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2022年2月8日火曜日

たとえ満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が制限されれば不自由である。特に、困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も同じだ。また、精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は自由の行使に必要だが、また別問題である。自由行使に必要な知識もまた同じ。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

保護主義的不自由、自由と知識

たとえ満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が制限されれば不自由である。特に、困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も同じだ。また、精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は自由の行使に必要だが、また別問題である。自由行使に必要な知識もまた同じ。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)保護主義的な不自由について
(a)満足なものでも「合理的なもの」でも、選択肢が少なければ不自由
「物理的」なものであれ「精神的」なものであれ、ある人の選択の領域が狭い場合、その人がその状態に満足しているにせよ、また人が合理的になれば唯一の合理的な道が彼にそれだけ明瞭になり、複数の道の間で動揺しなくなるであろうということがどれだけ真実であるにせよ (私はこの命題は誤っていると思う)、このいずれの状況によっても彼がより広い選択の幅 を持つ人よりも必ずや自由であるということにはならないであろう。

(b)困難で障害のある選択肢を閉ざす場合も不自由
 障害の横たわっている道 に入りたいという願望を除去することによって障害を除 けば、心の静安、満足、あるいは知恵までもが大きくなるかもしれない。しかし自由は大きくならない。

(2)自由と知識の問題
(a)精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和
 精神の独立、人格の一貫性、健康と内面の調和は、きわめて望ましい条件であり、この条件はかなりの数の障害を除去する。またこれは、他のすべての自由のための必要条件である。しかし、だからといって問題の自由があるかどうかとは、別問題である。

(b)自由であることを知ること
 どのような道が前にあるか、それがどれだけ開かれているかをよりよく知れば、それだけ自分が自由であることを知るようになるであろう。知らなかったけれども扉は開いていたのだということを後になって発見した人は、無知について後悔しても、自由の欠如について後悔することはないであろう。

(c)自由の行使に必要となる知識
 知識が自由の行使にとって不可欠の条件となることもあろう。その 途上にある障害がそれ自体で自由剥奪、つまり知る自由の剥奪となることもある。無知は道を 閉ざす。知識は道を開く。


「「物理的」なものであれ「精神的」なものであれ、ある人の選択の領域が狭い場合、その 人がその状態に満足しているにせよ、また人が合理的になれば唯一の合理的な道が彼にそれだ け明瞭になり、複数の道の間で動揺しなくなるであろうということがどれだけ真実であるにせ よ(私はこの命題は誤っていると思う)、このいずれの状況によっても彼がより広い選択の幅 を持つ人よりも必ずや自由であるということにはならないであろう。障害の横たわっている道 に入りたいという願望、さらにはその道についての意識さえも除去することによって障害を除 けば、心の静安、満足、あるいは知恵までもが大きくなるかもしれない。しかし自由は大きく ならない。精神の独立――正気と人格の一貫性、健康と内面の調和――は、きわめて望ましい条件 であり、かなりの数の障害を除去することによって、それだけの理由で自由の一種と見なされ る資格を有しているであろう。しかしその自由は、多くの種類の自由の中の一つでしかない。 ある人は、この種の自由は他のすべての自由のための必要条件であるという意味で、少なくと も独自性があるというかもしれない。私が無知で執念にとらわれ非合理的であるならば、私は そのことによって事実にたいして盲目になり、こうして盲目になった人は事実上、可能性が客 観的に閉ざされている人と同様に自由でないことになる、というのである。しかし私には、この種の議論は正しいとは思えない。私が自分の権利に無知であり、あるいは神経症にかかって (あるいは貧乏であるがために)その権利から利益を得られないでいれば、それは私にとって 無用のものとなるであろう。しかし、だからといってその権利が存在しないことにはならな い。他の開かれた扉に連なる路上に、一つの扉が閉ざされているという状態なのである。自由 の条件(例えば知識、金銭)が破壊されている、あるいは不足していることは、自由そのもの が破壊されていることではない。自由の価値は自由の利用可能性にかかっているとしても、自 由の本質は自由の利用可能性に依存していない。より多くの大道を歩むことができ、その大道 がより広く、それぞれの大道がさらに多くの道に向かって開かれていれば、それだけ人は自由 である。どのような道が前にあるか、それがどれだけ開かれているかをよりよく知れば、それ だけ自分が自由であることを知るようになるであろう。自ら知らずして自由であることが、痛 烈な皮肉になる場合もある。しかし、知らなかったけれども扉は開いていたのだということを 後になって発見した人は、無知について後悔しても、自由の欠如について後悔することはない であろう。自由の範囲は行動の可能性にかかっており、その可能性についての知識に依存して はいない。もちろん、その知識が自由の行使にとって不可欠の条件となることもあろう。その 途上にある障害がそれ自体で自由剥奪――つまり知る自由の剥奪となることもある。無知は道を 閉ざす。知識は道を開く。しかしこれが自明の理であるからといって、自由は自由の意識を含 むことにならないし、ましてや自由と自由の意識とが同じであえるということにもならな い。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.288-290,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

バーリン選集2 時代と回想 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




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