際に影響を与え続けてきた道徳哲学の主要な体系について、最も有益な行為規則の確立と保持に役立て得るように、解説すること。

 「大学には道徳哲学の専門的な講義があるべきであり、また現にほとんどの大学にはそれがあります。しかし、私は、この講義が従来のものと少し違った形式のものであってほしいと思っております。つまり、できることなら、その講義は、論争的にならずに、かつまた独断に陥ることなく、もっと解説的であってほしいのです。学生に、今日まで人類に実際に影響を与え続けてきた道徳哲学の主要な体系についての知識を授けるべきでありますし、また学生は各々の体系を支持する人々の意見に耳を傾けるべきであります。その主要な体系とは、アリストテレス学派、エピクロス学派、ストア学派、ユダヤ教、キリスト教などの倫理体系のことです。但し、キリスト教はその解釈の違いから色々な教派に別れ、各教派の間には、キリスト教と古代ギリシャの各学派との間の相違と同じ程度の相違があります。また、学生に、倫理の基礎として採用されてきた種々の善悪の基準、例えば、一般的功利性、自然的正義、自然権、道徳感覚、実践理性の原理、等についての知識をも持たせるべきであります。これらのことを教える際、特に教師のなすべきことは、ある一定の倫理体系の側に立ち、他の体系すべてを排撃し、その体系のみを強く擁護することではなく、むしろ、それらすべての体系を人類に最も有益な行為規則の確立と保持に役立てる努力をすることであります。そのような倫理体系のなかで、長所のないものは一つもありません。また、ある体系の支柱になっていて、他の体系でそれが無視されたり、過小評価される場合、その体系の著しい欠点となるような重要な真理が、必ずしも常に明瞭であるとは言えないが、鋭い直感によって示唆されていないものは一つもありません。全体としては誤っているかもしれない体系ですら、そのなかで示唆されている部分的な真理に人類の関心を向けさせる力が十分ある限り、それは依然として価値があります。倫理学の教師は、他の体系のなかでより明確に認識されている真理をすべて考慮に入れることによって、各々の体系が自らの根底を揺るがすことなくいかに強化されうるか、その可能性を指摘するならば、自己の任務を立派に果たしていることになります。とは申しましても、教師は全く懐疑的な折衷主義を学生に奨励すべきであるなどと言うつもりはありません。教師が、各体系の最良の側面にできる限り焦点を合わせ、それらすべての体系から倫理学の本質と矛盾しない最も有益な結論を導き出そうと努める限り、それらのなかのどれか一つを優先させ、しかも自己の論法を駆使して、強く主張したとしても、私はそれを押し止めようとは決して思いません。理論的には誤っている体系でも、時として、正しい理論の完全性にとって欠くことのできない特殊な真理を含む場合もあります。無論、それらの体系がすべて真であるということはありえませんが。しかしながら、特にこの道徳の問題に関しては、先に取り上げた問題にもまして、自らの判断を学生に押しつけることなく、むしろ学生の判断を助長し陶冶することが、教師の重要な任務となります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,6 道徳教育と宗教教育,pp.69-71,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:道徳,道徳教育,道徳教育の方法)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月15日金曜日

戦争に伴う犯罪と苦痛を防ぐには、全ての市民が国際法を学び、自らの政府の行為に絶えず注意を払い、批判的な世論の形成が必要である。無関心で自分の意見を持たず、必要な抗議をしないことは誤っており害悪を生む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

国際法の教育

【戦争に伴う犯罪と苦痛を防ぐには、全ての市民が国際法を学び、自らの政府の行為に絶えず注意を払い、批判的な世論の形成が必要である。無関心で自分の意見を持たず、必要な抗議をしないことは誤っており害悪を生む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 (5.5)国際法
  (5.5.1)国際法とは何か
   (a)本来法律ではなく、倫理の一部、道徳的規則である。
   (b)起源においては、誠実と仁愛という道徳的原理が、国家間の交際に適用されたものである。
   (c)戦争が生み出す犯罪を減少させ、苦痛を軽減させるのが目的である。
   (d)この種の規則は、永遠に変化しないものではない。
   (e)この種の規則は、国民の良心が益々啓発され、社会の政治的要求が変化するに従って、時代とともに多かれ少なかれ変化してゆく。
  (5.5.2)国際法に関する知識と確実な判断力の必要性
   もちろん、外交官や法律家には必要なものである。
  (5.5.3)すべての市民が国際法を学ぶことの意義
   一国の行為が、国内的にも対外的にも、利己的で、背徳的で、圧政的であるか、それとも合理的かつ啓発的で、公正にして高貴であるかは、世論の一部を形成する個人個人が公的な業務に絶えず注意を払い、その細部にまで目を配る習慣を持っていることにかかっている。
   (a)黙認することの悪
    自分が選んだ代理人によって、もし、代理人に託した権限によって悪事が行われているにもかかわらず、そんなことに心を煩わしたくないという理由で、何の抗議もせず、黙認するようなら、正しいとは言えない。
   (b)関与しないことの悪
    自分がまったく関与しなければ、害になるはずがないというのは錯覚である。
   (c)意見を持たないことの悪
    また、自分が何の意見も持たなければ害になるはずがないというのも錯覚である。

 「以上のような学問に、更に国際法を付け加えたいと思います。国際法はすべての大学で教えられるべきであり、一般教養のなかの一科目になるべきであると私は固く信じています。この学問は、外交官や法律家だけにのみ必要とされるのでは決してなく、市民すべてにとっても必要なものであります。いわゆる「万民法」と言われているものは、本来法律ではなく、倫理の一部であります。つまり、文明国で権威あるものとして承認されている一連の道徳的規則に他なりません。確かに、この種の規則は、永遠に従う義務はありませんし、またそうあるべきではなく、国民の良心が益々啓発され、社会の政治的要求が変化するに従って、時代とともに多かれ少なかれ変化しますし、また変化しなければならないものであります。ところが、その規則の大部分は、その起源においては誠実と仁愛という道徳的原理が国家間の交際に適用されたその結果であり、また現在でもそうであります。つまり、この規則は、戦争が生み出す犯罪を減少させ、苦痛を軽減させるために、人類の道徳感情あるいは共通利益の認識から導入されたものであります。各々の国は世界の種々様々な関係にあり、多くの国々は――我が国もそのなかの一つでありますが――ある国に対して現実に権力を行使しています。それ故、国際的道義の確立された規則に関する知識は、すべての国にとって、従ってそのなかで国を構成し、その発言と感情とがいわゆる世論の一部を形成する個人個人にとっても、自らの義務を果たすための必要欠くべからざるものであります。自分がまったく関与しなければ、また何の意見ももたなければ害になるはずがないという錯覚で自己の良心をなだめるようなことは止めましょう。悪人が自分の目的を遂げるのに、善人が袖手傍観していてくれるほど好都合なことはないのです。自分の代理人によって、しかも自分が提供した手段が用いられて悪事が行われているにもかかわらず、そんなことに心を煩わしたくないという理由で、何の抗議もせず、黙認するような人間は善人ではありません。一国の行為が、国内的にも対外的にも、利己的で、背徳的で、圧政的であるか、それとも合理的かつ啓発的で、公正にして高貴であるかは、公的な業務に絶えず注意を払いその細部にまで目を配る習慣がその社会にあるかどうか、またその社会がその種の業務に関する知識と確実な判断力とをどの程度持ち合わせているかによることでしょう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,5 精神科学教育,(5)国際法,pp.65-66,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:国際法,戦争,道徳,世論,国際法の教育)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月14日木曜日

精神の諸能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などを学ぶことの意義は、(a)人間知性の成功と失敗例、(b)解決済と未解決問題の区別、(c)信念の暗黙の根拠、(d)言語の真の意味、(e)正しい論理などを考えさせ、解明へと動機づけることである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

心理学の教育

【精神の諸能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などを学ぶことの意義は、(a)人間知性の成功と失敗例、(b)解決済と未解決問題の区別、(c)信念の暗黙の根拠、(d)言語の真の意味、(e)正しい論理などを考えさせ、解明へと動機づけることである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (5.4)心理学 追加。

 (5.3)論理学
    論理学によって思考の訓練をすることで、(a)曖昧な考えを明確に表現し、(b)暗黙の前提を明らかにし、(c)論理的一貫性の欠如から誤謬が発見できる。(d)また、誤った一般化を避けるための帰納論理学も必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.3.1)論理学の役割
   (a)自分の考えを言葉にしてみることによって、曖昧な考えを明確な命題に書き換え、互いに絡み合った推論を、個々の発展段階に書き改めるように強要する。
   (b)暗黙の前提
    こうすることで、暗黙の前提、仮定に注意を向け、明らかにすることができる。
   (c)論理的一貫性
    また、個々の意見がそれ自体においても、また相互間においても、矛盾しないようにさせる。
   (d)誤謬の発見
    以上のようにして、自分の考えに曖昧な形で含まれていた誤りに、気づくことができる。
  (5.3.2)規則と訓練
   人間の行為は、規則を覚え訓練することにより、技能が向上する。思考の訓練も同じであり、論理学によって正しい方法を身につける必要がある。
  (5.3.3)演繹的論理学と帰納的論理学
   (a)演繹的論理学の手助けで、間違った演繹をしないようにする。
   (b)帰納的論理学の手助けで、間違った概括化を犯さないようにする。
    (i)特に人は、自分自身の経験から一般的結論を引き出そうとする際に誤る。
    (ii)また、自分自身の観察や他人による観察を解釈して、ある一般命題から他の一般命題に論を進めて行く際に容易に誤りを犯す。

 (5.4)心理学
  (5.4.1)精神の能力の解明
   (a)精神的能力のなかのどれが単純なものであり、どれが複合的なものであるか。
   (b)高度な精神作用は、どの程度まで観念連合によって説明がつくのか。複合的能力の構成要素は、一体何であるのか。
   (c)観念連合以外の基本的な諸原理を、どこまで認めなければならないのか。
  (5.4.2)精神と物質の関係
   (a)物質は、精神の能力との関係においてのみ存在する観念であるのか。
   (b)あるいは、物質は精神とは独立して存在している事実なのか。もし、独立しているとすれば、その事実についてわれわれはどんな性質の知識を持つことができるのか。
   (c)知識の限界はどこにあるのか。
  (5.4.3)人間の自由意志の問題
   (a)人間の意志は自由であるのか。
   (b)それとも、人間の意志は、種々の原因によって決定されているのか。
  (5.4.4)時間と空間
   (a)時間・空間とは、現実に存在するものなのか。
   (b)時間・空間とは、感性的能力の形式なのか。
   (c)時間・空間とは、観念連合によって作り出された複合観念であるのか。
  (5.4.5)心理学の教育の効用
   (a)精神の能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などについて、論争が実際にあることを知り、その論争の両陣営でどのようなことが主張されてきたかを概括的に知ることによって、以下の効用がある。
    (i)成功例と失敗例
     人間の知性の成功と失敗例を知ることができる。
    (ii)解決済と未解決問題の区別
     既に完全に解決のついた問題と、未解決な問題とを知ることができる。
   (b)論争があるような問題について考察することは、解決に向けての向上心を燃え立たせ、思考訓練にもなり、以下のような効用がある。
    (i)信念の根拠
     われわれの心の中の最も奥深い所にある確信の、根拠はいったい何なのかを考えさせる。
    (ii)言語の意味の解明
     習慣的に用いている語句の真の意味内容を考えさせる。また、言語の正確な使用を、益々強く求めるようになる。
    (iii)正しい論理の使用
     与えられた証明が正しいのかどうかを判断するとき、より注意深く、より厳密になる。

 「例えば、観念連合の法則がその一つであります。心理学は、そのような法則から成り立っている限り、――私はここでは法則そのものについて語っているのであって、議論の多いその適用についてではありません――化学と同じように実証的かつ確実な科学であり、科学として教えられるのにふさわしい学問であります。ところが、われわれが、以上のような既に容認されている真理の範囲を超えて、哲学の色々な学派の間で依然として論争されている諸問題、例えば、高度な精神作用はどの程度まで観念連合によって説明がつくか、他の基本的な諸原理をどこまで認めなければならないか、精神的能力のなかのどれが単純なものであり、どれが複合的なものであるか、そしてこの複合的能力の構成要素は一体何であるか、という類の問題、とりわけ、いみじくも「形而上学の大海」と言われた領域にまで乗り出して、例えば、時間・空間とは、われわれの無意識の印象のように、現実に存在するものなのか、あるいはカントによって主張されているようなわれわれの感性的能力の形式なのか、あるいはまた、観念連合によって作り出された複合観念であるのか、物質と精神はわれわれの能力との関係においてのみ存在する観念であるのか、あるいは独立して存在している事実なのか、もし後者であるならば、その事実についてわれわれはどんな性質の知識をもつことができるのであるか、またその知識の限界はどこにあるのか、人間の意志は自由であるのか、それとも種々の原因によって決定されているのか、更に、この二説の真の相違点は一体どこにあるのか、というこの種の問題、つまり、最も思考力に富んだ人々や、このような問題に専念して研究してきた人々の間でさえも未だに見解の一致を見るに到っていない問題に立ち入るならば、高度な思索を要求する領域に特に専念していないわれわれがこれらの問題の根底を究めようといかに努力しても、いかなる成果も期待しえないし、またその様な努力がなされるとも思われません。しかしながら、かかる論争が実際にあることを知り、その論争の両陣営でどのようなことが主張されてきたかを概括的に知ることも、一般教養教育の一部なのであります。人間の知性の成功と失敗、その完璧な成果とともにその挫折を知ることや、既に完全に解決のついた問題とともに、未解決な問題があることに気付くことも、教育上有益であります。多くの人々にとっては、このような論争の的となっている問題を概括的に見るだけで十分であるかもしれませんが、しかし教育制度というものは多数の人々のためにのみ存在するのではありません。それはまた、思想家として人の上に立つべき使命を担う人々の向上心を燃え立たせ、彼らの努力に手を貸す役割を果たさなければなりません。そして、実は、このような人々を教育するためには、あの形而上学的な論争によって与えられる思考訓練ほど有益なものは他にほとんどありません。と言いますのも、そのような論争は、本質的には、証拠の判定、信念の究極的根拠、われわれの心の中の最も奥深い所にある確信に根拠を与えるための諸条件、更にまた、われわれが幼児期以来あたかもすべて知り尽くしているかのように用いてきた語句で、しかも人間の言語の根底に位置するものであるにもかかわらず、形而上学者を除いては誰も完全に理解しようと努めなかった語句の真の意味内容に関わる問題であるからであります。形而上学的問題の研究の結果、どんな哲学的見解をもつようになるかは別として、その種の問題の議論を通じて、人は必ずものごとを理解しようとする意欲が更に強まり、思考と言語の正確な使用を益々強く求めるようになり、証明が一体どんな性質のものであるかを認識しようとする際、より注意深く、より厳密になります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(6)心理学(精神科学),pp.56-58,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:心理学,精神の諸能力,精神と物質,自由意志,時間と空間)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月13日水曜日

論理学によって思考の訓練をすることで、(a)曖昧な考えを明確に表現し、(b)暗黙の前提を明らかにし、(c)論理的一貫性の欠如から誤謬が発見できる。(d)また、誤った一般化を避けるための帰納論理学も必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

論理学の教育

【論理学によって思考の訓練をすることで、(a)曖昧な考えを明確に表現し、(b)暗黙の前提を明らかにし、(c)論理的一貫性の欠如から誤謬が発見できる。(d)また、誤った一般化を避けるための帰納論理学も必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (5.3)論理学 追加


 (5.2)科学教育
   科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.2.1)私たちがうまく活動できるかどうかは、世界についての諸法則の知識に依存している。
   (a)私たちは、生まれたときは、まだ何も知らない。
   (b)この種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵による。
  (5.2.2)事実と真理に到達するために、知性をどう適用させるかの訓練になる。
    個々の経験からの簡単な一般化によっては、真理や事実には到達できない。例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向に関する仮説からの演繹結果を、個々の経験によって検証することによって事実と判断される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)事実を素材として、知性を道具として、真理にどのように到達するか。
    双方の意見が、証拠によってではなく、先入観によって主張されているような場合は、真に経験的な知識による基礎固めをしておかなければならない。
   (b)事実から何が証明されるか。
    (b.1)科学的実験の仕方を正確に理解すれば、自分達の意見が経験的に証明されていると、それほど簡単に確信しないであろう。
    (b.2)簡単に一般化することが、いかに確実性に乏しいことも理解するであろう。
   (c)既に知っている事実から、知りたいと思う事実に達するには、どうすればよいか。
    (c.1)単なる表面的な経験によって暗示される結論は、それがそのまま真理ではない。
    (c.2)個々の特定な経験は、推論による結論を検証するに役立つにすぎない。
    (c.3)例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向についての仮説から演繹された結論の、個々の特定な経験による検証によって事実と判断される。すなわち、仮説の設定は「ある意味においては、ア・プリオリ的なもの」である。
    (c.4)あるいは、人間がもつ諸傾向についての仮説から演繹された、段階的に進化するとみなされている歴史過程についての結論の、個々の特定な歴史事象による検証によって事実と判断される。
  (5.2.3)科学的真理についての基礎的な知識が、一般の人々の間に普及される必要がある。
   科学的真理についての基礎的な知識が普及しないことの弊害。
   (a)普通の人は、何が確実で、何が確実でないかが分からない。
   (b)また、知られている真理を語る資格と権威をもっているのかが誰かも知ることができない。
   (c)その結果、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなる。(無知ゆえの不信感)
   (d)また、大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまうことになる。(虚偽への盲信)

 (5.3)論理学
  (5.3.1)論理学の役割
   (a)自分の考えを言葉にしてみることによって、曖昧な考えを明確な命題に書き換え、互いに絡み合った推論を、個々の発展段階に書き改めるように強要する。
   (b)暗黙の前提
    こうすることで、暗黙の前提、仮定に注意を向け、明らかにすることができる。
   (c)論理的一貫性
    また、個々の意見がそれ自体においても、また相互間においても、矛盾しないようにさせる。
   (d)誤謬の発見
    以上のようにして、自分の考えに曖昧な形で含まれていた誤りに、気づくことができる。
  (5.3.2)規則と訓練
   人間の行為は、規則を覚え訓練することにより、技能が向上する。思考の訓練も同じであり、論理学によって正しい方法を身につける必要がある。
  (5.3.3)演繹的論理学と帰納的論理学
   (a)演繹的論理学の手助けで、間違った演繹をしないようにする。
   (b)帰納的論理学の手助けで、間違った概括化を犯さないようにする。
    (i)特に人は、自分自身の経験から一般的結論を引き出そうとする際に誤る。
    (ii)また、自分自身の観察や他人による観察を解釈して、ある一般命題から他の一般命題に論を進めて行く際に容易に誤りを犯す。

 「もし諸君が自分が正しく思考しているかどうかを知りたければ、自分の考えを言葉にしてみればよいでしょう。言葉にしようとする正にその行為の過程で、自分が、意識的であれ、無意識的であれ、論理形式を用いていることに気付くでしょう。論理学は、われわれにわれわれが言わんとする意味を明確な命題に、そして推論を個々の発展段階に書き改めるように強要します。論理学は、その上に立って推論を進め、もしそれが誤りならば全過程が崩壊するような暗黙の仮定にわれわれの注意を向けさせます。論理学は、われわれに推論過程でどこまで立証すればよいのかを教え、従って、暗黙の前提を真正面から直視させ、それにわれわれが忠実に従っていかるかどうかの決定をわれわれに迫ります。論理学は、われわれの個々の意見がそれ自体においても、また相互間においても、矛盾しないようにさせ、たとえ正確に思考させるところまではできてくとも、われわれに明確に思考するように強制します。確かに、真理と同様に、誤謬もまた一貫性をもち、体系的でありうるでしょう。しかしこのようなことは一般的ではありません。自分の意見を形成する際に、当然承認しなければならない原理と帰結とを――さもなければ、自分の意見そのものを放棄せざるをえなくなるでしょう――はっきりと見定めることは、大変有益なことです。白日のもとで真理を探究すれば、われわれは真理の発見に更に一歩近づくことができます。誤謬というものは、そこに含意されている一切の事柄にまで厳しく追及の手をのばすと、必ずある既知の、公認されている事実と対立することになりますし、その結果、それが誤謬であることはほぼ確実に突きとめられることになります。
 論理学は思考の手助けにはなりえないとか、いくら規則を覚えても、ものの考え方は学べない、と言う人々に諸君はしばしば出会うことでしょう。勿論、訓練を積むことなく、単に規則だけを教えたのでは、何事においても大した進歩は期待できません。しかし、もし思考の訓練が規則を教えることによって更に一層効果的になるということがないならば、人間の行為のなかで、規則を教えることによって効果が上がらないものは、ただ思考だけであると、私は断言して憚らないでしょう。人は鋸の挽き方を、主に、練習で身につけますが、しかしその作業の性質に基づく規則があります。もしその規則を教わらなければ、それを自分で発見するまでは、上手に木を挽くことはできないでしょう。正しい方法と誤った方法がある場合には、両方の間には必ずなんらかの相違が生じるはずであり、またその相違がどんなものであるかを見付け出すこともできるはずであります。そしてその相違が一度見出され、言葉で表現されますと、それが、つまり、その作業の規則ということになります。とかく規則を軽視したがる人がいるものですが、私はその人にこう尋ねてみたい。規則のあるものならどんな仕事でもよいから、それをその規則を知らずに覚えてごらんなさい、そしてそれがうまく行くかどうかをみて下さい、と。」(中略)「演繹的論理学の手助けで間違った演繹をせずにすむように、帰納的論理学のお蔭で、更にそれ以上に一般的な誤りである間違った概括化を犯さずにすみます。ある一般命題から他の一般命題に論を進めて行く際に容易に誤りを犯すような人は、自分自身の観察や他人による観察を解釈する場合には、更にたやすく誤りを犯すものであります。論理的訓練を受けていない人々は、自分自身の経験から正しい一般的結論を引き出そうとする際に、最もあからさまに自分のどうしようもない無能ぶりを暴露します。また訓練を積んだ人々でさえ、その訓練がある特定な分野に限られ、帰納法の一般原理にまで及ばない場合には、彼らの推論を事実によってたやすく検証できる機会がない限り、誤りを犯します。有能な科学者達も、まだ事実関係が確認されていないような問題に敢えて取り組む時には、自分達の実験データから、帰納法の理論に照らせば全く根拠のないことが判明するような結論を平気で引き出したり、概括化を行ったりすることがよくあります。事実、練習だけでは、よしんばそれが適切な練習であっても、原理と規則がなければ、不充分であります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(4)論理学,pp.49-52,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:論理学,論理学の役割,暗黙の前提,論理的一貫性,誤謬の発見,帰納論理学)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年11月5日火曜日

個々の経験からの簡単な一般化によっては、真理や事実には到達できない。例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向に関する仮説からの演繹結果を、個々の経験によって検証することによって事実と判断される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

科学的方法

【個々の経験からの簡単な一般化によっては、真理や事実には到達できない。例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向に関する仮説からの演繹結果を、個々の経験によって検証することによって事実と判断される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(5.2.2)追加記載。

 (5.2)科学教育
   科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.2.1)私たちがうまく活動できるかどうかは、世界についての諸法則の知識に依存している。
   (a)私たちは、生まれたときは、まだ何も知らない。
   (b)この種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵による。
  (5.2.2)事実と真理に到達するために、知性をどう適用させるかの訓練になる。
   (a)事実を素材として、知性を道具として、真理にどのように到達するか。
    双方の意見が、証拠によってではなく、先入観によって主張されているような場合は、真に経験的な知識による基礎固めをしておかなければならない。
   (b)事実から何が証明されるか。
    (b.1)科学的実験の仕方を正確に理解すれば、自分達の意見が経験的に証明されていると、それほど簡単に確信しないであろう。
    (b.2)簡単に一般化することが、いかに確実性に乏しいことも理解するであろう。
   (c)既に知っている事実から、知りたいと思う事実に達するには、どうすればよいか。
    (c.1)単なる表面的な経験によって暗示される結論は、それがそのまま真理ではない。
    (c.2)個々の特定な経験は、推論による結論を検証するに役立つにすぎない。
    (c.3)例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向についての仮説から演繹された結論の、個々の特定な経験による検証によって事実と判断される。すなわち、仮説の設定は「ある意味においては、ア・プリオリ的なもの」である。
    (c.4)あるいは、人間がもつ諸傾向についての仮説から演繹された、段階的に進化するとみなされている歴史過程についての結論の、個々の特定な歴史事象による検証によって事実と判断される。
  (5.2.3)科学的真理についての基礎的な知識が、一般の人々の間に普及される必要がある。
   科学的真理についての基礎的な知識が普及しないことの弊害。
   (a)普通の人は、何が確実で、何が確実でないかが分からない。
   (b)また、知られている真理を語る資格と権威をもっているのかが誰かも知ることができない。
   (c)その結果、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなる。(無知ゆえの不信感)
   (d)また、大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまうことになる。(虚偽への盲信)

 「もし人々が、科学的実験を行う際にどれほど多くの細心の注意を払わなければならないかを知りさえすれば、例えば、実験対象に関わりのない要素すべてを排除するために、どれほど用意周到に随伴状況を設定、変更するかを、あるいは、妨げとなる要素が除去できない場合には、その影響力を正確に計算し、それを差し引いて、残りすべてが研究対象となっている要素そのものに起因するもの以外何も含まないようにするかを、知りさえすれば、つまり、これらの事に注意を向けさえするならば、自分達の意見が経験的に証明されているとそうも簡単に確信しないでありましょう。同様に、誰もが口にするようなありふれた考えや、一般化の多くも、当然そう思われているよりもはるかに確実性に乏しいと思われることでしょう。そこで、われわれはまず第一に、現在単なる曖昧な議論の対象にすぎなくなっている事柄、つまり、どちらの側にもそれ相当の言い分があり、双方とも確信をもって主張するがお互いの意見は証拠によってではなく、むしろ自分のその時の都合や先入観によって決定されるような事柄に関しては、真に経験的な知識による基礎固めをしておかなければなりません。例えば、政治において、直接的な経験からは実践的価値を伴う政治的判断は決してなしえないということは、実験科学の研究の後、政治学の研究に足を踏み入れた人ならば誰でもよく知るところであります。われわれがもつことのできる個々の特定な経験は、推論による結論を検証するに役立つにすぎないし、しかもその検証すら不十分なものであります。政治を現実に動かしている力ならどれでもかまいません。さあ、何かその例を取り上げてみましょう。例えば、イギリス人に付与されている自由の諸権利、あるいは自由貿易はどうでしょう。もしわれわれがこれらの政治的力自体のなかに繁栄を生み出す傾向性があることに全く気付かないとしたならば、どうしてそれらのどれもが繁栄に寄与すると知りうるでしょうか。もし経験と呼ばれるもの以外に何の証拠もないならば、われわれが現に享受している繁栄は、数多くの別の原因によるもので、自由の諸権利、自由貿易によって促進されるどころか、却って阻害させられると言われるかもしれません。真の政治科学はすべて、ものの諸傾向、つまり人間性についてのわれわれの一般的経験を通じて、あるいは、段階的進化とみなされている歴史過程の分析の結果から、知られる様々な傾向性からの演繹であり、ある意味においては、ア・プリオリ的なものであります。従って、政治科学においては、帰納と演繹の結合が必要となり、政治科学を研究する人は、あらかじめ帰納と演繹の二つの思考方法を十分訓練していなければなりません。ともあれ、科学的実験は、人がそれに慣れ親しめば、少なくとも、単なる表面的な経験によって暗示される結論に対して健全な懐疑を抱くようになる、という有益な役割を果たします。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(3)自然科学,pp.44-46,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:科学的方法,科学教育,科学教育の役割)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月3日日曜日

科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

科学教育

【科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(5.2)追加。

(5)一般教養教育の内容(各論)

 (5.1)他の国の言語や文化を学ぶこと
   自国において当然だと思われている意見や方法も、先入観や単なる習慣であり、修正され得るものである。外国の言語や文化を学ぶことは、意見や方法を修正し、自国の文化を豊かにするのに必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.1.1)意見や方法は修正され得るものである。
   (a)すなわち、自分とは異なる意見や方法も、正しいことがあり得る。
   (b)他の国には、学ぶべき多くの事柄がある。
   (c)他の国の言語を学習することが必要である。ある国の言語を知らなければ、我々はその国の人々の思想、感情、国民性を実際に知ることはできない。
   (d)なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解する。
  (5.1.2)我々の意見や方法は、正しい。この前提から出発すれば、我々は決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないであろう。
   (a)なぜなら、異なった別の意見や考え方があるとは夢にも思わない。
   (b)自分のとは異なる意見や考え方を耳にしたならば、そういう意見や考え方は道徳的欠陥、性格の下劣さあるいは教育程度の低さによるものだと考える。
   (c)すなわち、そのような考え方と習慣は、「本性」そのものになっている。

 (5.2)科学教育
  (5.2.1)私たちがうまく活動できるかどうかは、世界についての諸法則の知識に依存している。
   (a)私たちは、生まれたときは、まだ何も知らない。
   (b)この種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵による。
  (5.2.2)事実と真理に到達するために、知性をどう適用させるかの訓練になる。
   (a)事実を素材として、知性を道具として、真理にどのように到達するか。
   (b)事実から何が証明されるか。
   (c)既に知っている事実から、知りたいと思う事実に達するには、どうすればよいか。
  (5.2.3)科学的真理についての基礎的な知識が、一般の人々の間に普及される必要がある。
   科学的真理についての基礎的な知識が普及しないことの弊害。
   (a)普通の人は、何が確実で、何が確実でないかが分からない。
   (b)また、知られている真理を語る資格と権威をもっているのかが誰かも知ることができない。
   (c)その結果、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなる。(無知ゆえの不信感)
   (d)また、大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまうことになる。(虚偽への盲信)

 「科学が提供する知識は、単にそれだけで十分に、科学教育の有用性を自明なものとすることでしょう。われわれは、われわれの意志とは無関係な世界、つまり、様々な現象が一定の法則に従って生起している世界に、生まれるのです。そしてわれわれは、その法則については全く何も知ることなく、この世界にやってきたのであります。このような世界に住むことを、われわれは運命づけられ、すべての活動はそのなかでなされなければならないのです。われわれが完全に活動しているか否かは、世界についての諸法則の知識をもつか否かに、言い換えればわれわれがそれらを用いて働き、それらのなかで働き、それらに働きかけるその種の様々な事物の性質について知っているか否かに、かかっているのであります。われわれがもつこの種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵によるものであり、事実そうなのであります。他方、科学的真理についての基礎的な知識が一般の人々の間に行きわたらない限り、一般大衆は何が確実で、何が確実でないかを、あるいは、誰が権威をもって語りうるのか、誰がその資格をもちえないのかを決して知ることはないのです。そしてその結果、一般大衆は、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなるか、それとも、すぐに大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまう愚か者になるか、そのどちらかになってしまうでしょう。一般大衆は、無知故に不信感をもつという状態と、盲目的でしかもほとんど見当違いの確信をもという状態とをただ繰り返すことになるでしょう。他方、自分の眼前で起こっているありふれた物理的現象の原因について理解しようと思わない人が一体いるでしょうか。例えば、なぜポンプが水を汲み上げるのか、なぜ梃が重いものを動かすのか、なぜ熱帯では暑く、南極・北極では寒いのか、なぜ月は暗くなったり、明るくなったりするのか、潮の干満が起こる原因は何であるか、ということを知りたいと思わない人が本当にいるのでしょうか。このような事について全く無知な人は、たとえある専門的な職業に熟達しているとしても、教育のある人間ではなく、むしろ無教養な人間とみなされてもよいのではないでしょうか。宇宙についての最も重要で、しかも誰もが興味を抱く事実に関する十分な知識をわれわれに与え、われわれを取り囲むこの世界がわれわれにとって、理解できない故に全く面白くない、いわば一冊を封印された書物にしないことは、確かに、教育の重要な役割であります。しかしながら、こうしたことは科学の有用性の最も単純明解な部分にすぎず、青年時代にこの種の教育を受けなかったとしても、あとで容易に取り返しがつくものなのであります。これに対して、科学教育の価値は、人間本来の仕事に知性を適用させるための訓練あるいは鍛錬過程にあると理解する方がはるかに重要なのであります。 事実はわれわれの知識の素材であり、他方、精神は知識を作り上げる道具なのであります。そして事実を集積する方が、事実から何が証明されるかを、あるいは、既に知っている事実から知りたいと思う事実に達するにはどうしたらいいのかを判断するより、ずっと簡単なのであります。
 一生を通じて人間の知性が最も活発に働き続けるのは、真理を探究する時であります。われわれは、絶えず、あるなんらかの事柄について何が本当に真実であるかを知る必要があります。われわれと同世代の人々すべてにとってだけではなく、今後の世代の人々にとっても光明となるような偉大な普遍的真理の発見は、もとよりわれわれすべてのなしうることではありません。しかし、一般教養教育が改善されれば、そのような発見をなしうる人の数は現在よりはるかに増大することでありましょう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(1)科学教育の意義,pp.36-38,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:科学教育)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年11月1日金曜日

自国において当然だと思われている意見や方法も、先入観や単なる習慣であり、修正され得るものである。外国の言語や文化を学ぶことは、意見や方法を修正し、自国の文化を豊かにするのに必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

外国の言語や文化の学習

【自国において当然だと思われている意見や方法も、先入観や単なる習慣であり、修正され得るものである。外国の言語や文化を学ぶことは、意見や方法を修正し、自国の文化を豊かにするのに必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

他の国の言語や文化を学ぶこと
(1)意見や方法は修正され得るものである。
 (a)すなわち、自分とは異なる意見や方法も、正しいことがあり得る。
 (b)他の国には、学ぶべき多くの事柄がある。
 (c)他の国の言語を学習することが必要である。ある国の言語を知らなければ、我々はその国の人々の思想、感情、国民性を実際に知ることはできない。
 (d)なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解する。
(2)我々の意見や方法は、正しい。この前提から出発すれば、我々は決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないであろう。
 (a)なぜなら、異なった別の意見や考え方があるとは夢にも思わない。
 (b)自分のとは異なる意見や考え方を耳にしたならば、そういう意見や考え方は道徳的欠陥、性格の下劣さあるいは教育程度の低さによるものだと考える。
 (c)すなわち、そのような考え方と習慣は、「本性」そのものになっている。

 「ある国の言語を知らなければ、われわれはその国の人々の思想、感情、国民性を実際に知ることはできません。もしわれわれが他の国民についてのこの種の知識を持ち合わせていないならば、一生涯かけて自分自身の知性を開発したとしても、それは半分しか開発したことにはならないのであります。未だかつて一度も自分の家の外に出たことのないような若者を考えてみましょう。このような若者は、自分が教えられてきた意見や考え方とは異なった別の意見や考え方があるとは夢にも思わないことでしょう。あるいは、そのような人が自分のとは異なる意見や考え方を耳にしたならば、そういう意見や考え方は道徳的欠陥、性格の下劣さあるいは教育程度の低さによるものだと考えることでしょう。もし彼の家族が保守党員ならば、自分が自由党員になる可能性など全く考えられないし、反対に家族が自由党員なら、保守党員になる可能性などまったく考えられないわけです。一軒の家族がもつ考え方と習慣がその家族以外の人間と一切つき合ったことのない少年に及ぼす影響は、他の国についてまったく無知な人間に自国の考え方や習慣が及ぼす影響とほとんど同じだといってよいでしょう。そのような考え方と習慣は、その少年にとっては、本性そのものなのです。従って、自分の考え方や習慣と異なるものはすべて、彼にとっては、心の中ですら理解できない異常なものであり、そして自分のとは異なった方法も正しいことがありうる、あるいは、他の方法も自分自身の方法と同様、正しいものに向かいうるという考えは、彼には思いもよらないことなのです。こうした事は、単に、すべての国々が他の国から学ぶべき多くの事柄に今でもその眼をふさいでいるのみならず、そのような態度をとらなければ、各々の国が自らの力で成し遂げることのできる進歩までをも阻止することになります。もしわれわれの意見や方法は修正されうるものだという考えから出発しなければ、われわれは決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないでありましょう。外国人は自分達とは違った考え方をすると単に思うだけで、なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解するのでなければ、われわれのうぬぼれは増長し、われわれの国民的虚栄心は自国の特異性の保持に向けられてしまうでありましょう。進歩とは、われわれのもつ意見を事実との一致により近づけることであります。われわれが自分自身の意見に色付けされた眼鏡を通してのみ事実を見ている限り、われわれはいつになっても進歩することはないでしょう。しかしながら、われわれは先入観から脱却するなどということは決してできません。そこで、敢えて他の国民の色の違った眼鏡をしばしばかけてみること以外に、この先入観の影響を除去する方法は全くないように思われます。そしてその際、他の国民の眼鏡の色がわれわれのものと全く異なっていれば、それが最良であります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.20-21,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:外国の言語や文化の学習)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年10月31日木曜日

一般教養教育においては、広範囲にわたる様々な主題について、その主要な真理を正確に知ること。そして、各自の専門知識を一般的知識と結合させ、真の知識とは何かと、確実な知識の境界線を知ること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

一般教養教育の内容

【一般教養教育においては、広範囲にわたる様々な主題について、その主要な真理を正確に知ること。そして、各自の専門知識を一般的知識と結合させ、真の知識とは何かと、確実な知識の境界線を知ること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(4)一般教養教育の内容
 (4.1)広範囲にわたる様々な主題について、知ること。
  (a)一つの主題については、その主要な真理のみを知ること。全てを知ることはできない。
  (b)その主要な真理については、正確に徹底的に知ること。曖昧に知ることではない。
  (c)一つの主題についての、主要な真理以外については、そのことについて熟知している人が誰であるかを評価できる程度の知識を得ること。
 (4.2)自分自身の専門領域の知識を、一般教養教育で得た一般的知識と結合させること。
  (a)各々自分自身の領域で獲得した知識から、真の知識がいかなるものであるかを学ぶこと。
  (b)正しい思考原理と法則によって、理解力を訓練し、鍛え上げること。
  (c)われわれが確実に知っていることと、そうでないこととの境界線を明らかにすること。
(5)一般教養教育の社会的効果
 (5.1)実生活の重大関心事に関して、活発な世論を育て、質を向上させることができる。
 (5.2)政治と市民社会に関して、人々が思慮をもって適切に対処することができる。

 「人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄を知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させることであります。私の申し上げる一般的知識とは、漠然とした印象のことではありません。この大学の教科過程のなかで使用されている教科書〔『論理学概論』〕の著者である優秀な学者、ホエートリ大主教は、いみじくも一般的知識と表面的知識とを区別しました。一つの主題について一般的知識をもつということは、主要な真理のみを知ることであり、そしてその主題の肝心な点を真に認識するために、表面的ではなく、徹底的にその種の真理を知ることであります。小さな事柄は、その種のことを自分の専門的研究のために必要とする人々に任せれば宜しいのです。広範囲にわたる様々な主題についてその程度まで知ることと、何か一つの主題をそのことを主として研究している人々に要求される完全さをもって知ることは、決して両立しえないことではありません。この両立によってこそ、啓発された人々、教養ある知識人が生まれるのであります。そしてそのような人々は、各々自分自身の領域で獲得した知識から、真の知識がいかなるものであるかを学び、一方、他の領域の主題については、そのことについて熟知している人は誰であるかを知りうるに足る知識をもつでありましょう。但し、信頼しうる人物が誰であるかを判断するために必要となる知識の量を、われわれは軽く見積もってはなりません。重要な学問の諸原理が広く一般の人々の間にも浸透すれば、自らの学問領域で頂点に達した人々は、自分達の優秀性を正当に評価しうる能力をもち、しかも自分達の指導に喜んで従ってくれる一般民衆の存在に気がつくことになるでしょう。このようにしてまた、実生活の重大関心事に関して、世論を指導し、向上させる能力をもつ精神も形成できます。人間精神が扱うことのできる主題のなかで最も複雑なものは、政治と市民社会であります。それ故、一政党に盲目的に追従する人としてではなく、思慮ある人としてその双方に適切に対処しうる人になるためには、精神的、物質的生活両面の重要な事柄についての一般的な知識が要求されるだけではなく、正しい思考原理と法則によって、単なる生活体験、一科学または知識の一分野では提供しえない段階まで、訓練され、鍛え上げられた理解力が必要となるでありましょう。そこで、われわれの学問の目的は、単に将来自らの仕事に役立つような知識を少しでも多く身につけるということにあるのではないということ、むしろ、人間の利害に深く関わるありとあらゆる問題について、何らかの知識を、しかも正確に把握するよう気を配り、われわれが確実に知っていることとそうでないこととの境界線を明らかにすることにこそあるのだということを、確認しようではありませんか。そして、われわれの目的は、自然と人生について対極的に観る正しい見方を学ぶことであり、われわれの実際の努力に値しないような些細なことに時間を浪費することは、怠惰であることを心に銘記しておきましょう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.14-16,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:一般教養教育の内容)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年10月30日水曜日

いかに人間の知識が増加し、専門分野が細分化されていっても、一般教養教育と人間の学習能力は、専門分野固有の偏見や、専門外の事柄の理解・評価の無能力、価値のある諸目的への無理解という障害を乗り越えるだろう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

人間の学習能力への信頼

【いかに人間の知識が増加し、専門分野が細分化されていっても、一般教養教育と人間の学習能力は、専門分野固有の偏見や、専門外の事柄の理解・評価の無能力、価値のある諸目的への無理解という障害を乗り越えるだろう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)人間の学習能力への信頼
 (1.1)仮に、過酷な生活環境のもとにおいても、人間は一つの事柄についてしか知ろうと努力しないというものではない。
 (1.2)仮に、未来において人間の知識が膨大に増加してもなお、人間にとって大切な一般教養教育の必要性は益々必要となり、また人間の学習能力は、それを乗り越えていくことだろう。
(2)人間の知識は増加し、科学・技術の専門分野は細分化され、有用な知識の全領域の小さな一部分にすぎなくなる。
 (2.1)知識の増加
  人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかも未だかつてなかった速さで、現在増加している。
 (2.2)科学・技術の専門分野の細分化
  知識の各分野は、今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなる。
(3)仮に、一つの学問あるいは研究のみに没頭し、自分の専門以外のことについて全く無知であるならば、引き起こされる弊害がある。
 (3.1)特殊な専門分野固有の偏見
  特殊な研究に付きまとう、視野の狭い専門家が抱く偏見が、精神の内部に育ってしまう。
 (3.2)専門外の事柄の理解・評価の無能力
  幅広いものの見方に対して、その根拠を理解、評価できない無能力さを身につけてしまう。
 (3.3)価値のある人間的目的への無理解
  ごく些細な人間的欲望や、欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとって、意味のない存在になってしまう。

 「人間は既に最大限の効率で教えられているという暗黙の前提に立脚しながら、人間の学習能力に対して不思議なくらい低いこのような評価しか与えないことに関して、もう少し申し添えておくことに致します。そのような狭い考え方は、われわれの教育理念を低下させるだけではなく、もしそのような考え方を容認するならば、未来における人類の進歩に対するわれわれの期待は暗澹たるものになってしまうでありましょう。といいますのも、もしも、人間が、過酷な生活環境のもとでは、一つの事柄についてしか知ろうと努力しないのであれば、色々な事実が増加するに従って、人間の知性というものが一体どうなるのであろうかと思われるからであります。人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかも未だかつてなかった速さで、現在増加しております。知識の各分野は、今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなるでありましょう。そして、科学・技術のすべては、細分化され、遂には、各人が分担する部分、つまり各人が完全に知る領域と有用な知識の全領域との比率関係は、あたかもピンの頭をつけるという技術と人間の産業界の全領域との比率と同じになってしまうでありましょう。さて、もしそのような些細な部分を完全に知るためには、人はそれ以外のすべてのことについて全く無知でなければならないとするならば、間もなく人は、ごく些細な人間的欲望や、欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとっては、全く無意味は存在になってしまわないでしょうか。人間のこのような状態は、単なる無知以上に悪い結果を生みだすことでありましょう。他の学問あるいは研究すべてを排除して、一つの学問あるいは研究のみに没頭するならば、必ずや人間の精神が偏狭になることは、既に経験によって知るところであります。このような場合、精神の内部に育つものは、特殊な研究に付きまとう偏見であり、またそれとともに、幅広いものの見方に対してその根拠を理解、評価できない無能力さ故に、視野の狭い専門家が共通して抱く偏見であります。人間性というものは、小さなことに熟達すればするほどますます矮小化し、偉大なことに対して不適格になっていくであろうと予測せざるをえません。しかしながら、今日、事態はそれほど悪化しておらず、そのような暗い未来を想像させる根拠は全くないのであります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.13-14,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:人間の学習能力,専門分野の細分化,一般教養教育)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年10月26日土曜日

人は、専門技術の賢明かつ良心的な使用においても、悪用おいても有能であり得る。人間の知性全体における専門技術の位置づけと原理、価値ある諸目的、技術の正しい使用法へと導くのが、一般教養教育である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

一般教養教育の役割

【人は、専門技術の賢明かつ良心的な使用においても、悪用おいても有能であり得る。人間の知性全体における専門技術の位置づけと原理、価値ある諸目的、技術の正しい使用法へと導くのが、一般教養教育である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「専門技術をもとうとする人々がその技術を知識の一分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術のなかに吹き込むかによって、つまり、教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植え付けたかによって決定されるのであります。人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのであります。そしてその種の人々を有能でしかも賢明な人間に育て上げれば、後は、彼ら自身の力で有能で賢明な弁護士や医師になることでしょう。専門職に就こうとする人々が大学から学びとるべきものは、専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当てて正しい方向に導く「一般教養の光明」をもたらす類のものであります。確かに、人間は、一般教養教育を受けなくとも、有能な弁護士となることはできますが、しかし哲学的な弁護士、つまり、単に詳細な知識を頭に詰め込んで暗記するのではなく、ものごとの原理を追求し、把握しようとする哲学的な弁護士となるためには、一般教養教育が必要となります。このことは、機械工学を含む、他の有用な専門分野すべてについても言えることである。靴屋を職業としている人について言えば、その人を知性溢れた靴職人にするのは、教育であって、靴の製造法の伝達ではないのであります。言い換えますと、教育によって与えられる知的訓練とそれによって刻み込まれた思考習慣とによってであります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,2 大学教育の任務――一般教養教育の重要性,pp.4-5,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:一般教養教育の役割)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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