ラベル 宗教 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 宗教 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年11月22日金曜日

義務や正・不正に関する諸個人の感情は,(a)利害と欲求,(b)様々な感情,(c)支配階級の影響を受けた社会道徳,(d)宗教,(e)理性による判断などの影響の下で形成された習慣であり,その意見は好みの表明に過ぎない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務や正・不正に関する諸個人の感情

【義務や正・不正に関する諸個人の感情は,(a)利害と欲求,(b)様々な感情,(c)支配階級の影響を受けた社会道徳,(d)宗教,(e)理性による判断などの影響の下で形成された習慣であり,その意見は好みの表明に過ぎない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)~(3)追記。

(1)諸個人の道徳感情
 (1.1)自分たちの道徳感情
  自分や自分と同じ意見の人たちが、そう行動して欲しいと望むように、全ての人が行動すべきだという感情である。
 (1.2)道徳感情に影響を与える諸要因
  (1.2.1)各人の欲求や恐れ、自己利益
   (a)社会的な感情
   (b)妬みや嫉み、驕りや蔑みといった反社会的な感情
  (1.2.2)偏見や迷信
   (a)社会道徳は、かなりの部分、支配階級の自己利益と優越感から生まれている。
   (b)世俗の支配者や、信仰する神が好むか嫌うとされている点への追従がある。この追従は本質的には利己的なものだが、偽善ではない。
  (1.2.3)理性による判断
   社会全体の利益に関する理性的な判断
(2)個人の独立と社会による管理の均衡
 (2.1)個人の独立
 (2.2)社会による管理
  (2.2.1)法律
   法律によって、何らかの行動の規則が定められる必要がある。
  (2.2.2)世論
   法律で規制するのが適切でない多数の点については、世論によって規則が定められる必要がある。
(3)義務や正・不正に関する判断
 (a)それは「自明なこと」ではない
  異なる時代、異なる国では、様々な考えが存在した。しかし、その時代、その国の人々は、その考えが自明なことであり、説明の必要があるとは考えていない。
 (b)それは人間の本性ではなく習慣である
  その考えは習慣であるが、常に第1の天性、人間の本質とさえ理解されてきた。
 (c)それは「好み」の表明ではない
  その考えが、理由によって裏付けられていないのなら、単なる好みの表明に過ぎないことになる。
 (d)それは多数派の「好み」でもない
  また、多数派に支持されているという理由であれば、多数派の好みに過ぎないことになる。
(4)義務や正・不正の起源と性質
  義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、「義務や正・不正の感覚・感情論」は誤っており「義務や正・不正の理性論」が真実である。
 (4.1)義務や正・不正の感覚・感情論
  私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (b)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (4.2)義務や正・不正の理性論
  道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (4.2.1)理性と計算の問題
   道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (4.2.2)経験的な証拠に基づく理論
   道徳問題は、議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (4.2.3)目的の連鎖と行為の結果
   道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (a)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (b)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (c)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (d)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓↑
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓↑
 行為が生み出す帰結:行為の価値


  (4.2.4)究極的目的(第一原理)の役割
    複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (i)個々の二次的目的については、人々が合意することができても、特異な状況においては異なる複数の二次的目的どうしが、互いに対立する事例が生じる。これが、真の困難であり複雑な点である。
   (ii)二次的目的が対立し合うような状況で、もし、より上位の第一原理が存在しなければ、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張し合うことになり、これ以上は議論が進まないことになる。このような場合に、第一原理に訴える必要がある。
   (iii)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

  (4.2.5)人間事象の複雑性と、意思決定の困難さ。
   (i)行為の規則を、例外を必要としないような形で作ることができない。
   (ii)ある行為を為すべきか、非難されるべきか、決定することが困難な場合もある。
   (iii)特異な状況における意思決定には、ある程度の裁量の余地が残り、行為者の道徳的責任において選択される。
 「個人の独立と社会による管理の均衡をうまくとるにはどうすべきかという実際的な問題になると、解決されている点はほとんどないのが現実である。誰にとっても、自分の生活を生きるに値するものにしようとすると、他人の行動を制限することが不可欠になる。したがって、まずは法律によって、そして法律で規制するのが適切でない多数の点については世論によって、何らかの行動の規則が定められていなければならない。その規則がどのようなものであるべきかは、人びとの生活にとって主要な問題である。しかしこの問題は、いくつかの目立った例外があるが、全体としては理解がとくに遅れている。その理由はいくつもある。どの二つの時代、ほぼどの二つの国でみても、この問題への答えが同じだということはない。ある時代、ある国の答えは他の時代、他の国の人にとって理解しがたいものである。ところがどの時代、どの国の人も自分たちの答えに問題があるなどとは思わず、人類がはるか昔からその答えに同意してきたかのように考えている。自分たちの間で確立した規則は自明だし、根拠を示す必要すらないと思えるのである。ほぼどの時代、どの国でもこのように錯覚されているのは、習慣というものの魔術を示す例のひとつである。習慣は第二の天性だといわれるが、それだけでなく、つねに第一の天性だと誤解されているのだ。以上のように、人々が互いに課している行動の規則は、習慣になっているために疑問が持たれにくいのだが、それだけではない。行動の規則については一般に、他人に対しても自分に対しても理由を示す必要があるとは考えられていないので、習慣の影響がさらに強くなっているのである。人は通常、この種の問題では理性よりも感情の方が重要なので、理性的な判断によって理由を明確にする必要があるわけではないと考えているし、哲学者として認められたいと望む人もこの考えを後押ししている。人が行動の規則に関する意見で実際に指針としているのは、各人の心のなかにある感情、つまり、自分や自分と同じ意見の人たちがそう行動してほしいと望むようにすべての人が行動すべきだという感情である。もちろん、判断の規準が自分の好みだとは、誰も認めようとしない。しかし、行動に関する意見は、しっかりした理由によって裏付けられていないのであれば、その人の好みだといえるにすぎない。そして理由があげられていても、同じような好みをもつ人が多いというにすぎないのであれば、ひとりの好みではなく多数の人の好みだといえるだけである。しかし自分の好みは普通の人にとって、道徳や好き嫌い、礼儀のうち、自分が信じる宗教の信条にはっきりとは書かれていない部分について、完全に満足できる理由だし、それ以外の理由は考えていないのが通常である。信条にはっきりと書かれている点についてすら、自分の好みがそれを解釈する際の最大の指針になっている。このため、称賛すべき点と非難すべき点についての各人の意見は、他人の行動に関する望みを左右するさまざまな要因から影響を受けている。そして、どのような問題でもそうであるように、この問題でも各人の望みに影響を与える要因はきわめて多い。ときには理性による判断であり、ときには偏見や迷信であり、社会的な感情の場合も多いし、妬みや嫉み、驕りや蔑みといった反社会的な感情の場合も少なくない。だが、もっとも一般的な要因は各人の欲求や恐れ、つまり各人の自己利益であり、これには正当なものと不当なものとがある。支配階級がある国では、その国の社会道徳は、かなりの部分、支配階級の自己利益と優越感から生まれている。古代スパルタの市民と奴隷、アメリカの植民者と黒人、国王と臣民、領主と農奴、男と女などの関係を規定する道徳は大部分、支配階級の利益と感情から生まれたものである。被支配階級との関係によって生み出された道徳感情は、支配階級内部の人間関係を規定する道徳感情にも影響を及ぼす。これに対して、過去の支配階級が支配的な立場を失った社会や、支配階級による支配が嫌われるようになった社会では、支配に対する強い嫌悪がその社会で一般的な道徳観の特徴になっていることが多い。もうひとつ、大きな要因をあげよう。行動すべき点と行動してはならない点の両面にわたって法律や世論によって強制されてきた行動の規則を決める大きな要因に、世俗の支配者や信仰する神が好むか嫌うとされている点への追従がある。この追従は本質的には利己的なものだが、偽善ではない。そこからまったく純粋な憎悪の感情が生まれる。魔術師や異端者を焼き殺すほどの憎悪が生まれるのである。以上にあげてきたように、道徳感情にはさまざまな低級な要因が影響を及ぼしており、そのなかでもちろん、社会全体の明らかな利益がひとつの要因、それも大きな要因になっている。だが、社会全体の利益に関する理性的な判断や、社会全体の利益そのものよりも、そこから生じた好悪の感情の方が、大きな影響を与えている。そして、社会の利益とは無関係な好悪の感情が、道徳の確立にあたって社会の利益と変わらないほど大きな影響を与えているのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.17-21,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:義務や正・不正に関する諸個人の感情,欲求,道徳感情,自己利益,感情,偏見,迷信,社会道徳,宗教,理性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
ジョン・スチュアート・ミルの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2018年5月9日水曜日

想像力は、感官や理性の代理人となり真の判定、善の実行を助けるが、想像力自身に真や善の権威が付与されるか、それを僭称している。信仰の問題で、想像力は理性の及ばないところまで高まる。比喩と象徴、たとえ話、まぼろし、夢。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

想像力と信仰

【想像力は、感官や理性の代理人となり真の判定、善の実行を助けるが、想像力自身に真や善の権威が付与されるか、それを僭称している。信仰の問題で、想像力は理性の及ばないところまで高まる。比喩と象徴、たとえ話、まぼろし、夢。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
(a) 悟性と理性は、決定と判定を生む。
(b) 意志と欲望と感情は、行動と実行を生む。
(c) 想像力は、感官と理性の代理人あるいは「使者」の役割をつとめる。
 感官が、想像力に映像を送ってはじめて、理性が「真」であると判定を下す。
 理性が、想像力に映像を送ってはじめて、理性の判定「善」が実行に移される。すなわち、想像はつねに意志の運動に先だつ。能弁によって行われるすべての説得や、事物の真のすがたを色どり偽装するような、説得に似た性質の印象づけにおいて、理性を動かすのは、主として想像力に訴えることによるのである。
(c') 想像力は、感官や理性からの「真」や「善」の伝言の使者に過ぎないのではなく、それ自身決して小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称している。すなわち、感官や理性の伝言を超えて、自ら「真」や「善」の権威を僭称する。
(d) 信仰と宗教の問題において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであって、それこそ、宗教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこうとした理由なのである。

 「人間の精神の諸能力に関する知識には二つの種類がある。

すなわち、その一つは人間の悟性と理性に関するものであり、他の一つは人間の意志と欲望と感情に関するものである。

そしてこれらの能力のうちさきの二つは、決定あるいは判定を生み、あとの三つは行動あるいは実行を生む。

なるほど、想像力は、双方の領域において、すなわち、判定を下す理性の領域においても、またその判定に従う情意の領域においても、代理人あるいは「使者」の役割をつとめる。

というのは、感官が想像力に映像を送ってはじめて理性が判定を下し、また理性が想像力に映像を送ってはじめてその判定が実行に移されることができるからである。それというのも、想像はつねに意志の運動に先だつからである。

ただし、この想像力というヤヌス〔二つの顔をもつローマの神〕はちがった顔をもっていないとしてのことである。というのは、想像力の理性に向けた顔には真が刻まれ、行為に向けた顔には善が刻まれているが、それにもかかわらず、
 「姉妹にふさわしいような」〔オウィディウス『変身譚』二の一四〕
顔なのであるから。

なおまた、想像力は、ただの使者にすぎないのではなく、伝言の使命のほかに、それ自身けっして小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称している。

というのは、アリストテレスの至言のように、「精神は身体に対して、主人が奴隷に対してもつような支配力をもっているが、しかし理性は想像力に対して、役人が自由市民に対してもつような支配力をもっている」〔『政治学』一の三〕のであって、自由市民も順番がくると支配者になるかもしれないからである。

すなわち、われわれの知るように、信仰と宗教の問題において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであって、それこそ、宗教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこうとした理由なのである。

それからまた、能弁によって行われるすべての説得や、事物の真のすがたを色どり偽装するような、説得に似た性質の印象づけにおいて、理性を動かすのは、主として想像力に訴えることによるのである。」

(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一二・一、pp.207-208、[服部英次郎、多田英次・1974])

(索引:想像力、感官、理性、意志、宗教、信仰)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)


(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


フランシス・ベーコン(1561-1626)
フランシス・ベーコンの本(amazon)
検索(フランシス・ベーコン)


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング

2018年2月27日火曜日

デカルトの第一格率:理性による判断が決意を鈍らせ不決断に陥らせるような場合には、私を育ててきた宗教、聡明な人たちの穏健な意見、国の法律、慣習に服従することで、日々の生活をできるだけ幸福に維持すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))

デカルトの第一格率

【デカルトの第一格率:理性による判断が決意を鈍らせ不決断に陥らせるような場合には、私を育ててきた宗教、聡明な人たちの穏健な意見、国の法律、慣習に服従することで、日々の生活をできるだけ幸福に維持すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
私のさまざまの判断において、理性が決意を鈍らせているあいだにも、生活はできるだけ幸福につづけてゆき、自分の日々の行動にかぎっては不決断におちいらぬようにしなければならない。そのためには、私を幼時から育ててきた宗教をつねに守りながら、またその他のすべての事においては、最も聡明な人たちが実践上では一般に承認する最も穏健な意見に従って自分の舵を取りながら、国の法律および慣習に服従してゆくのがよい。
 「ところで、自分の住居を改築しはじめるより前に、これを取り払い、多くの材料と建築家を用意し、あるいはみずから建築術を習得し、なおまた綿密にその設計図を作成したりするだけでは十分でなく、その上さらに別の家を準備し、そこで仕事をするあいだも、気持ちよく暮らせることも必要であると同じように、私のさまざまの判断において理性が決意を鈍らせているあいだも、生活はできるだけ幸福につづけてゆき、自分の日々の行動にかぎっては不決断におちいらぬようにと、三、四の格率から成るにすぎないが、私は自分のために当座の準則を作ったのである。私はそれを諸君に伝えたい。
 第一の格率は、神の恵をもって私を幼時から育ててきた宗教をつねに守りながら、またその他のすべての事においては、私がともどもに生きてゆかねばならぬ人々のうちの、最も聡明な人たちが実践上では一般に承認する最も穏健な、極端からは最も遠い意見に従って自分の舵を取りながら、国の法律および慣習に服従してゆこうということであった。なぜというに、その当時から自分自身の意見などはこれをすっかり再検討したかったし、そういうものはいわば無視してかかったようなものであってみれば、最も聡明な人々の意見に従うに越したことはないと私は確信していたからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『方法序説』第三部、p.34、[落合太郎・1967])
(索引:デカルトの第一格率、宗教、法律、慣習、意見)

方法序説 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
デカルトの関連書籍(amazon)
検索(デカルト)
ニュース(デカルト)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2