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2019年8月26日月曜日

29.人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

真理の一部をその全体と誤解すること

【人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追記。

(1)伝統的な意見
  単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。
 (3.2)真理の一部を全体と誤解する誤謬
  人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりは、むしろ真理の一部をその全体と誤解することである。
 (3.3)論争における弊害
  社会哲学における論争においては、双方の意見を乗り越えて真理に迫ろうとするよりも、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれる。その結果、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるというような事態になる。
 (3.4)例として、人類は文明によって、どれほどの利益を得たかという問題
  (3.4.1)経済システムの恩恵と弊害、制約
   (a)物理的な安楽が増大したこと。
   (b.1)人類のきわめて多くの部分が、人為的な必要品の奴隷となり果てていること。
   (b.2)文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点で無数の足かせに縛られて悩んでいること。
  (3.4.2)知識の進歩
   (a.1)知識が進歩し普及したこと。
   (a.2)迷信がすたれたこと。
  (3.4.3)文化一般と人間の個性
   (a)礼儀作法が優雅になったこと。
   (b)彼らの性格が、情熱に欠け面白味の無いものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること。
  (3.4.4)交流と独立心
   (a)相互交流が容易になったこと。
   (b)誇り高くして自らを頼む独立心が失われたこと。
  (3.4.5)分業の効果と人間の諸能力
   (a)大衆の協力によって、地球上の至るところに諸々の偉大な事業が成就されたこと。
   (b.1)即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって、己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力に比較して、決まりきった規則に則って、決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力。
   (b.2)彼らの生活が、退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと。
  (3.4.6)戦争、個人的闘争と人間の性格
   (a)戦争と個人的闘争とが減少したこと。
   (b.1)個人の精力と勇気とが減退したこと。
   (b.2)彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること。
  (3.4.7)直接的な圧制から富と社会的地位による支配へ
   (a)強者が弱者の上に及ぼす圧制が、漸次制限されてゆくこと。
   (b)富と社会的地位との甚だしい不平等が、道義的な退廃を醸し出していること。

 「人間と社会との研究家で、しかもそのように困難な研究にとっての第一要件、すなわちその研究にともなうもろもろの困難についてのしかるべき認識、を備えている人は皆、絶えずつきまとう危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりはむしろ真理の一部をその全体と誤解することである、ということを知っているはずである。社会哲学における、過去または現在の、主な論争は、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるということ、また、いずれの側にせよ、そもそも己の見解の上に相手の見解を加味することができたならば、その教説を完全なものにするためには、それ以上にほとんど何ものをも要しなかったであろうということ、以上のことは、まず間違いなく主張しうるところであると言ってよいだろう。人類は文明によってどれほどの利益を得たかという問題を例にとってみるがよい。ある観察者は、物理的な安楽が増大したこと、知識が進歩し普及したこと、迷信がすたれたこと、相互交流が容易になったこと、礼儀作法が優雅になったこと、戦争と個人的闘争とが減少したこと、強者が弱者の上に及ぼす圧制が漸次制限されてゆくこと、大衆の協力によって地球上のいたるところにもろもろの偉大な事業が成就されたこと、以上のことによって強烈な印象をうける。こうして彼は、あのきわめてありふれた人物、すなわち「わが開明の時代」の礼賛者となるのである。しかるに、他の観察者は、これらの利益の持っている価値にではなしに、これらの利益を得るために支払われた高価な代償に、もっぱらその注意を向ける。すなわち、個人の精力と勇気とが減退したこと、誇り高くして自らをたのむ独立心が失われたこと、人類のきわめて多くの部分が人為的な必要品の奴隷となり果てていること、彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること、彼らの生活が退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと、彼らの性格が情熱に欠け面白味のないものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること、決まりきった規則にのっとって決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力と、即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力と、この両者の間にいちじるしい対照が感じられること、富と社会的地位とのはなはだしい不平等が道義的な退廃をかもし出していること、文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点では野蛮人の場合とほとんど変わらないにもかかわらず、野蛮人が必要物の供給のうえの不便さの代償として持っている自由と刺激との代わりに、無数の足かせに縛られて悩んでいること、などがそれである。こうしたことに、しかももっぱらこうしたことのみに、注目する人は、野蛮生活は文明生活よりも望ましいものであり、文明の作用は、できる限り、抑制されるべきものであると推論しがちになるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.138-139,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:真理の一部をその全体と誤解すること)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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